ホワイトホール宮殿の黒い悪魔 第3話
悪魔憑きを疑われ、ロンドン塔に幽閉されたチャールズ。それは暗い過去を呼び覚ました。
「私は兄上を殺していない!」
秋の夜空に浮かんだ黒い城壁。城壁から覗くのは、ロンドン塔。ロンドン市街地の中心にありながら、その異彩は際立っている。塔と呼ばれてはいるが、複数の宮殿が立ち並ぶ様は町と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。
その入り組んだ宮殿のひとつ、タワー・グリーン。豪奢な屋敷に見えるが、その入り口には厳重な落とし格子が降りている。現在ロンドン塔は罪人の牢獄として使われているが、このタワー・グリーンには高貴な人々が主に幽閉されている。だが、誰もこの塔をタワー・グリーンなどと呼びはしない。多くの罪人がここで処刑されたため、いつしかここは血塗られた塔と呼ばれていた。
秋のロンドンは日が落ちるのが早い。屋敷の中は弱々しい明かりしか灯っておらず、薄暗い空間が広がっている。最上階のとある一室の中で、チャールズは床に蹲り、膝を抱えて震えていた。
室内には、小さなランプがひとつだけ明かりを投げかけている。小窓から食事が差し込まれていたが、手をつけた様子はない。重厚な書き机。美しい書棚。華やかな装飾タイルが敷き詰められた床。寒さが室内に満ち満ちているが、巨大な暖炉には火の気がない。そして、窓には無骨な鉄格子が嵌っている。冷たいタイルの上でチャールズはがたがたと震えながら唇を噛み締めた。
「殿下がご乱心なさった!」
「取り押さえろ!」
「殿下を拘束せよ!」
男たちの怒鳴り声が脳裏に響き渡り、彼は震える手で頭を抱えた。
「……違う……! ……違う……!」
食いしばった口から悔しげな呟きが漏れる。
「悪魔が……、悪魔が宮殿に……! 私は、悪魔に、憑かれてなんかっ……!」
自分を取り押さえる男たちの形相。自分の言うことなど聞かず、有無を言わさずに後ろ手に縛り、床に捻じ伏せられた。その恐ろしさは、「あの日」の記憶を呼び覚ました。チャールズの瞼の裏に、黒い男たちに取り囲まれた情景が浮かぶ。
「チャールズ王子とご一緒に過ごされてからでございます。ヘンリー王太子殿下がお倒れになられたのは」
「いつもご一緒でございましたから。王太子殿下とは……」
「皆から愛された人気者の兄君に妬みを……」
「ちがう!」
チャールズはかすれた声で叫んだ。溢れる涙が床のタイルにぽたぽたと滴り落ちる。
「ち、違う……! わ、私は……、な、何も、していない……! な、何もっ……!」
しゃくり上げ、震え続けるチャールズの耳に、ずるりと何かが引きずられる音が飛び込む。
「……!」
ぎくりとして顔を上げる。が、仄暗い室内には動くものは何もない。涙で顔が汚れたまま、大きく見開かれた目で辺りを見回す。何の音だ。と、再び低い音が響く。
「だ、だ、誰だ……!」
チャールズはどもりながら叫んだ。と同時に、暖炉の上から黒い塊がどさりと落下する。
「ひッ……!」
短い悲鳴を上げたチャールズに、黒い塊が咳き込みながら手を上げる。
「殿下!」
耳に馴染んだ声。チャールズの顔が引きつる。
「お迎えに上がりました!」
胴衣についた煤を叩きながらヴィリアーズが暖炉の中から這い出てくる。
「もう大丈夫ですよ」
「く、来るなッ!」
主の叫びにヴィリアーズは眉をひそめた。彼は真っ青な顔で震えながら顔を振った。
「だ、誰も……、私を、し、信じない……! お、おまえもだ!」
「殿下」
「みんな……、みんな、私を……、私を疑う……! あ、あ、兄上の時と、同じだッ!」
ヴィリアーズは目を細めてチャールズを見つめてくる。悔しげに嗚咽を漏らし、その場に蹲る彼にヴィリアーズは静かに歩み寄った。
「私は信じていますよ」
「だ、だ、黙れッ……!」
「殿下」
再び頭を抱えて縮こまるが、腕を取られ、無理やり抱き締められる。強張った体に、ヴィリアーズの温もりが染みる。
「……み、皆が、わ、わ、私のせいだと言う……! 違う! 私じゃない! わ、私は、あ、悪魔じゃないし……、あ、兄上を、殺してもいない……!」
「落ち着いて、殿下。ほら、どもりがひどくなる」
そう言って子どもをあやすように背を撫でられ、チャールズは胸にすがりついて泣き出した。
「……ヴィリ、アーズ……!」
「大丈夫、大丈夫ですよ。私はあなたを信じています。信じていますから」
呪文のように繰り返し言い聞かせるヴィリアーズ。彼はせつなげに目を閉じた。チャールズの暗い過去は、ヴィリアーズも耳にしていた。
チャールズは生後患った小児麻痺で、幼い頃は歩くこともできなかった。その上、言葉が非常に遅く、ようやく言葉を発せられるようなってもひどい吃音だった。侍医たちはジェームズに手術を受けさせるよう迫ったが、チャールズの乳母が頑なに拒んだ。そのため、チャールズは手術に頼らず、自力で体を鍛え、どもりも矯正していった。それは、文字どおり血の滲むような日々だった。普通の子どものように歩き、話ができるようになったのは十歳になった頃からである。
それからもチャールズは鍛錬を怠らなかった。元より負けん気が強い彼は一流の師匠から剣術を学び、数ヶ国語も身につけた。生まれつきの障害を克服し、努力を惜しまぬ王子。チャールズは皆から賞賛されてもいい存在だった。だが、そうはならなかった。
彼の兄、ヘンリー・フレデリック。彼は容貌も麗しく、賢く、明るく陽気な王太子として国民から敬愛された。誰もが彼を愛し、誉めそやし、将来は素晴らしい王になると期待した。
「それに比べて弟君は……」
チャールズは華やかな兄といつも比べられ、疎んじられた。おとなしく、内気で地味な彼は兄の影で沈黙を守っていた。だが、そんな自分の立場に彼は満足していたのである。
兄は優しかった。剣の稽古にはいつも付き合ってくれたし、勉強も根気よく教えてくれた。いつかは兄を支える廷臣になることを、チャールズは夢見ていたのである。兄の影であることに、誇りを見出していたのだ。
だが、そんな兄弟に運命は牙を剥いた。あの日のことを、チャールズは今でもよく覚えている。
三年前、十月が終わろうとしていたあの日。ヘンリーの顔色が悪いことに最初に気づいたのはチャールズだった。
「兄上、具合が悪いのでは」
ヘンリーは「大丈夫だ」と答えたが、その後すぐに臥せた。それからは壮絶だった。高熱、吐血、下痢。美しかったはずの兄の顔は苦痛に歪み、チャールズは恐れ戦いた。だが、それでも兄が心配でたまらなかったチャールズは自ら看病を願い出たが、兄はそれを拒んだ。
「私に近寄るな、チャールズ……! これが伝染する病なら、大変なことになる!」
それでもチャールズは兄から離れなかった。ヘンリーの容態はひどくなるばかりだった。体中に桃色の湿疹が現れ、高熱にうなされるヘンリーの顔は苦痛に歪み、やがて表情すらなくなった。チャールズはそれらを間近で見守った。そして、ヘンリーは亡くなった。発症から一週間あまり。苦しみ抜いた挙句の死だった。
優しかった兄の断末魔の呻きが耳から離れず、チャールズは悲しみと衝撃で混乱した。だが、兄の死からわずか数日後のこと。誰からともなくこんな囁きが漏れ出した。
「チャールズ王子が、兄君を妬んで毒殺したのでは」
兄の死に衝撃を受け、悲しみに沈んでいたチャールズにとって、それは寝耳に水の言いがかりだった。だが、疑いは野火の如く宮廷に広がった。宮殿に住まう貴族たちが人目を憚らず口にするこの噂に父ジェームズは激昂した。しかし、皆の猜疑心は抑えられなかった。そのため、彼は不本意ながらも廷臣らを前にチャールズ本人に尋問したのだった。
「ヘンリーの具合が悪くなる直前に、彼と二人でいたそうだな。何をしていたのだ」
「絵を見ていただけです……! 兄上が、絵を教えてくれていただけです……!」
チャールズは必死に訴え続けた。やがて、医師の調査により、ヘンリーの死因はチフスであると突き止められた。それを受け、ジェームズはチャールズへの追及を打ち切った。
疑いが晴れても、チャールズの心には深く大きい傷が残った。悔しかった。兄を喪い、最も悲しんでいるのは自分だ。なのに、皆は自分が殺したと陰口を叩いた。
だが、本当に恐ろしかったのは暗殺の疑いをかけられたことではなかった。兄を妬んでいたと思われていたことに、チャールズは絶望した。いつも兄の影に隠れていた自分が兄を妬んでいると、皆はそんな目で見ていたのか。それが、悔しくてならなかった。
「誰も……、私を、信じない……! ち、父上でさえ……! だ、だから、あ、悪魔に憑かれたと、思われる……! 違う……! わ、私は、悪魔に憑かれてなど、いない……! あ、あ、兄上を、殺しても、いない……!」
「信じていますよ」
克服したはずのどもりも、混乱したり、怒りに我を忘れると出てくることがある。しゃくり上げながら搾り出すように叫ぶチャールズを、ヴィリアーズは優しく撫で続けた。
「私は知っていますから。あなたが、本当は誰よりも優しいことを」
チャールズは震えながら顔を上げた。その頬を両手で包み込むと、ヴィリアーズはにっこりと微笑んだ。
「あなたにお仕えして一年あまり。折に触れて、あなたの優しさを感じてきました」
「…………」
「私は、立身出世のためならば男色にもなれる卑しい人間です。それでも……、あなたはそんな私を宮殿から追い出そうとはしなかった。優しい気遣いをみせてくれました」
ヴィリアーズは愛おしげに指先でチャールズの涙を拭った。小刻みに震える唇を撫でると少し寂しげに呟く。
「ヘンリー王子にはお会いする機会がございませんでしたが、あなたが兄君のお名前を口にするたびに、寂しい思いをしたものです。私がお側にいるのだから、もうお寂しくはないはずですよ、とね」
「……う、う、自惚れるなっ……」
「ええ」
ヴィリアーズはもう一度チャールズを抱き締めた。
「それでこそ、私の殿下です」
チャールズがいつも見せる虚勢の裏には、孤独に身を震わせる少年の姿があった。寝食を共にしていれば、そんなことぐらいすぐにわかる。だからこそ、ヴィリアーズは嫌がられながらも常に側にいた。そして、絶対に彼を否定することはしなかった。これで、少しは自分の思いが伝わっただろうか。ヴィリアーズはそう考えながら主の背を愛おしそうに撫でた。
しかし、暗闇で二人が息を潜めて抱き合っていると。がたり、と物音が響き、彼らはぎくりと顔を上げた。
「……い、今のは」
チャールズが怯えた声で囁き、ヴィリアーズは強張った顔でそっと立ち上がろうとした。と、再びがたがたと音が響き、チャールズは「ひッ!」と悲鳴を上げてヴィリアーズの腰にしがみついた。思わずその肩を抱いたヴィリアーズの目にうっすらと明かりが映る。
「……!」
壁だと思っていた部分がゆっくりと開いてゆく。
(隠し扉?)
一体誰が。と思う間もなく、人影が現れる。小さなランプを捧げ持ったその人物は、首を傾げた。
「……おや。てっきり我が友オーヴァーベリーが蘇ったかと思ったが。人違いか」
男の声。ランプを高く持ち上げると、初老の男の顔が浮かび上がる。
「オーヴァーベリーだと?」
ヴィリアーズは顔をしかめて立ち上がった。チャールズもヴィリアーズの背に隠れながら男を凝視した。
「オーヴァーベリー卿は死んだはずだ」
「あぁ。この部屋でね」
「何?」
チャールズは顔を引き攣らせたが、相手は呑気に尋ねてくる。
「ところで君たちは新入りかね? ははは、タワー・グリーンへようこそ」
「口を慎め」
ヴィリアーズは不愉快そうに声を上げた。
「このお方はチャールズ王子殿下だ」
「ほう!」
男がランプをチャールズに近付け、本人は居心地悪げに後ずさる。男は白髪が混じり、顎髭も伸びていたが、大きな目は生き生きと輝き、活気に溢れた表情をしている。
「なるほど、あなたが新しい王太子殿下!」
チャールズはその言葉にむっとした。
「……まだ、王太子ではない」
だが、相手は慌てることもなくにっこりと笑ってみせた。
「左様でございましたか。お許し下さい。十二年も幽閉されていると世俗に疎くなりましてね」
「十二年?」
チャールズとヴィリアーズは驚いて男を見上げる。老人ながら逞しい体躯。若い頃は美しかったであろう容貌。何より覇気に溢れている。男は人懐っこい笑顔のまま懐に手を入れた。
「お詫びの印に拙著を献呈いたしましょう。未来の国王陛下にはぜひお読みいただきたい」
そう言って一冊の本を取り出すと恭しく差し出す。ランプの明かりに革表紙が光る。背表紙にはA Historie of the Worldの題名。チャールズははっと顔を上げた。
「そなた……、ウォルター・ローリー?」
老人は嬉しそうに頷く。ヴィリアーズは慌ててその場に跪いた。
サー・ウォルター・ローリー。詩人にして探検家。そして、先代の女王エリザベスの寵を受けた愛人でもある。女王の死後はジェームズの暗殺未遂事件に関与したとの疑いを受け、このロンドン塔に投獄されている。先ほどの本は、この幽閉生活の間で書き上げられ、去年出版された「世界の歴史」だ。
「まさかこのような場所でチャールズ王子殿下に拝謁を賜るとは夢にも思いませんでしたよ。一体何故こちらに? 少々やんちゃでも過ぎましたか」
「違う」
チャールズは短く口走ったが、どういうわけかあまり腹は立たなかった。この男にはそういった馴れ馴れしい言動でも許してしまう不思議な魅力があった。
「ところで、ここにオーヴァーベリー卿が投獄されていたのですか」
相手の正体を知り、ヴィリアーズが言葉遣いを改めて尋ねる。
「ああ。若いのになかなかの詩才があり、話が合ったのだがねぇ。残念だ」
ローリーはやり切れないといった表情で顔を振る。
「あの日のことはよく覚えているよ。突然気分が悪いと言って寝込み、やがて症状はひどくなり、苦しみながら死んでいった。嘔吐や下痢がひどくて、見ていられなかった……。私が若い頃、探検中に遭遇した熱病を思い出したよ」
その症状にチャールズはごくりと唾を飲み込んだ。それは、兄ヘンリーが亡くなった状況と酷似している。
「しかし、この閉鎖的な環境で熱病になるはずがない。……不気味な死に様だった。まるで、呪いでもかけられたようだったね」
呪い。その言葉にチャールズとヴィリアーズは顔を見合わせた。二人の顔色が青ざめてゆく。……まさか? まさか……。
「どうしたね?」
ローリーが不思議そうに尋ね、ヴィリアーズが振り返る。
「……オーヴァーベリー卿はここで亡くなったと仰いましたね」
「ああ」
それを聞くや否や、ヴィリアーズは机のランプを手に取ると室内を捜索し始めた。机の引き出し、書棚、額縁に入った絵画など、あらゆる調度品を調べる。ヴィリアーズの姿を見て、チャールズも恐る恐る室内を調べ始めた。二人の若者の行動にローリーは目を丸くした。
「一体どうなさったのです」
「オーヴァーベリー卿は毒殺されたともっぱらの噂です。ですが、ひょっとしたら、悪魔にとり憑かれて殺されたのかもしれません」
「悪魔だって? 何故そんなことを。誰が……」
ローリーが顔を強張らせて呟く中、チャールズは大きな寝台に目を留めた。
(気分が悪いと言って寝込み……)
先ほどのローリーの言葉が思い出される。チャールズはランプを持って寝台の床下を覗き込んだ。
「…………」
「殿下。何かありますか」
背後からヴィリアーズの声がかけられる。チャールズは小柄な体を寝台の下へ無理やりねじ込んだ。ローリーが自らのランプも寝台の下へ下ろす。と、明るくなった寝台の下に、チャールズは何かを見つけた。茶色くめくれ上がった何か。それを目にした瞬間、チャールズはわけもなく身震いした。
「……あったぞ」
「殿下……!」
チャールズは手を伸ばすと紙を掴んだ。ランプの弱い光ではよくわからないが、紙面に何かが書かれている。それを掴んで体を起こす。
「何があったのです」
ヴィリアーズの問いにチャールズは黙って紙を差し出す。ローリーがランプを掲げると、紙面に黒い魔方陣が浮かび上がる。
「……!」
「……何だこれは……!」
思わず口走るヴィリアーズ。チャールズとローリーは言葉もなく魔方陣を凝視している。
紙は古ぼけた羊皮紙。紙面一杯に描かれているのは黒い魔方陣。逆さの五芒星に、それぞれ解読できない怪しげな文字が配されている。星の周りにも複雑な文字の羅列が並んでいる。羊皮紙を持つチャールズの手が小さく震えだす。
「……オーヴァーベリーも悪魔に殺されたというのか」
「……何故だ。何故……」
ローリーも困惑の表情で譫言のように呻く。チャールズはヴィリアーズを見上げた。
「……オーヴァーベリーの死を望んでいたのは誰だ。彼の死で利益を得る者は?」
主の問いにしばらく黙っていたヴィリアーズは、恐る恐る顔を上げた。
「……サマセット伯夫妻でしょう」
チャールズの眉がぴくりとつり上る。父ジェームズの寵愛を受けていた色白の美男子と、妖しげな黒い瞳の妻、フランセスの姿が脳裏をよぎる。
「レディ・フランセスは人妻でしたが、サマセット伯と通じ、離婚を望んでいました。ですが夫のエセックス伯は離婚を頑として受け入れませんでした。そこへジェームズ陛下が介入し、離婚が成立しました。しかし、そのことにオーヴァーベリー卿が反対したのです。密通を認めるようなことをすれば王の権威が落ちると批判し、王の不興を買ったオーヴァーベリー卿は幽閉されることに……」
ヴィリアーズの言葉を最後に三人は黙り込んだ。冷たい夜風が足元を吹きぬけ、沈黙が広がる。やがてチャールズが何かを思い出したかのように目を見開く。
「……あの悪魔……」
「殿下?」
チャールズは身を乗り出して囁いた。
「サロンに現れたあの黒い悪魔……。明らかにおまえを狙っていた。何度もおまえに飛びかかろうとしていた……!」
ヴィリアーズは息を呑んだ。
「あの女……。父上の寵愛が夫からおまえに移ったことを妬んで……」
そこまで呟いてチャールズは黙り込んだ。考えるだけでも汚らわしい! あの阿婆擦れが……!
「すでに投獄されたオーヴァーベリーをわざわざ呪い殺したのも、もっと深い理由があったかもしれん。宮殿に戻ろう。あの黒い悪魔はまだホワイトホールに居座っているのだ……!」
そう口走るチャールズをヴィリアーズが心配そうに押し留める。
「しかし、ロンドン塔に幽閉されているはずの殿下が宮殿にお戻りになれば、騒ぎになります」
「よろしければ」
ローリーが声を上げ、二人が振り返る。
「私の召使の衣装をお貸しいたしましょう」
その申し出にチャールズがわずかに眉をひそめると、ローリーは熱っぽく囁いた。
「オーヴァーベリー卿とはわずかな間ですが親交がありました。あの若者が悪魔にとり殺されたと聞いては黙ってはいられません」
それでも黙ったままのチャールズに、ローリーは一礼すると部屋を出ながら召使を呼んだ。ヴィリアーズがそっと耳元で囁く。
「急いで宮殿に戻りましょう。これ以上犠牲者を増やすわけには参りません」
チャールズは黙って頷いた。
変装したチャールズはヴィリアーズと共に馬車に乗り込み、夜のロンドンをひた走った。こうしてお忍びで夜の街をゆくのは初めての経験だったチャールズは、帽子を目深に被ったまま窓からそっと夜の繁華街を見つめた。
「……駄目ですよ、殿下」
隣のヴィリアーズが笑みを含んだ声で囁いてくる。
「殿下にはまだ早いですよ」
思わずむっと相手を一瞥してから窓に目を戻す。と、よく見ると馬車は売春宿が立ち並んだ界隈を走っている。
「お、おまえに言われずとも、こんな所に興味はない」
「ええ。殿下はずっと綺麗な存在であって下さい」
ヴィリアーズに言われると腹が立つのは何故だろう。そんなことを考えながらも、チャールズは初めて見る夜の世界から目を離せずにいた。が、それでもどうしてもあの悪魔のことが頭をもたげてくる。
「……殿下。何をお考えです?」
思いを見透かされたのか、ヴィリアーズがそっと尋ねてくる。チャールズは顔を強張らせたまま俯いた。
「……わからない。何か嫌な予感がするが、それが何なのかわからない」
「……早く、悪魔の正体を見極めねばなりませんね」
ヴィリアーズはそう言ってチャールズの肩をそっと撫でた。いつものチャールズならば問答無用に振り払っていただろうが、今の彼にとっては人の温もりが恋しかった。早く、この悪夢を終わらせたい。いつもの日常に戻りたい。そんな二人を乗せた馬車は、やがてホワイトホール宮殿に到着した。
馬車を降りた二人はいつも出入りする大門に向かった。
「おや、サー・ジョージ?」
衛兵の一人が声をかけ、チャールズは体を強張らせてヴィリアーズの背に隠れた。
「陛下からのお呼び出しだ」
ヴィリアーズは事も無げに答えてみせる。
「殿下のお話は聞いただろう。むしゃくしゃしてパブで一杯ひっかけているところを呼び出された」
「それはそれは」
衛兵は苦笑しながら頷いた。そして、後ろで縮こまる少年に目をやる。地味な胴衣に、かぼちゃのように膨らんだ半ズボン。ほっそりとした足がすらりと伸びている。大きなフェルトの帽子で顔はよく見えない。
「その少年は」
「私の従僕だ」
「気をつけて下さいよ、陛下のお目に触れたら大変だ。陛下ときたら年齢などお構いなしですからな」
思わずかっとなったチャールズが身を乗り出そうとするが、ヴィリアーズが肩を押さえつける。
「わかってるよ」
ヴィリアーズは笑いながら手を振るとチャールズを引きずるようにして連れてゆく。
「いけませんよ、殿下。身分が知れてしまいます」
「無礼な……!」
「仕方ありません」
だが、実際には反論できないチャールズは憤然とした表情で宮殿に踏み込んだ。
「さて、どこから調べますか……」
「ヴィリアーズ」
チャールズの呼びかけに振り返る。帽子で半分顔が隠れた状態でチャールズが囁く。
「どうも気になるのだ。オーヴァーベリーの死に様……。熱病のように苦しんであっという間に死んでいったと言う死に様が……」
だが、真面目に喋っているのにヴィリアーズは思わず笑いを漏らし、チャールズは顔を真っ赤にして胸倉を掴む。
「何がおかしいっ!」
「い、いえ、殿下。その従僕姿も可愛らしいですよ」
「おまえ……!」
チャールズが益々怒りに顔を引き攣らせていると。
「サー・ジョージ!」
背後から大声で呼ばれ、二人はぎくりと固まった。
「どこへ行っていた。陛下がお探しになられていたぞ」
振り返ると、ジェームズの秘書官が小走りに駆け寄ってくる。
「セント・ジェームズ宮殿にも戻っていないというから、ずっと探していたのだ。早く陛下のお部屋に……」
「し、しかし、私は、少々用事が……」
しどろもどろに答えるヴィリアーズを見てとると、チャールズは慇懃に頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、ご主人様」
「……!」
ヴィリアーズが慌てて振り返るが、秘書官が問答無用に腕を掴んで引き立ててゆく。助けを求めるような視線にも、チャールズはふんと鼻を鳴らしてみせると踵を返した。
ローリーが語ったオーヴァーベリーの死に様が、まだ頭から離れなかった。急に具合が悪くなり、熱病のように嘔吐や下痢が続き、苦しみながら死んでいったという。
(兄上が亡くなった時と同じだ。これは、何かの偶然か?)
チャールズは大きく息をつくと辺りを見渡した。どこまでも続く廊下の先は薄暗く、幻想的なシャンデリアが整然と並んでいる。人気のない寒々しいこの空間のどこかに、あの黒い悪魔が息を潜めているのだ。チャールズはごくりと唾を飲み込むと、足を亡き兄の寝室へと向けた。
兄ヘンリーの寝室は今では誰にも使われていない。最初はチャールズが引き継ぐはずだったが、兄への思慕と対抗心がない交ぜになり、まだこの寝室を使っていない。
チャールズは息をひそめて寝室の扉を開いた。薄暗い室内。チャールズはランプを手に寝台に近寄った。兄の死因に呪いが絡んでいたら、どうする。誰に、何故、殺されなければならなかったのだ。チャールズはごくりと唾を飲み込むと、寝台の下へ屈みこんだ。何もなければいい。オーヴァーベリーの部屋にあったような魔方陣など、出てこなければいい。そう願いながらチャールズは寝台の下へ体をねじ込ませた。
その頃、ジェームズの私室に連行されたヴィリアーズは王から熱烈な歓迎を受けていた。
「どこへ行っていた、スティーニ!」
ジェームズはそう叫ぶとヴィリアーズを抱きしめ、ところ構わずキスの嵐を降らせる。
「……陛下」
ヴィリアーズはさすがに顔を歪ませながら拒んだ。
「殿下が……、殿下が心配でロンドン塔へ行っておりました」
チャールズの名を耳にしてジェームズは動きを止めた。そして、哀しげに項垂れる。
「……そうだ。先ほどからそのことが頭から離れなくて、落ち着かぬ……。何故チャールズがこのような目に……」
そう呟きながらヴィリアーズの手を両手で握りしめ、そわそわと顔を振る王を椅子に座らせる。
「陛下、教えていただきたいことがございます。一昨年、ロンドン塔に収監されたオーヴァーベリー卿のことでございますが……」
オーヴァーベリー。その名前にジェームズはあからさまに表情を歪めた。
「あまり思い出したくない名だ」
「何故、ロンドン塔に幽閉なさったのです」
「ロバートとレディ・フランセスの結婚に反対したからだ。人の道に外れる行いをしては人心が離れるなどとほざきおって」
人の道に外れていたのは事実だが、ヴィリアーズは辛抱強く問い続けた。
「ですが、理由は他にもあったのではございませぬか? 陛下ともあろうお方が、それしきのことでお怒りになられるとは思えませぬ」
愛しい恋人の言葉にジェームズは口を歪めると腰に手を回し、ぐいと引き寄せる。
「そうなのだ。わかるか、スティーニ……。やはりおまえはわかってくれるか」
ジェームズは寂しげに吐息をついてから語りだした。
「あの男……、ヘンリーを殺したのはレディ・フランセスだとぬかしたのだ」
「……!」
ヴィリアーズは言葉を失った。ごくりと唾を飲み込み、王を凝視する。
「レディ・フランセスがヘンリーと恋仲であったことなど、予でも知っている。確かに許されない恋ではあったが、なに、若気の至りだ。ヘンリーもそのうち彼女を諦めるだろうと思っていた。そして、案の定ヘンリーは彼女と別れた。だが、それからすぐだ。ヘンリーが死んでしまったのは。それを、レディ・フランセスが呪い殺したというのだ」
予想以上に衝撃的な言葉にヴィリアーズはすぐには言葉が口を出なかった。そして、どこか虚ろな瞳で空を見つめる王に詰め寄る。
「事の真相をお調べにはならなかったのですか……!」
「もちろん、レディ・フランセスとロバート両人に問い詰めたが、そんなことはしていないときっぱりと否定した。オーヴァーベリーにもう一度問い質そうとしたが、その前に奴は死んでしまった。もう、調べようがない」
ジェームズが肩を落として俯く様をヴィリアーズは黙って見つめた。
「……ヘンリーは死んだのだ。……もう、帰ってはこない」
室内は恐ろしい沈黙に包まれた。もしも、オーヴァーベリーの言葉が真実であれば……。フランセスはオーヴァーベリーの口から自らの悪事が露見することを恐れ、彼を呪い殺したというのか。
オーヴァーベリーは元々サマセット伯ロバート・カーの親友だった男だ。ロバートがジェームズの愛人になるよう手引きをしたのがオーヴァーベリーだと言われている。だが、ノーフォーク公爵家の血を引くフランセスとの結婚をオーヴァーベリーが妬んでいたという話も聞く。その妬みから、オーヴァーベリーはフランセスの悪事を調べ上げ、ジェームズに言上した……。全ては、権力への欲と妬みが事件の真相。ヴィリアーズは体が震えてくるのを止められなかった。