シュタインヘーガー
初めて弥生を見たとき、伏し目がちに喋るその姿が、祐斗の印象に残った。もう半年ほど前になるだろうか。週末の宵の口のことだ。
女の子の二人連れで、会社の同僚という間柄のように祐斗の目には映った。
二人はカウンターに並んで腰かけ、弥生ではない方がカシスソーダを頼んだ。弥生は、私もと言いかけてやめた。その視線の先は、カウンター奥の棚に並んだボトルの一角にあった。そして、なにか楽しそうに見える笑みを浮かべながら言ったのだ。シュタインヘーガーを頂けますか、と。
祐斗が弥生に興味を持ったのは、そのときだった。珍しい、そう口に出したわけではない。ないが、祐斗は少し驚いて、弥生の顔を盗み見た。
シュタインヘーガーはドイツで作られる、オールドタイプと呼ばれるジンの一種だ。現在ジンは、大まかにオランダ系のジュネバとイギリス系のドライジンの二つに分けられる。シュタインヘーガーはオランダ系のジュネバ=ジンだった。ドライジンとは違い、カクテルベースには用いない。ジュネバは強く冷やして濃い風味を楽しむ酒だ。どちらかと言えば女子よりは男子に好まれることが多い。もちろん女子にも酒呑みはいるし、男子よりアルコールが強い女子も珍しくないことは、祐斗も承知していた。シュタインヘーガーはオランダ産のジュネバよりは柔らかい風味を持つが、それでもストレートを頼んだ弥生を意外だと思ったのは、その見た目からだったろう。
淡いグリーンのスーツは、二十代半ばであろう弥生にはよく似合っていた。セミロングの髪の毛の色は薄く、化粧は地味な方だ。女を感じさせる色気が少なく、かもし出す雰囲気はどこか儚げでおとなしかった。シュタインヘーガーを好むようなタイプとは思えないな、と思ったことを祐斗は記憶している。
話しかけたのがどちらからだったか、祐斗はよく覚えていない。自分と好みの酒が似ている、というのはとってつけた理由。ひとめぼれとまではいかないが、弥生のひととなりに祐斗が惹かれたのは事実だった。
――しかし、週末の夜だというのに女性ふたりでとは……
三人で飲み、軽く打ち解けたところで、祐斗は冗談めかして笑った。すると、弥生の友人は良い機会だと捉えたふうに、自分は結婚していてそろそろ帰らなくてはいけないこと、弥生はまだ飲み足りないみたいだから置いていく、ということを早口で言った。
弥生は慌てて、そんな、私も帰ります、と半ば腰を浮かしかけた。
――まあまあ、まだもう少し、いいじゃありませんか。言ってしまってから祐斗は自分に驚いた。かなり強い口調だったことにも。自分がこういうことを言えるタイプだなんて、まったく思っていなかった。
祐斗に気圧されたように、弥生は浮かしかけた腰を椅子に戻した。弥生の華奢な肩をぽんぽんと叩いて、友人は出口に向かう。弥生は困ったような顔を祐斗に見せた。そして結局、シュタインヘイガーのお代わりを頼んだ。
その日が最初だった。それから祐斗と弥生は、週に一度は会っている。
祐斗の胸に芽生えた微かな好意は、日に日に増していった。今では弥生に対して、はっきりと愛情を抱き始めている。
しかし、ふたりの関係は発展することがなかった。会う約束さえ交わしたことがない。二人が出会った店で、会えば話をしながら飲む。ただ、それだけ。祐斗も自分の淡い気持ちを告げるようなことはしていない。
祐斗は恐れていた。告白して、受け入れてくれたなら何も問題はない。断られたら…… そう考えると怖いのだ。傷つくのが怖いわけではない。二人の間に妙なしこりでも生まれ、もう会えなくなることを恐れた。
――まだ間に合う。今なら、まだ。
祐斗は自分にそう言い聞かせた。だいたい、十も年齢は離れている、馬鹿な考えは捨ててしまえ、と。今なら気持ちを捨ててしまっても、立ち直れる。間に合う。そうだ、間に合うのだ。
そんな葛藤を胸に巣食わせた祐斗に、また今日という日がやってきた。週末の今日、弥生は店に入ってきた。ドアの開く気配を感じて、祐斗が入り口を見やる。弥生は祐斗の顔を見て、伏した目を上げて、少し微笑みながらいつものようにカウンター席に座った。
「え~と、なんにしよう」
その弥生の言葉を受けて、祐斗は目を見開いた。出会って以来、弥生は必ずといっていいほど、シュタインヘーガーを飲んでいたからだ。祐斗の視線に気づいたのか、弥生は恥ずかしそうにした。
「今日はね、ちょっと、別のにしときます」
そう言って弥生は、クイーンズカクテルを注文した。
「珍しいね。ひょっとして、シュタインヘーガーは飽きちゃった?」
「そういうわけじゃないけど、ちょっと……」
祐斗の問いに、弥生は首を小さく振って口を開いた。
「……恥ずかしいから、かな」
弥生の答えに、今更? という疑問符を胸に抱く。しかし、なんとなく追求も出来ず、祐斗はいつものように、どうということもない話を続けた。
そのうち祐斗は、携帯電話を見る弥生の回数がいつもよりも多いことに気づいた。待ち合わせだろうか。しかし、たまに友人と連れ立って来ることはあっても、この店で待ち合わせてということはなかった。ひょっとしたら…… 祐斗の胸はにわかに寂しさを感じた。そのとき、勢いよく店のドアが開いた。
「おーい、いるかぁ」
大声をあげながら、そのスーツの男は入ってきた。日に焼けた顔が、右、左と忙しなく動いている。やがて男は弥生を見て、カウンターに近寄ってきた。弥生の顔がお日様のように輝く。
「おう、なんだ弥生。先に飲んでたのか」
「ご、ごめん」
弥生は謝りながらも、どこか嬉しそうな顔をした。
「ふ~ん。まあ、いいけどよ。で、ここかぁ。弥生が贔屓にしてる店って。たしかに落ち着いた感じで、うん、いい店じゃん」
祐斗は胸の中でため息をついた。いつかこういう日がやってくるだろうとは思っていた。ただ、もう少しイイ男だったら良かったな、という思いが一瞬よぎる。しかし、さっきの弥生の輝いた笑顔を見れば、自分が何かを言う権利などどこにもない。それを判っている祐斗は、複雑な心境を隠して笑いながら、男に声をかけた。
「いらっしゃいませ。何にいたしましょう」
男は脱いだ上着を弥生に預けて、今はじめて祐斗に気づいたように振り返った。
「あ~そうだな。お、俺が好きなシュタインヘーガーあるじゃん。それ頼むわ。キンキンに冷やしたやつ、よろしく」
シュタインへーガーは、作中にあるほど人を選ぶお酒ではありません。
主に冷凍庫で冷やして飲むコールドジンですが、ズブロッカほどはクセも強くありませんので、ぜひお試しあれ♪






