液冷に踏み切った日本(IF)
昭和十二年初夏。
東京・霞が関の一室で、誰にも祝われない決断が下された。
陸海軍合同航空技術会議。
長机の上に並ぶ資料の表紙には、無機質な文字が並んでいる。
「航空発動機開発方針転換に関する件」
それは、これまで日本が拠り所としてきた空冷星型発動機中心主義を捨て、液冷発動機を国家主軸に据えるという提案だった。
静まり返った室内で、海軍側の技術少将が言った。
「――認めましょう。空冷は強い。しかし、速くはならない」
誰も反論しなかった。
すでに報告書は机上に揃っていた。欧州からもたらされた戦訓、ドイツの高速戦闘機、英国の新型迎撃機。速度と高空性能が、戦争の形を変えつつあることは明白だった。
陸軍航空本部の技術将校が続ける。
「我々は軽さで勝ってきた。しかし、次は重くても、速い者が勝つ戦になります」
言葉は淡々としていたが、その意味は重い。
それは日本が、これまでの「器用な職人国家」から「精度で殴る工業国家」へ変わることを意味していた。
沈黙ののち、会議議長が一言だけ告げた。
「――液冷でいく」
拍手はなかった。
歓声もなかった。
ただ、日本の進路が、音もなく変わった。
翌年から、航空機産業は異様な様相を帯び始める。
発動機工場には新しい工作機械が据え付けられ、設計図にはこれまで見慣れぬ寸法公差が並んだ。
整備員教育は一新され、士官学校では「冷却系故障時の対処」が必修となった。
川崎航空機では、倒立V型液冷発動機の試験が昼夜を問わず続いた。
発動機は回る。しかし、長くは保たない。
ポンプが漏れ、パッキンが裂け、金属疲労が予想より早く現れる。
それでも、止まらなかった。
止まれなかった。
欧州ではすでに、速度が正義になりつつあったからだ。
昭和十三年。
陸軍は細身の戦闘機を初飛行させる。
それはまだ「飛燕」と呼ばれていなかった。
形式番号すら与えられていない、ただの試作機だった。
だが、飛んだ。
細い胴体、長い機首、機首下面に覗くラジエータ。
速度計の針が、従来機ではあり得ない数値を示す。
「……速いな」
試験飛行を見守っていた将校が、思わず呟いた。
その言葉に、歓喜はなかった。
あまりにも当たり前の結果だったからだ。
海軍も、遅れまいと動いた。
艦上戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機。
すべてに液冷発動機を搭載するという、前代未聞の計画。
「艦上機に液冷は脆い」
反対意見は山ほどあった。
だが、最終的に押し切ったのは、たった一行の評価だった。
「空母戦は速度で決する」
愛知では高速急降下爆撃機が形を取り始め、
中島では新型艦上攻撃機が、従来より一回り細い胴体を与えられた。
それらは後に、彗星、天山と呼ばれることになる。
昭和十六年初頭。
南九州、鹿児島湾。
空母機動部隊の一部が、秘匿された訓練海域に集結していた。
目標は、海に描かれた白線。
戦艦を模した浮標群。
飛行場を模した砂地の区画。
空には、見慣れぬ光景が広がっていた。
細身の戦闘機が、高速で旋回する。
急降下爆撃機が、ほとんど垂直に落ちてくる。
雷撃機が、これまでより低く、速く、一直線に海面を駆ける。
「……まるで外国の艦隊だな」
誰かが冗談めかして言った。
だが、その声はすぐに消えた。
訓練の結果は、圧倒的だった。
命中率、生還率、攻撃時間。
すべてが、これまでの艦上航空隊を凌駕していた。
指揮官たちは、互いに顔を見合わせる。
勝てる。
そう、誰もが思った。
だが同時に、誰もが感じていた。
この力は、短距離走者のそれだと。
精密で、速く、鋭い。
しかし、消耗に弱い。
整備員たちは夜通しで冷却系を点検し、
補給担当は部品の不足に顔を歪めた。
それでも、止まらなかった。
止まれなかった。
鹿児島の夜空に、液冷発動機の甲高い音が響く。
その音は、勝利の前奏にも、破滅の序曲にも聞こえた。
日本は、この時すでに――最も正しい舵を切り、最も深い敗北へ向かっていた。
ーー
一九四一年一二月七日。
午前六時。
空母《赤城》飛行甲板。
夜明けはまだ遠く、甲板灯の淡い光だけが艦載機の輪郭を浮かび上がらせていた。
並ぶ機体は、これまでの日本海軍航空隊とはまるで異なる姿をしている。
細長い機首。
星型ではない、直線的な胴体。
機首下面に控えめに覗く冷却器。
液冷発動機搭載艦上戦闘機。
液冷急降下爆撃機。
液冷艦上攻撃機。
誰もがそれを「異形」と感じながら、同時に理解していた。
――これは、速い。
「第一次攻撃隊、発艦用意」
拡声器の声は冷静だった。
訓練で何度も繰り返した手順。鹿児島湾で飽きるほど行った動き。
だが今日は違う。
目標は演習用の浮標ではない。
実在する艦隊。
実在する基地。
実在する国。
最初に動いたのは戦闘機隊だった。
飛燕――と、いつの間にかそう呼ばれるようになっていた戦闘機が、次々に滑走を始める。
機首が軽く持ち上がり、ほとんど失速感のないまま空へ溶け込む。
「……早いな」
艦橋で見送る参謀が、思わず漏らした。
加速が違う。
上昇が違う。
編隊を組む速度域が、これまでより一段上にある。
続いて彗星。
急降下爆撃機とは思えぬほど、すっきりとした機影が甲板を離れる。
最後に天山。
雷装を抱えながらも、従来機より明らかに軽快だった。
発艦は予定よりも早く終わった。
空母部隊の上空で編隊が整う頃、太陽が水平線から顔を出す。
オレンジ色の光を受けて、機体下面の金属が鈍く輝いた。
その光は、誰にも見られていない。
まだ、この空は日本のものだった。
――オアフ島。
レーダー施設は、異常を示していた。
だがそれを見ていた兵は、訓練機の編隊だと判断した。
史実と同じ判断。
だが違うのは、近づいてくる速度だった。
日本機は、想定より早く現れた。
真珠湾上空。
制空隊の飛燕が、雲を切り裂くように降下する。
P-36、P-40。
慌てて上がる米軍戦闘機は、加速で置き去りにされた。
「追いつかない……!」
無線に焦りが混じる。
上昇戦での差は、もはや議論の余地がなかった。
飛燕は無理に格闘戦を挑まない。
上から来て、撃って、去る。
訓練で叩き込まれた戦い方だった。
第一次爆撃隊が、湾内へ侵入する。
彗星が、ほとんど垂直に落ちてくる。
急降下角は深く、速度は速い。
九九艦爆よりも短い時間で照準が合う。
照準器の中で、戦艦の甲板が異様なほど大きく見えた。
「投下!」
爆弾は、吸い込まれるように落ちた。
爆発。
炎。
鋼板がめくれ上がる。
命中率は、異常だった。
戦艦。
爆弾が弾薬庫近くを直撃し、次の瞬間、艦が内側から破裂した。
湾内に、巨大な火柱が立ち上がる。
雷撃隊も、史実とは違った。
天山は低く、そして速い。
対空砲火の照準が合う前に、魚雷を放つ。
水面を走る白い航跡。
戦艦の舷側に、次々と命中。
米軍の反応は、遅れた。
攻撃が始まった時点で、すでに第一次隊の仕事は半分終わっていた。
飛行場では、彗星の一部が爆弾を落とす。
駐機中の航空機が炎上し、滑走路が裂ける。
空では、飛燕が支配していた。
米軍機は勇敢に上がるが、戦闘にならない。
速度差が、そのまま生死の差になる。
被弾する前に、日本機は去っている。
攻撃は、予定より短時間で終わった。
そして、ほぼ予定通りの損害で済んだ。
帰投する編隊の中で、誰かが言った。
「……楽だったな」
その言葉に、誰も笑わなかった。
楽すぎたのだ。
空母に戻る機体。
甲板では整備員が待ち構え、即座に機体を引き込む。
損傷は少ない。
想定よりも、あまりに少ない。
司令部に届く報告は、次第に数字を上げていく。
戦艦大破。
飛行場壊滅。
航空機多数破壊。
成功。
圧倒的成功。
だが、その報告を聞いた参謀の一人は、書類から目を離さなかった。
「……被害が、少なすぎる」
それは、不吉な違和感だった。
勝ちすぎている。
相手が、何もしてこなかったかのように。
第一次攻撃は、完璧だった。
そしてそれは――取り返しのつかない成功だった。
第一次攻撃隊の帰投が始まった頃、機動部隊司令部は奇妙な静けさに包まれていた。
無線は静かだった。
報告は整然としており、悲鳴も混乱もない。
それが、かえって異様だった。
「第一次攻撃、概ね成功」
参謀が淡々と告げる。
戦艦複数大破。
航空基地機能喪失。
迎撃機、ほぼ無力。
数字だけ見れば、作戦は完璧だった。
だが、艦橋にいた誰もが理解していた。
まだ終わっていない。
航空参謀の一人が、資料をめくる。
「敵燃料タンク群……未攻撃です」
誰もがその文字を見た。
真珠湾背後、巨大な貯油施設。
太平洋艦隊を動かす血液。
「乾ドックも無事だな」
別の声。
艦の修理能力。
戦艦が沈んでも、浮かび上がる場所。
誰かが言葉を発する前に、空母飛行甲板では動きが始まっていた。
整備員が機体を引き出し、
弾薬が運ばれ、
燃料が注ぎ込まれる。
止める者はいなかった。
「第二次攻撃を準備しているのか?」
司令が尋ねる。
参謀は一拍置いて答えた。
「……可能です」
それがすべてだった。
液冷発動機は、整備に手がかかる。
だが鹿児島での訓練は、この瞬間のためにあった。
冷却系点検、必要最低限。
完全整備ではない。
それでも、飛ぶ。
第二次攻撃隊、発艦。
今度は、迷いがなかった。
真珠湾上空。
煙はさらに濃くなり、視界は悪化していた。
だが、敵の対空火力は依然として鈍い。
彗星が、再び落ちていく。
狙いは、艦ではない。
燃料タンク。
爆弾が命中した瞬間、
炎は「爆発」ではなく「広がり」になった。
巨大な黒煙が立ち上がり、
貯蔵されていた燃料が、空へと解き放たれる。
「当たった……」
操縦士が、呆然と呟く。
その炎は、軍港を照らす灯台のようだった。
乾ドックにも爆弾が落ちる。
鋼鉄の構造物が歪み、
水が溢れ、
修理能力が失われていく。
米軍の反撃は、必死だった。
対空砲が、ようやく組織的に撃ち始める。
だが、遅い。
あまりに遅い。
飛燕は、もはや迎撃を気にしなかった。
敵機は、ほとんど上がらない。
上がっても、追いつけない。
第二次攻撃は、第一次以上の成功を収めた。
そして――それでも、終わらなかった。
空母機動部隊は、まだ無傷だった。
航空隊も、まだ健在だった。
損耗は、想定を下回っている。
「第三次……行けます」
その言葉が、誰の口から出たのかは分からない。
だが、止める者はいなかった。
第三次攻撃の目的は、もはや戦術ではない。
破壊そのものだった。
湾内に残る艦。
炎上中の施設。
逃げ惑う補助艦艇。
彗星は、繰り返し落ちる。
天山は、爆装で滑走路を裂く。
米軍の抵抗は、怒りに変わっていた。
無秩序な射撃。
必中を狙わない弾幕。
その中で、一機、また一機と日本機が被弾する。
液冷機は、脆かった。
冷却器に穴が開いた機体は、数分で限界を迎える。
煙を吐きながら、海へ消える影。
それでも、攻撃は止まらない。
止まれなかった。
第三次攻撃が終わった時、真珠湾は、もはや軍港ではなかった。
ただの、燃え尽きた港だった。
帰投する機体の数は、確実に減っていた。
甲板で整備員が数える。
一機足りない。
また一機足りない。
司令部に届く最終報告。
敵艦隊壊滅的打撃。
燃料施設全滅。
修理能力喪失。
完勝。
歴史に残る大勝利。
だが、その夜。
艦橋に立つ司令は、海を見つめたまま言った。
「……やりすぎたな」
誰も否定しなかった。
否定できなかった。
この瞬間、アメリカは「被害者」ではなくなった。
復讐者になった。
日本は、勝利の中で理解した。
この戦争は、もう短期では終わらない。
いや――終わらせてもらえない。
第二次、第三次攻撃。
それは軍事的には正しく、政治的には致命的だった。
そして、破滅への航路は、誰にも修正できない角度で固定された。
真珠湾から戻った機動部隊は、英雄として迎えられた。
新聞は連日大見出しを踊らせ、街では万歳が起こり、子供たちは飛行機の絵を描いた。
政府は沈黙し、軍は語らず、ただ「大戦果」という言葉だけが独り歩きした。
それで十分だった。
国民は、勝利を理解する必要などなかった。
だが、艦隊の中では、空気が違っていた。
帰投から数日後。
南方海域で、最初の異変が起きる。
哨戒任務に出た液冷戦闘機が、帰ってこなかった。
敵影なし。被弾報告なし。
ただ、無線が途切れた。
調査は行われなかった。
原因は「整備不良」と処理された。
同じ事例が、繰り返される。
巡航中の発動機停止。
冷却水漏れ。
過熱。
戦闘ではない。
戦場ですらない。
「使いすぎだ」
整備員の一人が言った。
鹿児島での訓練は、理想条件だった。
補給は十分。
交換部品は潤沢。
時間もあった。
だが、戦争は違う。
液冷発動機は、正確な部品を要求する。
微細な歪みを許さない。
粗雑な整備を拒絶する。
そして南方は、暑かった。
湿度。
塩分。
熱。
それらは、冷却系を静かに殺していく。
それでも、命令は止まらなかった。
なぜなら――勝っていたからだ。
飛燕は速かった。
彗星は当たった。
天山は生き残った。
それが、すべてを正当化した。
米軍は変わった。
真珠湾の報告は、米本土に衝撃ではなく、確信を与えた。
日本は弱くない。
侮れない。
ならば――全力で叩くしかない。
生産計画は、書き換えられた。
性能ではなく、持続力。
技巧ではなく、再現性。
多少粗くても、飛ぶ。
被弾しても、帰る。
それが最優先になった。
レーダー網が広がる。
迎撃体系が整う。
数で押す戦術が、迷いなく採用される。
一方、日本は逆だった。
液冷を選んだことで、後戻りができなくなった。
空冷への回帰は「敗北の証」とされた。
改良は「今の路線の延長」でしか許されない。
整備員が減っていく。
事故で死ぬ者。
過労で倒れる者。
責任を取らされ、消える者。
だが発動機は、許してくれない。
飛行時間が制限される。
訓練が削られる。
若い搭乗員が、実戦で初めて限界を知る。
その頃、米軍は「相手の弱点」を理解し始めていた。
狙うのは、冷却器。
無理に撃墜しない。
一発でいい。
煙を吐かせ、引き返させ、落とす。
空戦の形が、変わった。
高速で来る日本機に、無理に追いすがらない。
待ち、撃ち、追わない。
帰路で落ちるのを、知っているからだ。
戦果報告は、歪み始める。
「敵機撃墜」
「未帰還一」
その間にあるものを、誰も書かない。
前線では、静かな恐怖が広がっていた。
被弾よりも、
敵よりも、
自分の機体が怖い。
「今日も、もつか?」
搭乗前に、誰かが必ずそう呟く。
ある夜、彗星隊の若い搭乗員が言った。
「……俺たち、勝ってますよね?」
誰も即答しなかった。
補給が、追いつかなくなる。
精密部品が不足する。
代用品が使われる。
液冷は、それを拒絶する。
飛ばなかった機体は、整備不良として処理される。
飛んで落ちた機体は、戦死として処理される。
原因は、どこにも残らない。
日本は、勝利に縛られていた。
真珠湾で見せつけた「性能」を、
落とすことができなかった。
改良するたびに、
さらに精密になり、
さらに壊れやすくなった。
その頃、米軍の機体は逆だった。
重くなり、
鈍くなり、
だが、帰ってきた。
ある戦闘で、飛燕隊は空を制圧した。
撃墜多数。
被弾なし。
だが、帰還途中で三機が落ちた。
理由は――過熱。
司令部は、沈黙した。
報告書は、破棄された。
勝利は、続いていることになっていた。
だが、現実では、日本は、消耗に負け始めていた。
液冷という選択は、間違っていなかった。
だが、それは短期決戦国家が選んではならない刃だった。
最も鋭く、最も美しく、最も早く折れる。
真珠湾で始まった勝利は、ここで、形を変えた。
それはもう、敗北へ向かう勝利だった。
敗北は、ある日突然やって来るものではなかった。
それは、勝利の延長線上に、丁寧に敷設されていた。
ーー
昭和十八年。
日本の航空機工場は、かつてない忙しさに包まれていた。
ラインは動いている。
発動機は組み上がっている。
書類上の生産数は、決して少なくない。
だが、前線に届く機体は、足りなかった。
液冷発動機は、最後まで気難しかった。
設計通りに作れば、確かに性能は出る。
だが設計通りに作れる環境が、すでに失われていた。
合金が不足する。
工作機械が摩耗する。
熟練工が減る。
それでも、液冷は許容しない。
空冷なら回ったであろう誤差で、
液冷は止まった。
整備兵たちは、知っていた。
この機体は、本来ここで使うものではない。
この国の工業力は、ここまで精密な戦争を維持できない。
だが、それを口にする者はいなかった。
なぜなら、最初にそれを選んだのは、
勝利した日本だったからだ。
前線では、飛燕が飛び続けていた。
数は減り、
搭乗員は若くなり、
帰還率は下がっていた。
それでも、敵機と正面から戦えば、まだ勝てた。
問題は、そこではなかった。
米軍は、もはや勝負をしていなかった。
撃墜数を競わない。
制空を誇らない。
ただ、日本機を飛ばせなくする。
レーダーで捕捉し、
上昇を強要し、
冷却水を削る。
深追いはしない。
帰路で落ちることを、最初から計算している。
空戦は、処刑になった。
彗星は、もう急降下できなくなっていた。
急降下は発動機に負担が大きい。
冷却系の寿命を縮める。
天山は、雷装を減らされた。
重量を抑えなければ、帰れない。
性能を誇った機体は、
性能を発揮することを禁じられていった。
昭和十九年。
本土防空戦。
B-29の編隊が、雲の上から現れる。
迎撃に上がる飛燕は、少ない。
数の問題ではない。
飛ばせる機体がない。
上がった機体も、高度で限界を迎える。
冷却水温、限界。
油温、限界。
それでも、行く。
行かねばならない。
20mm弾が、B-29の腹を掠める。
火は出ない。
その瞬間、飛燕の機首下面に火が走る。
冷却器被弾。
搭乗員は、無言で操縦桿を引く。
帰れないことを、理解している。
地上から、それを見上げる者がいる。
かつて、鹿児島で訓練を見ていた整備士だった。
あの時、確かに思ったのだ。
――速すぎる。
――良すぎる。
真珠湾で、日本は勝ちすぎた。
その勝利が、
「この路線で行け」という命令になった。
引き返す勇気は、
敗北を認める勇気と同義だった。
この国には、
それがなかった。
終戦が近づく頃、
工場の片隅に、初期型飛燕の試作機が残されていた。
余分なものを削ぎ落とした、
粗く、頑丈な設計。
もし、これを選んでいれば。
もし、性能を抑えていれば。
だが、その「もし」は、真珠湾の炎の中で焼き尽くされていた。
敗戦。
焼け跡。
残された記録の中で、真珠湾攻撃は「成功」と書かれ続けた。
誰も、それを否定しなかった。
否定できなかった。
日本は、正しい判断を積み重ねた。
その結果として、
最も逃げ場のない敗北に辿り着いた。
液冷という選択は、間違いではなかった。
ただ、それを選べる国ではなかった。
最も鋭い剣を手にし、最も脆い柄しか持たなかった。
それが、この国の戦争だった。
真珠湾から始まった勝利は、ここで、完全に終わった。
誰にも祝われず、誰にも総括されず、ただ、静かに。
――敗北だけが、完成していた。




