受付
突き付けられたものに、あたしは目を見張った。
「騒ぐなよ」
そう言いながら男は、手にした物騒なナイフをちらつかせ、あたしの周りを見渡す。
そんな男から視線を離さず、一瞬だけ息を吸って、あたしは『閉まる』のボタンを指で強く叩く。
強く押しても弱く押しても、無機質なそれの閉じる早さは変わらない。けれど遅くとも閉じる。機械独特の稼働音がして、ドアは容赦なく閉まろうとした。
「この、クソガキッ」
目の前の男は切羽詰まった様子で、閉まりきる前にドアの間に体を割り込ませた。
男はパーカーにジーンズ……全身黒ずくめで、フードを目深に被っていた。その上、色のついた眼鏡をしてるから顔が良く見えない。艶のある黒い髪が、フードから覗く。
あたしの髪は軽く癖がある上に、水泳をしているから少し色が抜けていて、そんな艶が羨ましい。男のくせに、なんて悪態をつきたくなった。
「なめた真似しやがって」
男はあたしを睨み付ける。そして、思い出したかのように武骨なナイフをあたしに突き付けると、男の口の端が上がった。
高校受験を控え、連日連夜勉強に明け暮れるあたしは、ラジオを聴きながら、今日も真面目に参考書に向き合っていた。
そして、夜も深まった頃、シャーペンの芯が切れたことに気付き、気分転換も兼ねて、近くのコンビニまで買いに行くことにしたのが……事の始まりだ。
雨が降っていたから、レインコートを着て、雨の日用の靴を履き、少し前に買った新しい傘を下ろす。子供っぽいって一つ下の弟にからかわれた黄色の傘だけれど、あたしは気に入っている。
早足でコンビニに向かい、目当てのシャーペンの芯を買って、レインコートのポケットにしまう。人通りの少ない道を少し不安に思いながら、来たのと同じ速度でマンションの玄関に入った。傘から雨雫を払い、ポケットからハンカチを出してコートの雨雫も少し払う。
マンションは八階建てで、あたしの家は六階にある。
日常的にエレベータを利用しているあたしは、エレベータのボタンを押して、開いた先の、誰もいない中に入る。
おんぼろマンションに申し訳程度についている、おんぼろエレベータはお世辞にも綺麗とは言えないし、広くもない。だから、三階辺りで止まった時には、相席は嫌だな、なんて、ぼうっとしながらも少しだけ気が重くなっていたのだ。
ここまではごく普通の、ありきたりな、日常と変わりない。
変わったのは、開いた扉の向こう側に不細工なナイフをあたしに突き付けた男がいた、そこからだ。
狭いエレベータの中、不恰好なナイフを引っ提げた男と二人きり。
知らない男の筈だ。鋭いナイフを突き付けられるほど、誰かに恨まれるようなことをした覚えなんてないし、第一、恨まれるようなことをするくらいなら、一個でも数式を覚える方が建設的だ。
えぇ……と、こういう不測の事態が起きた時はどうしたら良いのかな。
現国、数学、物理、生物、英語、道徳……どの教科書にも対処法は載っていない。
あ、そうだ!
不審者と遭遇した時は警察に通報する。けれど、あたしは携帯電話を持っていないし……それなら、人に助けを求める、か。
いや、そもそも、こんなエレベータ内で助けを求めるなんてできない。
大声を出してみようか?
逃げ場がないのに、大声なんてだそうものなら、余計に危ない目にあうのでは?
「なんだよ、女っつーのは煩くぴーぴー喚いたりするもんだろう?」
詰まんねぇ。そう吐き捨てるみたいに呟き、男は扉を閉めた後、その前に立ち塞がるようにして腕を組みながら扉にもたれかかった。
あたしは何か言おうと口を開いたが、言うべき言葉が無いのに気が付き、すぐに口を閉じる。
男の舌打ちが響く。
泣いたり喚いたりした方が良かったのかな。良く解んない。怖いけど、だからと言って泣きたいってわけじゃあないし、泣いて体力を消耗するくらいなら、円周率を唱えた方がよほど落ち着く。
3.14159 26535 89793……
エレベータは一度六階に止まった後、一階を目指して降りている。
不意にガタンと何かにぶつかるような音。揺れる視界。あたしは突如襲ったエレベータの揺れにバランスを崩し、壁に背中を打ちつけた。胃がせり上がるような感覚を残し、静かになる。
状況は更に悪化したみたい。だって、あたしと男を乗せたまま……エレベータが止まりやがったのだ。