ホワイトホール宮殿の黒い悪魔 第2話
愛人に現を抜かす父王にうんざりする日々を送る王太子チャールズ。その愛人ヴィリアーズはどういうわけかチャールズに執心している。だが、そんな彼らを見つめる〈黒い何か〉が……。
その後、チャールズは念のために司教による祝福を受けた。ホワイトホール宮殿に帰る馬車の中で、ジェームズは憤然と鼻息荒くまくし立てた。
「これで地上から一人の魔女を葬ることができる。良いか、チャールズ、覚えておくのだ。女は愚かで弱い。だから惑わされるのだ。そのような女を我々男は守ってやらねばならん」
「……はい」
チャールズは不本意ながらも呟いた。そして、父の顔をそっと伺うと、満足げに顎を撫でる様子にひそかに吐息をつく。だが、元々ジェームズの女嫌いは彼の母、「魔女」と呼ばれたメアリー・ステュアートのせいであった。
スコットランドの女王であったメアリーは夫を愛人と共謀して殺害した挙句、断頭刑に処せられている。そのため、幼いジェームズは重臣たちから父を殺した母は魔女である、姦婦であると叩き込まれて育てられた。女は皆、恐ろしい魔女なのだ。そう考えるように至ったジェームズが男色家に育ったのも、無理からぬことであった。
「あぁ、そうだ」
不意にジェームズが顔を歪めて声を上げる。
「今宵も愚かな女と付き合わねばならん」
チャールズが不思議そうに首を傾げると、ジェームズは肩をすくめてみせた。
「アンが新しい衣装と髪型を披露するそうだ。やれやれ」
王妃のアンは奇抜な衣装や髪型、側近を引き連れた大旅行が大好きな女性だった。その上浪費家でイングランドの財政を圧迫させている。国にとっては決して良妻賢母とは言えない。しかし、男色家の夫に不平を漏らすこともなく、自身も愛人を持つこともない。宮廷としてはそれだけでも我慢しなければならなかった。
「しかし、あんなことで満足するのだから、可愛いものだと思わねばな」
何と返事をすればよいかわからず、チャールズは黙り込んだ。そして、眉をひそめて自らの手に目をやる。赤く腫れた指。痛みはもうない。
「……大丈夫か?」
父の少し心配そうな声色にチャールズは頷いた。
「ええ、もう大丈夫です。ただ……」
ジェームズは眉をひそめた。
「男一人を撲殺し、議場の床を抜いたあの箒に触れながら、何故火傷で済んだのか……」
「……ヘンリーのおかげだ」
チャールズははっと顔を上げた。父はどこか寂しげな表情でじっと見つめてくる。箒を薙ぎ払ったあの瞬間、白い光に包まれたのだ。あれが、兄だったというのか。
「ヘンリーがおまえを守ってくれたのだ。あれは、家族思いであったからな」
ヘンリー・フレデリック。ジェームズの長男であり、チャールズの兄。チャールズの脳裏に、在りし日の情景が浮かぶ。
静かな部屋で一人絵を眺めていた兄。彼は鮮やかなエメラルドグリーンの衣装を好んで身に纏っていたが、それは彼の美しい金髪によく似合っていた。陶器のように滑らかな白い肌に、薔薇色の頬。二重瞼の大きな瞳は見る者を引き寄せる不思議な光を湛えていた。優雅な仕草で画布を捧げ持つ姿は、ギリシャ神話の彫像のようだった。その姿に見とれていたチャールズに気づくと、ヘンリーはにっこりと微笑んで手招く。
「チャールズ、おいで」
そして、手にしていた画布を見せる。
「見てごらん。ダ・ヴィンチの素描だ」
「すごい……」
「これが天才の筆致だ」
抑えた口調ながら、兄の興奮が伝わってくる。ヘンリーは芸術を何よりも愛していた。
「天才の筆に触れると高みへ行けるようだ。この地上にいながら。いいか、チャールズ。美しいものは裏切らない」
明るく、気さくで、誰からも愛されたヘンリー・フレデリック。だが、彼はもういない。チャールズは、思い詰めた表情で目を伏せた。
その日の晩。ホワイトホール宮殿では華やかな晩餐が開かれた。王妃アンの新しい衣装のお披露目に、ロンドン中の貴族が集まっていた。そして、彼女は新しい衣装だけでなく、新しい別荘の建築計画を発表し、ジェームズを呆れさせた。
「グリニッジに新しい別荘を作ることにしたの。見取り図を見せてもらったのだけれど、本当に素晴らしいのよ! 完成が待ち遠しいわ!」
興奮してまくし立てる母を、チャールズは苦笑いを浮かべながら耳を傾けていた。軽薄で浪費癖のひどい母が、人々から「空っぽのアン」と陰口を叩かれていることは知っていた。だがそれは、孤独を埋めるための行為であるとわかっていたチャールズはそんな母が哀れでならなかった。
「出来上がったら伺わせていただきますね、母上」
「必ずよ、チャールズ! ジョージ、あなたも一緒に!」
チャールズの隣でにっこりと微笑むヴィリアーズ。アンは、どういうわけか夫の愛人であるこの美青年をいたく気に入っていた。
「ロバート!」
アンの隣でジェームズが不意に大きな声を上げる。人々が視線を向けた先にいたのは、サマセット伯ロバート・カー。彼は栗毛の美女を伴っていた。チャールズの顔が強張る。
「相変わらず仲睦まじいようで何よりだな? ロバート」
「ありがとうございます」
ロバートは恭しく一礼した。寵愛が薄れただけで、彼がジェームズのお気に入りであることに変わりはない。ロバートはちらりとヴィリアーズに視線を投げた。昼間のやり取りが頭をかすめるが、相手は余裕の表情で一礼してくる。ジェームズはそんなことも露知らず、二人の愛人を侍らせてご満悦の様子で杯を傾けている。
「陛下のおかげで妻と結婚することができましたから。一生大事にしていく所存です」
「ははは、そなたは幸せ者だな、レディ・フランセス」
「もったいないお言葉」
栗毛の美女は妖艶に微笑むとドレスの裾を持ち上げ、優雅に跪いた。
ロバートの妻、フランセス・カー。彼らが結ばれるまでには、実は恐ろしい困難が立ちはだかっていた。何しろ、フランセスは元々エセックス伯の妻だったのだから。
まだ幼いうちに妻を迎えたエセックス伯は成人するまで異国へ留学していた。そして、帰国した時にはすでに妻はロバート・カーと通じていた。フランセスはエセックス伯との離婚を申し立てるが、もちろん夫が納得するはずもない。だが、そこへ国王ジェームズが介入し、フランセスとエセックス伯は離婚が成立した。しかしその間、二人の離婚を批判していた詩人のオーヴァーベリー卿がジェームズの不興を買い、ロンドン塔に幽閉。挙句の果てには何者かに毒殺されるという、二人の離婚劇にはきな臭さが付きまとっていた。
そして、別の理由でチャールズはこのフランセス・カーを蛇蝎の如く嫌っていた。
「……殿下」
フランセスにそっと囁かれ、チャールズはぞくりと背筋に寒気を感じて振り返った。サマセット伯夫人は意味深に微笑んだ。煌くシャンデリアの光を受け、黒い瞳が爛々と輝いている。胸元が大きく開いた緋色のドレス姿のフランセスは、見るからに男好きのする体つきの女だ。ワインのような深紅の唇の端が持ち上がる。
「……今日の夫の振る舞い、どうぞお許し下さいませ」
「…………」
チャールズは露骨に顔を歪めて体を引く。
「陛下のお耳に入れぬようお心遣いいただき、感謝の言葉もございませんわ」
「失敬……!」
チャールズは最後まで聞かず、彼女を押しのけてその場を後にした。
「チャールズ、どうした」
父の声を背に受けながら、チャールズは憤然と立ち去った。
「殿下」
背後からヴィリアーズが追いかけてくる気配がする。
「殿下、ご婦人に失礼ですよ」
「うるさい……! おまえは父上の隣におれ!」
怒りに震えながら口走るチャールズに、ヴィリアーズはやれやれと溜息をつく。
「殿下はどうあってもレディ・フランセスをお許しにはなれないようですね」
「当然だ!」
チャールズはきっと振り返った。その顔は怒りで紅潮し、目は血走っている。
「あの女は……、売女だ! 阿婆擦れだ! 父上が言うところの魔女だ!」
「殿下」
ヴィリアーズは人差し指で唇を押さえた。
「……お気持ちはわかりますが」
チャールズは怒りを抑えようといらいらした素振りで頭を振った。
「……あの女は……、兄上を誘惑したのだ……! 純粋で、穢れのない兄上を……!」
「しかし……。ヘンリー王子が人妻であるレディ・フランセスとお付き合いなさったのは事実でございますし」
「あの女が誑かしたのだ!」
チャールズがフランセス・カーを憎む理由。それは、兄ヘンリーとの不倫だった。
フランセスは前夫エセックス伯が留学している間にヘンリーと関係を持ったが、間もなくその関係は終わった。ヘンリーの方から別れを告げたというのがもっぱらの噂だった。だが、フランセスは時間を置かず、すぐに新しい愛人を見つけた。それが、現夫のロバート・カーだ。それでも、潔癖症のチャールズは兄を誘惑したフランセスが許せなかった。世間ではヘンリーが人妻に手を出したと囁かれたが、チャールズは信じなかった。あの清廉潔白な兄が自分から人妻に手を出すなど、信じたくなかったのだ。
「……まぁ、今となってはもはや確かめようもございませんが……」
ヴィリアーズがそう呟いた時。
「チャールズ、スティーニを連れてゆくな。予の妻だぞ」
父の笑みを含んだ声に再び背筋が悪寒に襲われる。
「どこにも参りませんよ、陛下」
ヴィリアーズは早速ジェームズに媚を売っている。チャールズは汚らわしい何かを見つめるような目で二人を見つめた。
「晩餐が終わったら寝室で待っておれ、良いな」
「はい」
ジェームズは笑いながらヴィリアーズの首筋に唇を押し付けると背を向けた。
「…………」
ヴィリアーズは嬉しそうに笑うと主の背を見送った。が、やがて彼は息をつくと苦しげな表情を見せた。その憂鬱そうな横顔にチャールズは眉をひそめた。彼は黙ってヴィリアーズの袖を引っ張った。振り返るヴィリアーズの耳元で囁く。
「……明日の朝は帰ってくるな」
「殿下?」
言い返そうとするヴィリアーズに、チャールズは低く言い添えた。
「疲れるだろう。無理に帰ろうとするな」
思わぬ言葉に絶句するヴィリアーズに一瞥をくれると、チャールズは踵を返した。
「スティーニ!」
「……はい!」
ジェームズに呼ばれ、ヴィリアーズは慌てて王の元へと急ぐ。
「チャールズはどうした」
「……ご気分が優れないようで」
「ああ、今日は魔女裁判で怪我を負ったからな」
ジェームズは思い出したように顔をしかめる。
「大変な騒動だったそうですね」
「素晴らしかったぞ! 気づかぬ間にチャールズがあれほど成長していたとはな!」
「私も拝見しとうございました」
途端に機嫌を直したジェームズは、昼間の魔女裁判について事細かに語り始めた。王の得意げな表情を微笑みながら見守るヴィリアーズを、じっと見つめる者がいた。
「……少し前までは、あそこにはあなたがいらっしゃったのに」
「言うな、フランセス」
だが、夫の言葉にフランセスはわずかに唇を尖らせた。
「……あんな田舎者をお側に侍らすなんて」
「所詮男色の犬だ。……おかげで、私はもうあの獣に組み敷かれずに済む」
フランセスはそっと夫の顔色を仰ぎ見た。目を眇め、かつての「恋人」をただ見つめるだけの夫。すべてを諦めたかのようなその眼差しに、フランセスは目を細めた。
「……私は許さないわ」
妻の不穏な囁きにロバートは振り返った。
「……あんな、青二才如きに」
翌朝。食堂へ向かったチャールズはちらりと時計を見やった。自分の忠告どおり、ヴィリアーズは帰ってこなかったか。きっと、夜通し「手柄」を立てていたことだろう。チャールズは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
だが、食事を終え、ホワイトホール宮殿に向かおうとしていたチャールズの元に、青い顔をしたヴィリアーズが慌てた様子で帰ってきた。
「ヴィリアーズ。……何故帰ってきた」
「あんまりです、殿下」
ヴィリアーズは情けない顔で訴えた。チャールズは溜息をつくと侍従に食事を用意するよう告げた。
「その顔は眠っていないな。だから帰ってくるなと言ったのだ」
元気のない顔で朝食を口にするヴィリアーズに、チャールズは半ば呆れた様子で言い含める。が、ヴィリアーズは照れくさそうに苦笑を浮かべる。
「いいのです。ここへ帰ってくると、心が落ち着きます。……陛下の目が届かないここが」
その言葉にチャールズは顔をしかめた。
「……おまえは、いつまで父上の愛人でいるつもりだ」
ヴィリアーズはにっと笑うと顔を上げた。
「もちろん、公爵に上り詰めるまでですよ」
「愚かな」
チャールズは吐き出すように言い放った。
「そこまでして成り上がりたいのか」
「ああ、殿下にはおわかりにならないでしょうね」
ヴィリアーズのどこか見下した口ぶりにチャールズはむっとするが、本人は気にする風もなく言葉を続ける。
「我々が爵位という肩書きに執着する気持ちなど、殿下にはご理解いただけないでしょう」
暗に子ども扱いをされた気分になったチャールズは口許を歪めるが、反論できない。そして、目を逸らすとぼそりと呟く。
「……爵位など、私が王になったらいくらでもやる」
予想もしていなかった言葉にヴィリアーズは食事の手を止めた。チャールズは気まずそうに顔を背けたままだ。ヴィリアーズの顔に微笑が広がる。
「殿下……! 嬉しいですよ、やはりあなたは私のことを」
「馬鹿者、自惚れるなと言っておろう!」
チャールズの一喝にもヴィリアーズは嬉しそうに笑うばかりだ。
わからないであろう。気づかないであろう。ジェームズの愛人でいる限り、チャールズの側にもいられるということが。ヴィリアーズは、忌ま忌ましげに睨みつけてくる王子を優しく見つめ続けた。
ヴィリアーズの食事が終わると、二人は連れ立ってホワイトホール宮殿に向かった。父や母に挨拶をし、数人の家庭教師から授業を受けてから、チャールズはようやく自由な時間になる。いそいそと宮殿内のサロンへ向かうチャールズにヴィリアーズが声をかける。
「殿下は絵がお好きですね」
「悪いか」
「いいえ」
その言葉とは裏腹に、ヴィリアーズはどこか面白くなさそうに整然と並ぶ巨匠らの作品を見上げる。
高い天井から滴る胸飾りのようなシャンデリアと、その輝きを受ける彫像。古の時を封じ込めたタペストリ。極彩色の光を放つ陶磁器の数々。聖書や神話に描かれた描写を切り取った絵画。
宮殿の奥に位置する長い長い大廊下には、ヨーロッパ中から集められた美の至宝が惜し気もなく並べられている。このサロンは宮殿に居住する貴族たちにも開放され、古今の名品を静かに皆が見入っている。
「兄上が遺したコレクションだ。私が守っていかねばならん」
「見るだけではつまらないですね」
「罰当たりめ」
チャールズは呆れたように声を上げる。
「おまえの前にあるその絵、誰だと思っている」
「さぁ、存じ上げません」
「ラファエロだ!」
思わずかっとなって怒鳴るチャールズに構わず、ヴィリアーズはある一枚の絵を指差す。
「差し当たっては、いつか彼に肖像画を描いてもらうのが夢ですよ」
そこには、若々しいニンフが描かれた絵画が掲げられている。チャールズは呆気に取られた。
「ルーベンス?」
「えぇ、いつか公爵になったら描いてもらいたいものです」
「身の程知らずが!」
そう吐き捨てるとチャールズは肩を怒らせて背を向けた。
「殿下、待って下さいよ」
「うるさい!」
二人の様子を通り過ぎる人々の目が興味津々に追う。
「芸術の価値もわからんおまえと一緒にいたくない!」
「わかっていますよ。ルーベンス殿に絵を描いてもらうことがどんな意味を持つかぐらいは」
「だから、おまえは……」
いらいらしながらチャールズが振り返った時。彼の目に黒い何かがさっと翳める。
「…………」
チャールズは眉をひそめて天井を凝視した。ヴィリアーズも首を傾げて背後を振り返る。
「いかがなさいました」
だが、その問いには答えず、チャールズは不安げに視線を彷徨わせた。確かにいたのだ。黒い何かが。耳を澄ませてみるが、周りには貴族たちの抑えた囁き声しか聞こえない。いつもと変わらず、美術品らが黙って並んでいるだけだ。だが、何だ。この違和感は。
「……殿下」
ヴィリアーズがゆっくり足を踏み出した、その時。
「……!」
彼の肩越しで何かが光ったかと思うと黒い塊が目に飛び込む。
「ヴィリアーズ!」
チャールズはヴィリアーズの胸に飛び込むと相手を押し倒した。耳を劈く風切音。
「殿下ッ?」
皆が何事かとざわめく。チャールズが片膝をついたまま剣を抜き放ち、女たちが悲鳴を上げる。
「な、何だッ、い、今のはッ!」
「落ち着いて下さい、殿下! 何もいません!」
ヴィリアーズの叫びに顔を歪めて振り返るが、再び緑の光が迸る。
「……!」
〈黒い何か〉はマントのように揺らめいたかと思うと真っ赤な口を開けて襲い掛かってきた。
「!」
チャールズの剣が一閃する。黒い何かは怯んだかのようにさっと身を翻すと、シャンデリアにぶら下がる。黒い布が垂れ下がる様子はまるで蝙蝠だ。
「殿下!」
「見えぬのか! あ、あそこに! 黒い……!」
「殿下がご乱心なさった……!」
誰かが口走り、チャールズはぎくりとして振り返った。が、黒い何かがその隙を逃さずシャンデリアを蹴ってヴィリアーズに飛び掛かる。
「ヴィリアーズ!」
ヴィリアーズを押し退けて剣で薙ぎ払うと黒い何かはぞっとするような悲鳴を上げて飛び去る。
「!」
「殿下を取り押さえろ!」
男たちが数人チャールズに飛び掛かると床に捩じ伏せる。
「は、離せ……! 私は、正気だ! あそこに……、あそこに黒い悪魔が……!」
「殿下……、殿下!」
ヴィリアーズが手を伸ばすが、居合わせた男たちに阻まれ、その手は届かない。両手を後ろ手に拘束され、身動きが取れない状態でチャールズは必死に首を巡らした。あの黒い悪魔はまだシャンデリアにぶら下がっていた。小刻みに震えながらこちらをじっと見つめている。蛇のように細い緑の目。目の縁まで達する裂けた口。〈キキキ〉と軋む扉のような笑い声を上げ、悪魔はとんぼ返りを打つと空気に溶けていった。
「消えた……!」
チャールズは顔を歪めて叫んだ。
「悪魔が……、消えた……! 誰か……! このままでは……、宮殿が……!」
王子を押さえ付ける貴族たちは顔を見合わせた。
「ずっと悪魔と仰っている……」
「憑かれたのだ……。悪魔に魅入られてしまわれた……!」
「衛士を呼べ!」
騒ぎを聞き付けた宮殿の衛士らがサロンにやってくると王子を引き立てる。
「やめろ! チャールズ王子殿下でいらっしゃるぞ! 離せ!」
ヴィリアーズが必死に叫ぶが、ざわめきに掻き消される。
「……ヴィリアーズ……!」
チャールズは揉みくちゃになりながら切れ切れに叫んだ。ヴィリアーズは人波を掻き分けてチャールズを追いかけたが、行く手を阻まれる。
「殿下は悪魔に取り憑かれたのだ、陛下にご報告せねばならん」
「馬鹿な……! 殿下は……、殿下は私を守ろうとして下さったのだ! 私を!」
だが、ヴィリアーズの叫びは虚しく響くばかりであった。
王子乱心の報はすぐさまジェームズに伝えられた。秘書官の報告に最初ジェームズは怒りを見せた。
「チャールズが乱心だと? 誰がそんなことを!」
「サロンで突然剣をお抜きになられたそうです。黒い悪魔がいると仰せられて……」
悪魔と聞いてジェームズの顔が強張る。
「しかし、そのようなものはいないのです。その場にいた者たちに問うても、誰も……」
「……悪魔が、復讐に来たのだ」
王の言葉に秘書官は眉をひそめた。ジェームズは体を震わせると、落ち着きなくその場を歩き回った。
「昨日の魔女から予を守ったばっかりに……! 悪魔が復讐にやってきたのだ!」
「陛下、いかが計らいますか」
しばし口をつぐんでいたジェームズは、苦しげに目を細めた。
「……タワーに」
ロンドン塔。秘書官は息を呑んだ。ジェームズは苦しげに言葉を続けた。
「チャールズの身を守らねば……。ロンドン塔に軟禁せよ。そしてカンタベリーに早馬をやれ。大主教に悪魔祓いを……」
「御意」
秘書官が一礼した時。扉が激しく叩かれたかと思うと開け放たれる。
「陛下!」
「スティーニ」
ヴィリアーズは髪を振り乱したまま駆け寄った。
「殿下は……、チャールズ王子殿下は、ご乱心などではございません!」
「何か知っておるのか」
王の問いにヴィリアーズはごくりと唾を飲み込んでからまくし立てた。
「殿下は何かをご覧になったのです。何かはわかりませんが、殿下は私を守ろうとして下さったのです! 私を押し退けて剣をお抜きになりました。殿下は、確かに何かから私を守って下さったのです! 『あの黒い何かが見えぬのか』と仰せでした!」
「悪魔だ、スティーニ」
ジェームズの言葉にヴィリアーズは口を閉ざした。そして、顔が青ざめてゆく。
「チャールズは悪魔に憑かれたのだ。昨日、魔女の呼んだ悪魔から予を守った時に……。チャールズを救わねばならん。カンタベリーには遣いをやった」
「ち、違います……! 殿下は、悪魔にとり憑かれてなどいません! 『あそこに悪魔がいる』と……」
「スティーニ、おまえの気持ちはわかるがな」
そう囁きながらヴィリアーズの肩を愛しげに撫でる王に、秘書官はさりげなく目を逸らす。
「その言葉すら悪魔のものかもしれぬ。チャールズの身を守るためにロンドン塔へ幽閉する。後は大主教のお言葉に従おう」
ヴィリアーズは顔を歪めて頭を振った。何てことだ……。皆、王子が悪魔にとり憑かれたと信じて疑わないのか……!