試験会場入場
「停電……か? クソッ!」
男が扉を蹴った。
あたしはその光景を、壁に背をつけながら茫然と見ているだけだ。
気を取り戻して、はやる心臓を落ち着かせるように少しだけ息を止めて、長く吐き、周りを見渡す。
男が言ったように、停電かと思ったが、電気は落ちてない。
エレベータの故障。不運に不運は重なるのかと、他人事みたいに感じたが、自分に起こった現実だった。
緊急用のボタンを押そうと手を伸ばす。しかし、その手は男に捕まれた。ヒヤリとした男の手は、あたしの体温を奪うみたいで、嫌だった。
「なにをしてやがる」
あたしは無言で男を睨み付ける。あんた一生ここにいるつもり? そう言ってやりたかったが、煽るのが得策でないことくらい理解している。
「勝手な真似すんじゃねえよ」
上からものを言われることに慣れていないあたしは、男の言動に逐一苛々が募っていった。
男の手を振り払うと、あたしは隅に移動し、座り込む。
「可愛くねえガキだな」
可愛いなんて思ってもらわなくて、結構だ。
あたしは震える指を誤魔化すようにコートの裾を握り締めて、蹲るみたいにして足を抱えた。
恐怖で震えている? 当たり前だ。
あたしは痛いのも怖いのも、苦しいのだって好きじゃあない。
知らない大人の男の人。しかも不審者。エレベータの故障。怖くない筈がない。
誰か助けて、と思い浮かんだその誰かの顔が、土方歳三やダーウィンの教科書写真だった。挙げ句、縦穴式住居や黒船が浮かんだりと、人ですらなくなってきた辺り、あたしの青春は終わっている。けれど、不本意ながら落ち着きもし、そんな自分に自己嫌悪を覚えた。
男は寒そうに身震いをして、パーカーのポケットに手を突っ込み、あたしと同じように床に尻をついた。
そりゃあ寒いだろう。今は冬だ。それなのに男はパーカーとジーンズのみ。反対に、あたしはコートで中はセーターを着用している。意外と自分はちゃっかりしていて、それが少し可笑しかった。
あたしがクスリと笑みを浮かべると、男は怪訝そうにあたしの顔を見た。
「普通この状況で笑えるか? どんな度胸してんだよ。気持ち悪い奴だな」
不審者に異常者扱いされたくない。
確かに、思い浮べた面々や物等、思春期の女子にあるまじきもので、少し、ちょっとだけ、異常かも……しれない……けれど、こんなものは不審者に比べたら全くマシだ。
口をへの字に曲げて、つきそうになった溜め息を押し殺す。
何故このようなことになったのか理由と事例を交えて、二百字以内で説明せよ。なんて、自分に問い掛けてみたけれど全く答えが浮かばない。
明後日は模試なのに、頭が働いてない。その事に恐怖を感じ、常備している単語帳を捲ってみた。
うん、頭に入れた分は覚えている。安心した。
単語帳を戻し、息をつくと、男があたしの方を見ていることに気が付いた。
視線が合うと、男は不自然に顔を逸らす。その仕草が気になって、あたしは眉を潜める。
あたしが忘れているだけで、男とあたしはどこかで接触があったのかもしれない。
もう一度男を見る。年のそう離れていない大人の男の人の知り合いなんていたかな。いや、いない筈だ。
今度は、目を細めて男を観察する。
最近、少し視力が落ちてしまったのか、視界が見えにくく、「目つき悪くなってるよ」と、弟や周りに言われるくらいには生活に支障をきたしている。
それにしても……誰なのだろう、全く見覚えがない。けれど、顔を反らすということは、あたしに顔を見られたくないと思っていて、知り合い、若しくは一度でも接触した可能性があるからだよね。
ううん……もう一つの可能性として、ナイフを突き付けたくらいだ、顔を覚えられたくないと思っていての行動かもしれない。うん、多分それだ。
でも、なんだろう。
こう、なんだか喉元に引っ掛かっているものがあるみたいで、凄くもどかしい。
あたしはこの男を知らない。知らないけれど、引っ掛かる。それは、まるで、答えのない問題に挑んでいるみたいだった。
こういう時は手放した方が良い。一度置けば、後でまた違った見方が出来るはず。