ホワイトホール宮殿の黒い悪魔 第1話
豪奢な室内。煌びやかなシャンデリアがゆらゆらと明かりを投げかけ、床を覆い尽す絨毯を舐める。眼前の玉座には陰鬱な表情に翳る父。周囲には大勢の男たちが自分を取り巻き、彫像のように無表情で口々に何かを囁き合っている。そして、皆一様に自分に冷たい視線を投げかけている。彼は、皆の視線を竦んだ身に一身に受け、震えながら父王を見上げた。
「チャールズ」
父は低い声で呼びかけた。その声にはどこか憐憫も感ぜられる。
「……あの日だ。八日前のあの日、ヘンリーと何をしていた」
チャールズは体を小刻みに震わせながら口を開く。が、からからに乾き切った口からは不規則な呼吸しか漏れない。恐怖に満ち満ちた瞳で、彼は必死に言葉を搾り出した。
「え……、絵を、見ていました……」
「サロンでか」
「は、はい……」
父王は目を細めると息子をじっと見つめた。男たちは疑わしげな視線のまま見守ってくる。
「サロンで、何の話をしていた」
「あ、あ、新しい、絵を、教えて、もらっていました」
チャールズのどもりに数人の男はあからさまに顔をしかめて見せるが、彼は震えとどもりを抑えることができない。
「何の絵だ」
「……ティ、ティツィアーノ、です。ち、父上……!」
「それだけか? 隠していることはないか、チャールズ」
「な、ないですッ!」
チャールズは泣きながら叫んだ。
「ち、父上ッ……! な、何故、何故、私が……! う、う、疑われなければ、ならないのですッ……!」
父王は顔を振って溜息を吐き出した。
「……おまえには出来ぬな。それだけの勇気がない」
「……!」
チャールズは頭を殴られたような衝撃で息を呑んだ。男たちは唇はつぐんではいるが皆口許に嘲笑を浮かべて踵を返し始めた。チャールズはやっとの思いで足を踏み出した。
「父上ッ!」
少年の声が響く。
「わ、私は、兄上を殺してなんかいませんッ!」
吐き気にも似た衝動でチャールズは目を覚ました。思わず口許を手で覆いながら身を起こす。薄暗い寝室。テーブルに置かれた小さな明かりだけが頼りなげに揺れている。不規則に呼吸を繰り返しながら、震える両の手のひらを開く。現実だ。もう、目が覚めている。「あの日」はもう終わっている。終わっているのだ。
「……く、くそッ……!」
チャールズはぎゅっと目を閉じると夜具を拳で叩きつけた。
「くそぉッ……! うッ……! あああッ……!」
言葉にならない叫びを上げながら夜具に突っ伏す。しばらくすると扉を控えめに叩かれる。
「……殿下」
ほんの少しだけ開けられた扉から侍従の声が聞こえる。
「殿下、ご気分でも……」
「うるさいッ!」
チャールズは枕を取り上げると扉に投げつけた。
「だ、黙っておれッ!」
侍従は黙って扉を閉じた。主が時々こうして悪夢にうなされることは知っていた。いつもの風景だ。チャールズは悔しげに嗚咽を漏らし続けた。
一六一五年、九月。イングランドの王都ロンドンはすでに寒さが忍び寄ってきていた。灰色の雲が空を覆い尽くし、遠からずやってくる長い長い冬に皆は憂鬱そうな顔つきで街をゆく。
ロンドンの中心部に位置するセント・ジェームズ宮殿。飾り気のない煉瓦作りの宮殿は、造りこそしっかりはしているものの、王家の紋章がなければただの屋敷にしか見えない。そんな地味な宮殿に、少年は一人居を構えていた。……否、一人ではない。
「おはようございます、殿下」
侍従頭のハーバートが着替えを終えた主にブランデーを差し出す。チャールズはゆっくりと飲み干すと静かに息をつく。
「……ありがとう」
低い声にハーバートは微笑むと恭しく頭を下げる。生真面目なチャールズは、僕と言えど落ち度のない者に当たり散らした後は決まって神妙そうな表情になる。彼はしばらく椅子に腰掛けたまま思い詰めた表情を見せていたが、やがて静かに立ち上がった。「あの日」の記憶がまだ自分の心にこびりついて離れないことに絶望を覚えながら。
神経質そうな額に、眉間に寄せられた皺。大きな瞳は落ち着きなく周囲に彷徨う。青白い頬にはどこか悲壮感が漂っている。
チャールズ・ステュアート、十四歳。イングランド王ジェームズの次男であるが、実質的な王太子と目されており、未来のイングランド王である。
ハーバートを始めとした側近を連れて衣装室を出ると、どこからともなくざわめきが聞こえてくる。やがて従者の一人がそっと告げる。
「サー・ジョージがお帰りでございます」
その名にチャールズはあからさまに顔を歪めてみせる。
「……帰ってきたのか」
その言葉が終わらない内に、アプローチから靴音が響く。
「殿下!」
通路の先から大きな声で呼びかけられるが、チャールズは特に反応もせずに食堂へ向かう。
「おはようございます。今からお食事ですか。間に合った!」
声の主は底抜けに明るく話しかけた。色が白く、鼻筋の通った紅顔の美青年。深い濃紺の瞳は自信に満ち溢れ、ややもすれば軽薄にも見える。彼は洗練された仕種で優雅に腰を屈めた。
「大急ぎで帰って参りました。……ひょっとして、私を待っていて下さいましたか」
「自惚れるな。着替えに時間がかかっただけだ」
苦々しげに吐き捨てるチャールズに、青年は馴れ馴れしく肩を叩く。
「相変わらず素直じゃございませんね、殿下」
「寄るな」
チャールズはぐいと腕を押しやると、険しい顔つきで呟く。
「……朝から父上の匂いを嗅がせるな……!」
その言葉に青年はせつなげに目を細めた。口許に浮かぶ微笑はどこか寂しげに見える。彼は声を低めて囁いた。
「……朝方まで、離しては下さらなかったので」
自嘲気味に囁く青年を小柄なチャールズは上目遣いに見つめた。そして、ハーバートに「ヴィリアーズに食事を」と命じる。青年は少しほっとした様子で後に続いた。
サー・ジョージ・ヴィリアーズ。二三歳。チャールズの父王、ジェームズの「愛人」である。
地方の裕福な郷紳の息子として生まれたヴィリアーズは、フランスで教育を受け、優雅な礼儀作法とダンスを学んで帰国した。そして、その類い稀な美貌は人々の噂を呼び、廷臣によって王の拝謁を賜った。ジェームズはたちまちヴィリアーズの美しさに夢中になった。彼の周囲には、同じような経緯で連れて来られた美青年が集まっていたが、その中でも若いヴィリアーズは破格の扱いを受けている。
しかし、ジェームズは妃アン・オブ・デンマークとの間に二男一女を儲けている。つまり、彼はそういう男なのだ。
とにかく、ジェームズのヴィリアーズへの寵愛ぶりは目を瞠るものがあった。郷紳の息子でしかなかった彼に騎士の称号を授けたものの、何の役職もないヴィリアーズを宮廷に留めるため、こともあろうに息子チャールズの教育係に任命したのだ。そのため、チャールズははからずも父の愛人と暮らすことになってしまったのである。
ヴィリアーズは見た目と同じく、軽薄で傲慢な若者だった。そんな男と王子が寝食を共にすることを心配する者もいた。美貌しか持たず、政治的能力を持たないヴィリアーズが王と王子の側に侍るのは百害あって一利なし。だが、ジェームズを諌めることができる者は皆無に等しかった。
だが、今のところ皆の心配は取り越し苦労に終わりそうである。堅物で生真面目なチャールズは、「寝室でしか手柄が立てられない」ヴィリアーズを毛嫌いしている。だが、そのヴィリアーズはどういうわけかチャールズを弟のように可愛がり、一方的に慕っている。少々、歪んだ愛情表現ではあったが。
朝食を済ませたチャールズとヴィリアーズは馬車に乗り込むとホワイトホール宮殿へと向かった。父ジェームズの居城であり、宮廷の中枢である。
馬車に揺られると、ヴィリアーズはすぐに居眠りを始めた。半開きの口のままうとうとと頭を垂れ、左右にゆらりゆらりと体を揺らしていたが、やがて隣のチャールズの肩にしなだれかかる。チャールズが迷惑そうに目を上げると、無防備な寝顔が目の前にある。疲れ切った、子どものように無垢な表情。彼のゆるく縮れた栗毛が頬をくすぐり、チャールズは口を尖らせるとぐいと反対側へ押しやった。
「……あ、申し訳ございません……」
目を覚ましたヴィリアーズが欠伸を噛み殺しながら呟くと、チャールズはふんと鼻を鳴らした。
「どうせこうしてホワイトホール宮殿に参内するのだ。そのまま父上の部屋におれば良いのに」
「だから、申し上げたでございましょう。殿下と朝餐をいただきたかったと」
「ふん。心にもないことを」
「疑い深いですね、殿下は」
そう言ってヴィリアーズは笑みを浮かべると王子の腰に手を回すとぐいと引き寄せ、覆いかぶさってきた。
「ば、馬鹿者! 離せ!」
「冗談ですよ」
真っ赤になってわめき散らすチャールズに、ヴィリアーズはくすくすと笑いをこぼしながら体を起こす。どうもこの男は油断ならない。チャールズは怒りに顔を引きつらせながら、狭い車内で少しでも離れようと体を扉に寄せた。一方のヴィリアーズは微笑みを絶やさないまま王子を見つめている。視線を注いでいるのは、捕えることができなかった唇。血色の悪い、薄く白い唇。
「何を見ているっ」
鋭い声に顔を上げる。彼は極上の笑顔で答えた。
「ええ、ずっと見ていたいのですよ、殿下を」
臆面もなく言いのけるヴィリアーズに、チャールズはかっと頬を紅潮させると、ぐるりと背を向けた。
やがて馬車はホワイトホール宮殿へと到着した。セント・ジェームズ宮殿とは場所から言えば目と鼻の先だが、ホワイトホール宮殿は何せ恐ろしく広い。多くの建物が不規則に立ち並び、まるで城塞都市のようなこの宮殿は、ヨーロッパ随一の規模を誇っている。チャールズはこの豪華絢爛な宮殿での騒がしい生活を嫌い、すぐ近くに位置するセント・ジェームズ宮殿に居を移したのである。
迷路のような中庭を行き過ぎ、馬車はようやく宮殿のアプローチへと辿り着いた。美しく着飾った貴族や貴婦人たちが王子の到着を知り、皆恭しく跪く。頭を下げながらもこっそりとこちらを窺う目。奥ではひそひそと言葉が交わされている。そして、その口許には例外なく笑みが浮かんでいる。宮殿では何をしても好奇の目を向けられる。元が静かな性格のチャールズには、居心地の悪い空間でしかない。ましてや、国王ジェームズの寵愛を一身に受けた愛人ヴィリアーズを伴っていては尚更だ。チャールズは顔を伏せると大股に大廊下を歩み去った。
チャールズはヴィリアーズを待たせると父王の執務室へと向かった。
「おはようございます、父上」
「ああ」
執務机に向かった父王ジェームズは、間延びした声で顔を上げた。
「どうした、そんな顔をして。相変わらず血色が悪いな」
生まれつき体が弱いチャールズはいつも顔色が青白い上、体つきも細い。だが、それは今に始まったことではない。
「……いいえ、別に」
「剣の修行は続けているか? おまえは人より体が弱いのだ」
わかっていないのは父の方だ。確かに、自分は七歳までろくに歩けないほど病弱だった。言葉も遅く、周囲を心配させたが、それらはすべて血の滲むような努力で克服してきた。今では剣も振るえるし、馬も乗りこなせる。それなのに、自分はまだまだ軟弱者だと思われている。何故か。父が自分を見ていないからだ。父が見ているもの。それは、彼を取り巻く気が遠くなるほど大勢の愛人たちだ。
チャールズはそっと上目遣いで父を見つめた。褪せた栗毛。垢抜けない顎鬚。垂れた目が自分を眺めてくる。こんな顔で男を抱いているのかと思うと心底胸糞が悪くなる。チャールズはわずかに顔を歪めて目を逸らした。
「少しは体を動かせ。おまえは勉学のしすぎだ。勤勉なのは良いことだが、体に悪い」
父の言葉にチャールズは不本意そうに口を尖らす。だが、そんな彼に追い討ちをかけるように、
「そういえば、スティーニはどうした。一緒ではないのか」
「父上!」
チャールズは裏返った声で叫んだ。
「あれをスティーニと呼ぶのはおやめ下さい!」
「そう目くじらを立てるな」
真っ赤になって詰め寄る息子に、ジェームズは呑気に笑う。
ジェームズはヴィリアーズをスティーニという愛称で呼んでいた。スティーニとは、天使のように美しいと称された聖ステパノのことだ。愛人を天使呼ばわりする父を、チャールズは軽蔑を込めた目で凝視した。
「そうだ。午後は予定を空けておけ。少し付き合え」
「……何です」
「魔女裁判がある」
父がさらりと口にした言葉にチャールズは顔をしかめた。
「先月捕らえられた魔女がようやくロンドンに移送されてきた。魔女は徹底的に消さねばならん。魔女裁判は実に学ぶことが多いぞ。魔女がいかに恐ろしいか。そして、女がいかに愚かしいか」
ジェームズの悪魔嫌いは有名だった。悪魔や魔女といったものに病的な嫌悪を示し、魔女についての著述を著したほどだ。そして、その根底には彼自身の女嫌いがあった。
「……では、ご一緒させていただきます」
「うむ。スティーニを呼べ。忙しくなる前に会っておかねば」
うきうきとした口調はまるで恋人との逢瀬を待ち侘びる若い娘のようだ。チャールズは目を逸らしたまま頭を下げると踵を返した。
親政を放棄し、廷臣に政治を投げ出したジェームズは「賢明にして愚かな王」と揶揄される如く、善良ではあるが凡庸で、王の器ではないと囁かれていた。それは、早熟なチャールズの耳にも届いていた。その上、公私の別なく常に愛人を侍らせている父が許せない。まだ女の方が良かった。自分は父のようにはならない。十四歳にして、チャールズは心に決めていた。
チャールズが父と謁見している間、ヴィリアーズは貴族たちが多く集まるサロンを訪れていた。美男子であり、陽気なヴィリアーズは元々女好きだった。サロンに入るや否や彼は女性たちに取り囲まれる。
「サー・ジョージ、フランスにいらっしゃった時のお話を聞かせて下さる?」
ヴィリアーズは貴婦人たちに向かって愛想を振りまいて見せた。
「退屈な毎日でございました。毎日毎日、アンリ王とその愛らしいご婦人たちの噂話で参りましたよ」
皆はどっと笑い声を上げた。五年前に崩御したフランスのアンリ四世も色の道にかけては達人で有名だった。
「まったく、カトリック教徒が聞いて呆れるような宮廷でございました。料理が絶品であったことぐらいで、後は得るものは何もございません。フランス人たちはあの美食をすべて愛欲の糧にしているのでしょう。いやはや、恐ろしい国です」
ヴィリアーズの冗談に女たちが嬌声を上げるのを、男たちはうんざりした表情で見守っていた。今や国王の寵愛が絶頂のヴィリアーズを疎んじる者は多い。我が物顔で宮廷を練り歩く彼が癪に障ってならないのだ。だが、サロンが嬌声と笑声に包まれていた、その時。従者を連れた男がやってくるとサロンの空気が一変した。女たちは眉をひそめて後ずさり、男たちは興味深そうに身を乗り出す。
「……サマセット伯……」
柔らかな栗毛に、綺麗に整えられた口髭。美しく弧を描く眉がひそめられる。鋭い眼差しでヴィリアーズを凝視する若者に、皆の視線が注がれる。
サマセット伯ロバート・カー。ヴィリアーズが現れるまで、ジェームズの寵愛を欲しいままにしていた寵臣だ。ヴィリアーズよりも五つ年上の彼は、不敵に笑みを浮かべる王の新しい愛人を見据えた。皆は興味津々に二人を見守った。
「……何故君がここにいる」
ロバートの言葉にヴィリアーズはにっこりと微笑んでみせる。
「チャールズ王子をお待ちしております、サマセット伯」
にやにやと笑う若者にロバートの目が細められ、敵意の光に満ちてゆく。
「……君が待たなければならないのは国王陛下だろう。それとも、あの純粋な殿下まで堕落させるつもりか」
ロバートの口から王と王子の名が挙げられ、人々がざわめく。
「堕落させるとは人聞きが悪い」
ヴィリアーズは大袈裟な身振りで心外そうに声を上げる。
「堕落どころか私は、陛下が堕落の淵から這い上がるのを微力ながらお手伝いさせていただいているだけです」
「何だと」
ロバートが気色ばんで一歩前へ踏み出すと、女たちが短い悲鳴を上げて騒ぐ。
「サマセット伯……!」
男たちが慌ててロバートを押し止めるが本人は顔を歪めて吐き捨てる。
「成り上がり者めが……!」
「成り上がり?」
ヴィリアーズは鼻先で笑いながら相手を見下した。
「同じ穴の貉ではございませんか。しかし、私が陛下と引き合わせられたのは天使のお導き」
そこでヴィリアーズはにっと嘲笑った。
「あなたのように骨は折りませんでしたよ」
「!」
骨を折らなかった、というのは苦労しなかったという意味ではない。ロバートは王の目を引きたいがために、馬上槍試合の会場でジェームズの眼前で落馬し、骨まで折ったのだ。だが、その怪我の功名で彼は思惑どおり王の愛人となった。
「ぬかせ!」
叫ぶや否やロバートの鞘から剣が走る。
「伯爵!」
一斉に悲鳴が上がる中、ヴィリアーズも腰の剣を抜き放つ。双方が剣を振りかぶった時。
「騒がしいぞ!」
背後から浴びせられた罵声に二人はびくりと体を震わせた。皆が振り返ると、そこには侍従を伴った少年が立ち尽くしている。
「……殿下……!」
チャールズはつかつかとロバートに歩み寄った。
「何をしている」
ロバートはまだ怒りで顔を真っ赤にしたまま譫言のように口走った。
「……サー・ジョージに侮辱されました!」
「侮辱だと。どちらが先に抜いた」
チャールズが周囲に目を走らせると、皆がロバートに視線を向ける。
「わ、私です。しかし、侮辱を受けて黙っているわけには参りません!」
その言葉が終わらないうちにチャールズは拳を相手の胸にどっと押し付けた。
「父上の耳に入れたくなかったら、これ以上吠えるな」
「……!」
ロバートは唇を噛み締めた。紅潮していた顔が見る見るうちに青ざめてゆく。しばらく怒りに震えたまま王子を凝視していたロバートだったが、やがて悔しげな表情で剣を収める。
「……行くぞ。ヴィリアーズ」
「はっ」
チャールズはさっと踵を返した。ヴィリアーズは剣を静かに鞘へ収めるとにっこり微笑んだ。そして、馬鹿丁寧に頭を下げると王子に続いた。残された人々は、恐る恐るロバートを見つめる。肩を小刻みに震わせた若い伯爵は、微動だにせず彼らを見送った。
「殿下」
大股で大廊下をゆく主を小走りに追う。
「とても素敵でしたよ。惚れてしまいそうです」
「ヴィリアーズ」
振り向かないまま名を呼ばれる。
「……父上がお呼びだ」
ヴィリアーズはその場に立ち尽くした。やや遅れてチャールズも立ち止まり、相手を見上げる。ヴィリアーズはどこか疲れた表情で笑うと、「御意」と囁いた。そして、一礼すると気力を奮い起こすように胸を張り、重い足取りでその場を立ち去った。
ヴィリアーズはまっすぐ王の執務室へ向かった。扉の両脇を守る衛士は無表情で王の愛人を迎えた。決して目を合わそうとしない彼らに一瞥をくれると、ヴィリアーズは扉を叩く。
「陛下、ヴィリアーズです」
扉が開かれる。扉を開いた秘書官は上目遣いにヴィリアーズを見つめると入れ違いに出ていった。
「スティーニ!」
愛しい若者を目にしたジェームズは喜びの声を上げると両腕を広げて歩み寄った。
「どうして寝床を抜け出した。おまえという奴は」
そう言って抱きしめると愛しげにヴィリアーズの背を優しく撫でる。ヴィリアーズは無表情で愛撫されていたが、やがて目を閉じ、唇の端に皮肉な笑みが浮かぶ。
「申し訳ございません。チャールズ王子と朝餐をご一緒するのが、自分に課した決まり事でございますので」
「チャールズか」
腕をほどかれ、まじまじと見つめられる。が、大きな両の手は腰や背を撫で回し続けている。
「はい。殿下は、本当は大変な寂しがり屋でいらっしゃいますから」
「おお、おまえは優しいな、スティーニ」
そう言ってジェームズはヴィリアーズの頬に唇を押し付けると腰を抱く。瞬間、背筋にぞくりと寒気が走る。ヴィリアーズは微かに歯を食いしばると目を閉じた。
ジェームズの愛人になって一年。もう慣れたと言い聞かせていたが、相手を厭う気持ちはまだ体の奥底に残っているらしい。彼は、食いしばった口から静かに息を吐き出した。
議場は狂乱の渦だった。興奮した人々が口々に罵声を張り上げながら身を乗り出している。二階に張り出したバルコニーでは、床が抜けんばかりに地団駄を踏む人々が喚き散らしている。その人々の憎悪を一身に受ける一人の老女。彼女はがだがたと震えていながらも口許に笑みを絶やさなかった。
「国王陛下並びにチャールズ王子殿下のお成りである!」
衛兵の声に皆が熱狂的な喝采を送る。ジェームズが議場に設けられた「裁判長席」に座し、チャールズが隣に控える。
「これより、デボンシャーにおけるジョン・ヘイズ殺害事件の裁判を行う」
ジェームズ自らが高らかに宣言し、聴衆は一気に歓声を上げた。
ウェストミンスター宮殿の一角に位置するこの議場では、しばしば国王ジェームズが裁判長となり、魔女裁判が行われていた。傍聴する人々は実に様々だ。貴族やその子女、中流階級の商人、薄汚い姿格好のロンドン市民も多い。皆の狂気に満ちた顔貌を、チャールズは眉をひそめて眺めた。
役人の一人が壇上に上がり、書面を見ながら声を張り上げる。
「モランド村のマージェリー・ヘイズ。この女は自らの夫を魔術を使って殺害せしめた。方法は以下のとおりである。魔術によって生成された毒を盛り、身体の自由を奪った上で夫の頭部を箒の柄で殴打。死因はその打撲である」
「……箒?」
チャールズが思わず呟く。すると役人の一人が一本の貧弱げな箒を捧げ持ち、聴衆に見せる。議場にどよめきが広がる。汚れが目立つが、どうやらそれは黒く変色した血痕のようだ。
「こちらが実際に使用された箒である。ご覧のとおり、直径は一インチにも満たない細い柄であるにも関わらず、ジョン・ヘイズはこの箒の殴打によって死亡した。これはまさしく魔術による加重があったものと思われる」
ジェームズは不満そうに顔を歪めた。
「それだけか? それだけでは信じられぬ」
イングランドにおける魔女裁判では、厳格な規定が定められていた。裁判にかけられるのは、魔術による人の殺害、もしくは家畜への害があった場合だけである。それも、証拠がなければ有罪にはならない。そのため、魔女裁判といえど慎重な審議が重ねられる。
「その貧相な箒が、夫を殺した瞬間にだけ重くなったと言うのか? 馬鹿馬鹿しい。現実的ではない……」
が、その時。
「じゃあ、やってみるかい!」
そう叫ぶと、老女は衛兵の手を振り払って箒を掴んだ。
「おい!」
衛兵の制止を振り切り、老女は笑い声を上げながら箒を壇上のジェームズに投げ付けた。
「!」
咄嗟にチャールズが前へ飛び出すと箒を叩き落とす。瞬間、眩い白い光が弾け、皆が顔を覆う。
「……ッ!」
腕がまるで炎に焼かれたような激痛に襲われ、チャールズは呻き声を上げてしゃがみ込む。
「殿下!」
そして、床に落とされた箒が轟音と共に床を抜く。
「あっ……!」
人々が絶句する中、老女がからからと高笑いを上げる。
「どうだ、すごいだろう! これだけの力があればあんな奴なんか!」
床には三フィート程の穴がまるで地獄への入口のようにぽっかりと口を開けている。
「あいつが悪いんだ! 年甲斐もなく若い女ばかり漁りやがって! だから殺してやったんだ! あいつが悪いんだ!」
人々が狂乱に陥って悲鳴を上げる中、ジェームズはすっくと立ち上がった。
「魔女だ! 火刑にせよ!」
衛兵らが雪崩のように老女を取り押さえる。
「ははは! ははは! みんな、みんな殺してやる! 殺してやる!」
胸に突き刺さるような不気味な笑い声を上げたまま、老女は引き立てられていった。落ち窪んだ両目をかっと見開き、無数の皺に埋もれた顔を狂気に引き攣らせ、笑い続ける老女を忌ま忌ましげに睨みつけていたジェームズがはっと振り返る。
「……チャールズ!」
チャールズは数人の司教に囲まれ、腕に聖水をかけられている最中だった。
「チャールズ……! チャールズ、大丈夫か!」
「……大丈夫です」
顔を強張らせたチャールズは低い声で囁いた。
「もう、痛みはありません」
「おお、おまえは勇敢だな……! 嬉しいぞ!」
ジェームズは喜びに震えながら息子を抱きしめた。本人は複雑な表情で抱かれながら、右手をそっと見つめた。