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異行  作者: yoho
その1
1/46

001

 いつだっただろう、その傷――ううん、傷と呼ぶには陳腐で矮小過ぎる痕が俺の腕につけられたのは。

 気付いておけばよかった。いや、まあ、気付くまいとして気付かなかった訳ではないから、何の意味もない後悔なんだけど。ああ、それを言ったら、意味のある後悔なんてないのか。











 俺が自分自身の体の異変に気が付いたのは、その頃だった。

 春といえば、誰もが恋しがるインディアンの掛け声のような(ウララ、と言いたいのだが、インディアンがウララ、なんて言うのかどうか定かではないから、べつにどうでもいい)暖かい季節。というのが一般的な印象だが、その実、花粉症で鼻がグジュルグジュルだとか、新しい環境での生活に不安があるだとかで、春が嫌いな人間も少なくはない筈だ。

 かくいう俺もその春が嫌いな人間の内の一人で、理由はというと、花粉症と、新しい環境への不安だ。

とはいえ、去年、専門学校へ入学して、今年は学年が上がるだけでクラス替えもないので、後者の理由は、今回は俺には関係ない。


「お前、花粉平気なの?」


 友人にそう言われて、違和感を感じた。

 そういえば、そうだ。昨日まで鼻水をすする音で教師の声は耳に入らないし、目をこすっていてホワイトボードの文字は見えやしなかった。一応、花粉症対策の薬を飲んではいるのだが、効きやしない。

 薬は水で飲まないと駄目だと以前どこかで聞いたことがあるが、これもそのせいで、お茶で飲んでいるから駄目なんだろうか。いやでも、お茶って体によさそうだし。昔はファンタで飲んでたけど、お茶ならいいだろ。たぶん。


「んん、何だか、今日は調子がいいみたいだ」


 その程度の認識しかなかった。

 実際、今までにもあんまり花粉症の症状が出ない日はあったし。それの最上級だろう。そんな程度に考えていた。











 星山ヶ城ほしやまがじょう情報専門学校。

 田舎から見れば都会。都会から見れば田舎。そんな中途半端な都市の、駅から徒歩30分くらいの距離の所にある、情報系の専門学校。

 入学してから今までのおよそ一年間で、学生生活に支障を来たさない程度の人間関係は作ることができた。

 学校生活において、群れを作る作らないでは、大きく差が出る。例えば、休み時間に、次の授業が移動教室だというのにも関わらず、仮眠をとっている場合。大抵は寝過ごして授業の途中で教室に入って行き、大して仲良くもないクラスメイト達から白い目で見られ、堪える必要もない冷たい笑いを堪えられるのだ。こういった時に友人がいれば、移動教室だというので起こしてくれる。もし起こしてくれなかったとしても、遅れて教室に入っていったその時に、何らかのアクションをしてくれる。これだけで、神経の図太くない遅刻魔の心というのは大分救われるのだ。

 ちなみに俺が所属しているこのクラス。デザイン科は、男子10名、女子6名の系16人のクラスだ。そんな少数の学科が幾つも集まって、現在この専門学校は200人あまりの在学生を抱えている。

 その16人の中で俺が比較的親しいのは、席が前後関係にある中村。毎朝、利用している通学中の電車内での女子高生の様子を俺に伝えてくるのが彼の日課だが、正直、興味がない。俺は自分の目で見たものしか信じない。

 悲しいことに中村以外との交友関係は、普通。用があれば話すし、用がなければ話さない。女子の中には会話をしたことがない人間だって確かいる。











 虫に刺された痕だった。

 それに気付いた。いつ刺されたのかは分からない。痒みもなかったので、目で見るまで気にならなかった。痕の中心には少し血が出て固まった跡があり、その周りは赤く腫れていた。放っておけば治るだろうと、その場は無視した。虫だけに。しかし、その夜。俺は右腕に猛烈な痒みを感じて目を覚ました。

 痒い、痒い。痒い。痒い。かゆい……うま…(うまくはない)。

 ぼりぼりぼり、と、掻き毟っているつもりだったのだが、寝ぼけていたためか、その行為は何の意味もないことに最初は気付かなかった。

 腕が、硬い。

 とげとげの塗装をしてある建物の外壁を想像してほしい。あんな感じ。

既にはっきりとした意識のあった俺は、とんでもない大病にかかってしまったのでは、そう思い、カーテンを開け、月明かりで腕の状態を確認した。

 そこにあったのは、今日(この時の時刻が定かではないが、もし深夜の12時を超えていたのなら、この場合は昨日)の昼間まで、というか部屋の電気を消して布団に入るまでに見ていた俺の腕とは大きく違った何かだった。

 黒々とした艶のあるそれは、先ほど触れた感触にそぐわぬように、刺々しい、言わば甲殻のような外見をしていた。指の先は釣り針のように尖り、間接毎にグロテスクな突起ができている。これは――


「来てしまったか、この時が…!」


 俺はそう呟いた。

 意味が分からない。俺はそんな時は知らない。

 冷静さを欠いているとしか思えない。

 ともかく痒みが治まらない。とんでもなく痒い。痒いヤバイ痒い。

 無事な左手で掻いてみても、鋼のような硬さを誇る右腕の前では、何の効果も得られない。アイスピックを右腕に突き立てて、ぐりんぐりんとかき回してやりたいくらいだ。どうにもこうにも掻けないので、何かに右腕を叩きつけてみることにした。とりあえず、自分のベッドに。


「どふう!」


 木製のベッドを叩き割ったような音を立てて、木製のベッドは叩き割れた。

 ――叩き割ってしまった。


「ベッドが…割れた…!?」


 意味深なトーンだった。意味はなかった。

 ベッドじゃ駄目だ。ベッドじゃ柔らか過ぎる。もっと硬い物に叩きつけないと、この右腕はびくともしない。

 窓の外に目をやる。そうだ、お外、出よう。窓ガラスまで割らないよう、左手で普通に戸を開け、ふっと外へ飛び出した。俺の部屋の窓の外にベランダはないので、ふっと外へ飛び出したということは地上一階の道路へダイブしたということなのだが。普段ならそんなこと、できないし、しないんだけど。何故か、やってしまった。できる気がしたのだ。実際、足には特に痛みもなく、着地できた。できてしまった。


「これは、スパイダーマンよろしく虫に刺されて身体能力が上がるという、スパイダーマン的スパイダーマン現象…」


スパイダーマンじゃねえか。


「『アメイジング・スパイダーマン』は観たか?まあお約束のストーリーでも面白いのが、洋画の魅力だよな」


 不意に声をかけられた。わけの分からない状況で、わけの分からないダイブをして、わけの分からない独り言を呟いていたら、わけの分からない返答が返って来てしまった。

 わけが分からない。


「あ、あの、誰ですか……?」


 俺は恐る恐る、俺の右手側3メートル先にいる男に話しかけた。背が高く、ワイシャツにベストを着込んでいる男に。

 普通、右腕がとげとげのパジャマの人が家の二階から飛び降りて来たら、それこそ恐る恐る話しかけるべきなんじゃないか。いや、逃げるべきなんじゃないか。

 いや、まあ、逃げないということは、つまり、この人は変なんだろうな。


「俺か。俺はからすまくら。お前の名前も聞いておこうか」

「俺は、外喰そとはみかなめ……です」


 深夜の出会い。男二人、自己紹介から始まった。気持ち悪い。

 ところで私、腕の痒みが抑えられず、この男――鴉の自己紹介の半分くらいの辺りから、腕をぶんぶん振り回している。俺の自己紹介は腕を振り回しながらのシュールなものとなってしまった。


「そうか、外喰。お前のその右腕、それは異能というものだ」


 い、いのう……。いのうというのはつまり……。


「日本地図を描いたあの…」

「そうだ。この俺も異能力者だ」


 おそらく彼の肯定は、俺の問いに対するものではないんだろうということは、何となく理解できた。


「俺の異能は、身体が異常に頑丈になる『孤独の亡骸ハンコック』。物事には名前があって然るべきだそうだから、この場ではあえて恥を忍んでこの異能を名前で呼ぶが、異能の名前というのは、自分で決めるわけでも誰かから決められるわけでもなく、最初から決まっているそうだ」

「へ、へえー…」


 つまり、何が言いたいんだこの男は。


「つまり、何が言いたいんだお前は」


 あ、ため口で喋っちゃった。


「ふうむ…。同じ異能力者として、お前を迎えに来た。仲間にしようと企んでいる」


 企んじゃったのかよ……悪意が感じられる言葉だよ……。


「いや、だいぶ待てよ。説明が足りないと思います!」

「お前は今夜今晩、異能が発現したというわけだ。…その、虫に刺されたのがきっかけかどうかは分からんがな。そして、目覚めた異能の力は少なくとも2,3年はまあたぶん消えることはない。お前はどうしてもその力と付き合っていく必要がある」


 肝心な部分がアバウトじゃねえか。


「そこで、俺と、俺の仲間のところに招待してやろうというわけだ。連中も皆、異能力者だ。お前の助けになれるだろう」

「………………」


 唐突過ぎる。とんでもねえ。ヒャア、とんでもねえ。


「外喰、男は決断力だとよく言うが、それは大体その通りだと俺は思う」


 何だそのやる気のない後押し。馬鹿にしてんのか。


「うーん……。あのさ。これ、この腕。その、異能……が、消えるまで、ずっとこのままなのか?」

「いや、たぶん違う」


 さっきからはっきりしろよ。きっぱり断言しろよ。不安になるだろ。


「外喰、お前の異能はおそらく変身能力だ。抑えようと思えば抑えられる。というか、しようと思わなければ出ては来ない」

「めちゃくちゃ抑えようとしてるんですがそれは…」


 ふう、と軽いため息をついて、鴉は言う。


「初回は制御できないというのは、何事においてもお約束だ。最初は違和感があるものさ。初めての射精の時の感覚は、それ以降とはものが違ったろう?」


 た、確かに……!分かりやすい。分かりやすいけど死ね。


「と、とにかく、今はこの痒みを止めたいんだ。手伝ってくれないか?」

「ふうむ、お前がさっきから腕を必死に振り回しているのは、その痒みが原因か?」


 そうなんだよ。異能に詳しいなら早く助けてくれ。こちとらもう手首より上が冷えっ冷えなんだ。


「残念だがそれは無理だな」

「えっ」


 何…だと…。頼りにならねえ…。


「いや、無理じゃなかったな」


 無理じゃないのか。


「お前のその異能、俺とはまた違った具合だが、皮膚が硬質化するようだな。日常的な方法ではとても痒みを和らげることはできまい」

「じゃあ、どうすればいいんだ」

「こうする」


 そう言うと鴉は、振り回していた俺の右手首を掴んだ。そして空いていたもう片方の手で俺の右二の腕を掴む。俺よりだいぶ身長が高い鴉だったが、そんな彼にとってちょうどいい高さに俺の腕を持って来たところで、思い切り、膝で蹴り上げた。


「いっぎぃ……!」


 右腕に猛烈な熱さを感じる。痛みか痒みか分からないが、これは痛みだ(分かった)。


「何しやがる!」


 混乱しながら怒る俺を無視し、鴉は追い討ちをかけてくる。

 手首だけを掴んだままで、その長い足を上げると、そのまま思い切り、今度は腕を踏みつけた。右腕は硬質化しているおかげで激烈な痛みを感じることはないが、踏みつけられた腕に引っ張られ、俺は体全体のバランスを崩してその場にべたりと倒れこんだ。


「お前が窓から飛び出してくる前、破壊音が聞こえたが、大方、家具か何かに腕を叩きつけたんだろう。それで正解だ。対象のチョイスを間違えたようだが、方法は正解だ」


 衝撃を与えるしかないってことか…。だからといって、夜道で見知らぬ男にリンチにされるというのは、中々に恐ろしい体験である。


「しかし何だ」


 鴉が呟く。


「めんどくせえな」


 右の頬に強い衝撃を感じた。

 俺の体は宙に浮かび、2メートル程先の地面に叩きつけられた。


「あぎいいい……!」


 右側の歯が、全部折れたんじゃないかと思った。全部は折れてないかもしれないけれど、ほとんど折れただろう。

 右頬が熱い。口から出血が止まらない。


「………………」


 何故だ。どうして鴉は俺の顔を蹴った。右腕の痒みを和らげるためには、暴力しかないということは分かったけど、何で顔を蹴る必要があったんだ。

 涙目になりながら俺は、鴉に講義した。


「お、おいからふ……。顔お蹴るのに、い、意味はあうのか……?」


 うまく喋れねえ。

 鴉の表情が、怖い。と言っても、会ったその時からこんな顔をしていたような気もする。


「めんどくせえ。異能力者が発現したというから、勧誘に来たんだが、こうも面倒くさいことになるとはな。いっそ、粛正派に付こうとしたから始末した、と。そう言ってしまおうか」


 やばい。

 この男は、俺が血と肉の塊になるまで、こうやって俺を蹴り転がすつもりだ。


「だから勧誘班は嫌なんだよな。異能でなく、性格で処遇を決めてもらいたいものだ」


 鴉が何に対して文句を言っているのか分からないが、このままだと、殺される。

 抵抗しなくては。

 体を起こす。

 さっき蹴られた右腕だが、折れてはいない。というかもう痛みもない。

 反撃するなら、こいつを使うしかない。

 足に力を込める。


「うっ?」


 地面を蹴った次の瞬間、これはあくまで俺自身の体感的な表現だが、いつもの4倍くらいの速度で、俺の体は前へと進んでいた。

 窓からダイブした時もそうだったが、体が軽い。

 ――まるで、虫みたいに。


「ぐう!」


 鴉は俺から目を逸らしてはいなかった。こちらを見ていた。俺が走って攻撃してくるのも分かっていただろう。

 でも、避けられなかった。

 俺からは、鴉の動きがスーパースローに見えた。

 俺としても思わぬ速度だったし、彼にとっても思わぬ速度だったのだろう。そんな思わぬ速度から繰り出す俺の攻撃を受けて、鴉の体は吹っ飛んだ。30メートルくらい。

 曲がり角の家の塀にひびを入れて、そこでようやく鴉の体は止まった。ゆっくりと起き上がった鴉は、大してダメージはなさそうだったが。


「強いな。相当に強い。俺よりも、強い」


 鴉に思い切り叩き付けたおかげで、腕の痒みは軽減された。痒いところ手がに届いたような感覚だ。とても気持ちがいい。不思議な快楽に満たされた俺の耳に、鴉の言葉はあんまり入っては来なかった。


「俺より強いお前をやるのには、時間帯も場所も悪過ぎる。追って来るならそこで相手をするが、まあ今日はやめておけ。俺は帰る」


 俺にはお前を追う理由がないわ。ちくしょうめ。帰れ。二度と来んな。

 当然、未だに混乱しているし、困惑しているし、昏倒したいくらいだった。一通り分かりやすい説明ももちろん欲しかったが、とにかく、とりあえず、この状況から脱出したかった。











 鴉が帰るのを見送ってから(語弊がある)、俺はご近所さんが出て来ないうちに、自分の家に戻った。窓から。

 家に入ってしばらくしたら、右腕は元に戻った。棘がみるみる引っ込んでいき、肌の色も二の腕と同じ薄橙色に戻った。よかった。とりあえずはよかった。これで来週から右腕を包帯ぐるぐる巻きにした痛い格好で登校しなくてすんだ。いや、それでも、べつにテンション上がるんだけど。それとそうだ。口の周りが血でべたついて気持ち悪い。俺は洗面所に向かった。











 洗面所で口をゆすいでいて、気付いたことがある。

 さっき、暗いながらも月明かりと街頭に照らされて、転がっていくのが見えたのに。

 恐る恐る舌で確認したけど、そこにもう硬い物はなかったのに。

 全て生え変わって、もう奥から出て来る物は何もないというのに。

 鴉に蹴られて折れたはずなのに。

 俺の口内には、きっちり綺麗に、歯があった。

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