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さまざまな短編集

液冷に踏み切った日本(IF)

作者: 仲村千夏
掲載日:2026/02/08

 昭和十二年初夏。

 東京・霞が関の一室で、誰にも祝われない決断が下された。


 陸海軍合同航空技術会議。

 長机の上に並ぶ資料の表紙には、無機質な文字が並んでいる。


「航空発動機開発方針転換に関する件」


 それは、これまで日本が拠り所としてきた空冷星型発動機中心主義を捨て、液冷発動機を国家主軸に据えるという提案だった。


 静まり返った室内で、海軍側の技術少将が言った。


「――認めましょう。空冷は強い。しかし、速くはならない」


 誰も反論しなかった。

 すでに報告書は机上に揃っていた。欧州からもたらされた戦訓、ドイツの高速戦闘機、英国の新型迎撃機。速度と高空性能が、戦争の形を変えつつあることは明白だった。


 陸軍航空本部の技術将校が続ける。


「我々は軽さで勝ってきた。しかし、次は重くても、速い者が勝つ戦になります」


 言葉は淡々としていたが、その意味は重い。

 それは日本が、これまでの「器用な職人国家」から「精度で殴る工業国家」へ変わることを意味していた。


 沈黙ののち、会議議長が一言だけ告げた。


「――液冷でいく」


 拍手はなかった。

 歓声もなかった。

 ただ、日本の進路が、音もなく変わった。


 翌年から、航空機産業は異様な様相を帯び始める。


 発動機工場には新しい工作機械が据え付けられ、設計図にはこれまで見慣れぬ寸法公差が並んだ。

 整備員教育は一新され、士官学校では「冷却系故障時の対処」が必修となった。


 川崎航空機では、倒立V型液冷発動機の試験が昼夜を問わず続いた。

 発動機は回る。しかし、長くは保たない。

 ポンプが漏れ、パッキンが裂け、金属疲労が予想より早く現れる。


 それでも、止まらなかった。


 止まれなかった。


 欧州ではすでに、速度が正義になりつつあったからだ。


 昭和十三年。

 陸軍は細身の戦闘機を初飛行させる。


 それはまだ「飛燕」と呼ばれていなかった。

 形式番号すら与えられていない、ただの試作機だった。


 だが、飛んだ。


 細い胴体、長い機首、機首下面に覗くラジエータ。

 速度計の針が、従来機ではあり得ない数値を示す。


「……速いな」


 試験飛行を見守っていた将校が、思わず呟いた。


 その言葉に、歓喜はなかった。

 あまりにも当たり前の結果だったからだ。


 海軍も、遅れまいと動いた。


 艦上戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機。

 すべてに液冷発動機を搭載するという、前代未聞の計画。


「艦上機に液冷は脆い」


 反対意見は山ほどあった。

 だが、最終的に押し切ったのは、たった一行の評価だった。


「空母戦は速度で決する」


 愛知では高速急降下爆撃機が形を取り始め、

 中島では新型艦上攻撃機が、従来より一回り細い胴体を与えられた。


 それらは後に、彗星、天山と呼ばれることになる。


 昭和十六年初頭。

 南九州、鹿児島湾。


 空母機動部隊の一部が、秘匿された訓練海域に集結していた。


 目標は、海に描かれた白線。

 戦艦を模した浮標群。

 飛行場を模した砂地の区画。


 空には、見慣れぬ光景が広がっていた。


 細身の戦闘機が、高速で旋回する。

 急降下爆撃機が、ほとんど垂直に落ちてくる。

 雷撃機が、これまでより低く、速く、一直線に海面を駆ける。


「……まるで外国の艦隊だな」


 誰かが冗談めかして言った。


 だが、その声はすぐに消えた。


 訓練の結果は、圧倒的だった。

 命中率、生還率、攻撃時間。

 すべてが、これまでの艦上航空隊を凌駕していた。


 指揮官たちは、互いに顔を見合わせる。


 勝てる。

 そう、誰もが思った。


 だが同時に、誰もが感じていた。


 この力は、短距離走者のそれだと。


 精密で、速く、鋭い。

 しかし、消耗に弱い。


 整備員たちは夜通しで冷却系を点検し、

 補給担当は部品の不足に顔を歪めた。


 それでも、止まらなかった。


 止まれなかった。


 鹿児島の夜空に、液冷発動機の甲高い音が響く。

 その音は、勝利の前奏にも、破滅の序曲にも聞こえた。


 日本は、この時すでに――最も正しい舵を切り、最も深い敗北へ向かっていた。


 ーー


 一九四一年一二月七日。

 午前六時。

 空母《赤城》飛行甲板。


 夜明けはまだ遠く、甲板灯の淡い光だけが艦載機の輪郭を浮かび上がらせていた。

 並ぶ機体は、これまでの日本海軍航空隊とはまるで異なる姿をしている。


 細長い機首。

 星型ではない、直線的な胴体。

 機首下面に控えめに覗く冷却器。


 液冷発動機搭載艦上戦闘機。

 液冷急降下爆撃機。

 液冷艦上攻撃機。


 誰もがそれを「異形」と感じながら、同時に理解していた。

 ――これは、速い。


「第一次攻撃隊、発艦用意」


 拡声器の声は冷静だった。

 訓練で何度も繰り返した手順。鹿児島湾で飽きるほど行った動き。


 だが今日は違う。

 目標は演習用の浮標ではない。


 実在する艦隊。

 実在する基地。

 実在する国。


 最初に動いたのは戦闘機隊だった。


 飛燕――と、いつの間にかそう呼ばれるようになっていた戦闘機が、次々に滑走を始める。

 機首が軽く持ち上がり、ほとんど失速感のないまま空へ溶け込む。


「……早いな」


 艦橋で見送る参謀が、思わず漏らした。


 加速が違う。

 上昇が違う。

 編隊を組む速度域が、これまでより一段上にある。


 続いて彗星。

 急降下爆撃機とは思えぬほど、すっきりとした機影が甲板を離れる。


 最後に天山。

 雷装を抱えながらも、従来機より明らかに軽快だった。


 発艦は予定よりも早く終わった。

 

 空母部隊の上空で編隊が整う頃、太陽が水平線から顔を出す。

 オレンジ色の光を受けて、機体下面の金属が鈍く輝いた。


 その光は、誰にも見られていない。

 まだ、この空は日本のものだった。


 ――オアフ島。


 レーダー施設は、異常を示していた。

 だがそれを見ていた兵は、訓練機の編隊だと判断した。


 史実と同じ判断。

 だが違うのは、近づいてくる速度だった。


 日本機は、想定より早く現れた。


 真珠湾上空。

 制空隊の飛燕が、雲を切り裂くように降下する。


 P-36、P-40。

 慌てて上がる米軍戦闘機は、加速で置き去りにされた。


「追いつかない……!」


 無線に焦りが混じる。

 上昇戦での差は、もはや議論の余地がなかった。


 飛燕は無理に格闘戦を挑まない。

 上から来て、撃って、去る。


 訓練で叩き込まれた戦い方だった。


 第一次爆撃隊が、湾内へ侵入する。


 彗星が、ほとんど垂直に落ちてくる。

 急降下角は深く、速度は速い。


 九九艦爆よりも短い時間で照準が合う。

 照準器の中で、戦艦の甲板が異様なほど大きく見えた。


「投下!」


 爆弾は、吸い込まれるように落ちた。


 爆発。

 炎。

 鋼板がめくれ上がる。


 命中率は、異常だった。


 戦艦アリゾナ

 爆弾が弾薬庫近くを直撃し、次の瞬間、艦が内側から破裂した。


 湾内に、巨大な火柱が立ち上がる。


 雷撃隊も、史実とは違った。


 天山は低く、そして速い。

 対空砲火の照準が合う前に、魚雷を放つ。


 水面を走る白い航跡。

 戦艦の舷側に、次々と命中。


 米軍の反応は、遅れた。


 攻撃が始まった時点で、すでに第一次隊の仕事は半分終わっていた。


 飛行場では、彗星の一部が爆弾を落とす。

 駐機中の航空機が炎上し、滑走路が裂ける。


 空では、飛燕が支配していた。


 米軍機は勇敢に上がるが、戦闘にならない。

 速度差が、そのまま生死の差になる。


 被弾する前に、日本機は去っている。


 攻撃は、予定より短時間で終わった。


 そして、ほぼ予定通りの損害で済んだ。


 帰投する編隊の中で、誰かが言った。


「……楽だったな」


 その言葉に、誰も笑わなかった。


 楽すぎたのだ。


 空母に戻る機体。

 甲板では整備員が待ち構え、即座に機体を引き込む。


 損傷は少ない。

 想定よりも、あまりに少ない。


 司令部に届く報告は、次第に数字を上げていく。


 戦艦大破。

 飛行場壊滅。

 航空機多数破壊。


 成功。

 圧倒的成功。


 だが、その報告を聞いた参謀の一人は、書類から目を離さなかった。


「……被害が、少なすぎる」


 それは、不吉な違和感だった。


 勝ちすぎている。

 相手が、何もしてこなかったかのように。


 第一次攻撃は、完璧だった。


 そしてそれは――取り返しのつかない成功だった。


 第一次攻撃隊の帰投が始まった頃、機動部隊司令部は奇妙な静けさに包まれていた。


 無線は静かだった。

 報告は整然としており、悲鳴も混乱もない。


 それが、かえって異様だった。


「第一次攻撃、概ね成功」


 参謀が淡々と告げる。


 戦艦複数大破。

 航空基地機能喪失。

 迎撃機、ほぼ無力。


 数字だけ見れば、作戦は完璧だった。


 だが、艦橋にいた誰もが理解していた。

 まだ終わっていない。


 航空参謀の一人が、資料をめくる。


「敵燃料タンク群……未攻撃です」


 誰もがその文字を見た。

 真珠湾背後、巨大な貯油施設。

 太平洋艦隊を動かす血液。


「乾ドックも無事だな」


 別の声。


 艦の修理能力。

 戦艦が沈んでも、浮かび上がる場所。


 誰かが言葉を発する前に、空母飛行甲板では動きが始まっていた。


 整備員が機体を引き出し、

 弾薬が運ばれ、

 燃料が注ぎ込まれる。


 止める者はいなかった。


「第二次攻撃を準備しているのか?」


 司令が尋ねる。


 参謀は一拍置いて答えた。


「……可能です」


 それがすべてだった。


 液冷発動機は、整備に手がかかる。

 だが鹿児島での訓練は、この瞬間のためにあった。


 冷却系点検、必要最低限。

 完全整備ではない。


 それでも、飛ぶ。


 第二次攻撃隊、発艦。


 今度は、迷いがなかった。


 真珠湾上空。

 煙はさらに濃くなり、視界は悪化していた。


 だが、敵の対空火力は依然として鈍い。


 彗星が、再び落ちていく。


 狙いは、艦ではない。


 燃料タンク。


 爆弾が命中した瞬間、

 炎は「爆発」ではなく「広がり」になった。


 巨大な黒煙が立ち上がり、

 貯蔵されていた燃料が、空へと解き放たれる。


「当たった……」


 操縦士が、呆然と呟く。


 その炎は、軍港を照らす灯台のようだった。


 乾ドックにも爆弾が落ちる。


 鋼鉄の構造物が歪み、

 水が溢れ、

 修理能力が失われていく。


 米軍の反撃は、必死だった。


 対空砲が、ようやく組織的に撃ち始める。


 だが、遅い。


 あまりに遅い。


 飛燕は、もはや迎撃を気にしなかった。


 敵機は、ほとんど上がらない。


 上がっても、追いつけない。


 第二次攻撃は、第一次以上の成功を収めた。


 そして――それでも、終わらなかった。


 空母機動部隊は、まだ無傷だった。

 航空隊も、まだ健在だった。


 損耗は、想定を下回っている。


「第三次……行けます」


 その言葉が、誰の口から出たのかは分からない。


 だが、止める者はいなかった。


 第三次攻撃の目的は、もはや戦術ではない。


 破壊そのものだった。


 湾内に残る艦。

 炎上中の施設。

 逃げ惑う補助艦艇。


 彗星は、繰り返し落ちる。


 天山は、爆装で滑走路を裂く。


 米軍の抵抗は、怒りに変わっていた。


 無秩序な射撃。

 必中を狙わない弾幕。


 その中で、一機、また一機と日本機が被弾する。


 液冷機は、脆かった。


 冷却器に穴が開いた機体は、数分で限界を迎える。


 煙を吐きながら、海へ消える影。


 それでも、攻撃は止まらない。


 止まれなかった。


 第三次攻撃が終わった時、真珠湾は、もはや軍港ではなかった。


 ただの、燃え尽きた港だった。


 帰投する機体の数は、確実に減っていた。


 甲板で整備員が数える。


 一機足りない。

 また一機足りない。


 司令部に届く最終報告。


 敵艦隊壊滅的打撃。

 燃料施設全滅。

 修理能力喪失。


 完勝。


 歴史に残る大勝利。


 だが、その夜。

 艦橋に立つ司令は、海を見つめたまま言った。


「……やりすぎたな」


 誰も否定しなかった。


 否定できなかった。


 この瞬間、アメリカは「被害者」ではなくなった。


 復讐者になった。


 日本は、勝利の中で理解した。


 この戦争は、もう短期では終わらない。


 いや――終わらせてもらえない。


 第二次、第三次攻撃。

 それは軍事的には正しく、政治的には致命的だった。


 そして、破滅への航路は、誰にも修正できない角度で固定された。


 真珠湾から戻った機動部隊は、英雄として迎えられた。


 新聞は連日大見出しを踊らせ、街では万歳が起こり、子供たちは飛行機の絵を描いた。

 政府は沈黙し、軍は語らず、ただ「大戦果」という言葉だけが独り歩きした。


 それで十分だった。


 国民は、勝利を理解する必要などなかった。


 だが、艦隊の中では、空気が違っていた。


 帰投から数日後。

 南方海域で、最初の異変が起きる。


 哨戒任務に出た液冷戦闘機が、帰ってこなかった。

 敵影なし。被弾報告なし。

 ただ、無線が途切れた。


 調査は行われなかった。

 原因は「整備不良」と処理された。


 同じ事例が、繰り返される。


 巡航中の発動機停止。

 冷却水漏れ。

 過熱。


 戦闘ではない。

 戦場ですらない。


「使いすぎだ」


 整備員の一人が言った。


 鹿児島での訓練は、理想条件だった。

 補給は十分。

 交換部品は潤沢。

 時間もあった。


 だが、戦争は違う。

 

 液冷発動機は、正確な部品を要求する。

 微細な歪みを許さない。

 粗雑な整備を拒絶する。


 そして南方は、暑かった。


 湿度。

 塩分。

 熱。


 それらは、冷却系を静かに殺していく。


 それでも、命令は止まらなかった。


 なぜなら――勝っていたからだ。


 飛燕は速かった。

 彗星は当たった。

 天山は生き残った。


 それが、すべてを正当化した。


 米軍は変わった。


 真珠湾の報告は、米本土に衝撃ではなく、確信を与えた。


 日本は弱くない。

 侮れない。

 ならば――全力で叩くしかない。


 生産計画は、書き換えられた。


 性能ではなく、持続力。

 技巧ではなく、再現性。


 多少粗くても、飛ぶ。

 被弾しても、帰る。


 それが最優先になった。

 

 レーダー網が広がる。

 迎撃体系が整う。

 数で押す戦術が、迷いなく採用される。


 一方、日本は逆だった。


 液冷を選んだことで、後戻りができなくなった。


 空冷への回帰は「敗北の証」とされた。

 改良は「今の路線の延長」でしか許されない。


 整備員が減っていく。


 事故で死ぬ者。

 過労で倒れる者。

 責任を取らされ、消える者。


 だが発動機は、許してくれない。


 飛行時間が制限される。

 訓練が削られる。

 若い搭乗員が、実戦で初めて限界を知る。


 その頃、米軍は「相手の弱点」を理解し始めていた。


 狙うのは、冷却器。

 無理に撃墜しない。

 一発でいい。


 煙を吐かせ、引き返させ、落とす。


 空戦の形が、変わった。


 高速で来る日本機に、無理に追いすがらない。

 待ち、撃ち、追わない。


 帰路で落ちるのを、知っているからだ。


 戦果報告は、歪み始める。


「敵機撃墜」

「未帰還一」


 その間にあるものを、誰も書かない。


 前線では、静かな恐怖が広がっていた。


 被弾よりも、

 敵よりも、

 自分の機体が怖い。


「今日も、もつか?」


 搭乗前に、誰かが必ずそう呟く。


 ある夜、彗星隊の若い搭乗員が言った。


「……俺たち、勝ってますよね?」


 誰も即答しなかった。


 補給が、追いつかなくなる。


 精密部品が不足する。

 代用品が使われる。


 液冷は、それを拒絶する。


 飛ばなかった機体は、整備不良として処理される。

 飛んで落ちた機体は、戦死として処理される。


 原因は、どこにも残らない。


 日本は、勝利に縛られていた。


 真珠湾で見せつけた「性能」を、

 落とすことができなかった。


 改良するたびに、

 さらに精密になり、

 さらに壊れやすくなった。


 その頃、米軍の機体は逆だった。


 重くなり、

 鈍くなり、

 だが、帰ってきた。


 ある戦闘で、飛燕隊は空を制圧した。


 撃墜多数。

 被弾なし。


 だが、帰還途中で三機が落ちた。


 理由は――過熱。


 司令部は、沈黙した。


 報告書は、破棄された。


 勝利は、続いていることになっていた。


 だが、現実では、日本は、消耗に負け始めていた。


 液冷という選択は、間違っていなかった。


 だが、それは短期決戦国家が選んではならない刃だった。


 最も鋭く、最も美しく、最も早く折れる。


 真珠湾で始まった勝利は、ここで、形を変えた。


 それはもう、敗北へ向かう勝利だった。


 敗北は、ある日突然やって来るものではなかった。


 それは、勝利の延長線上に、丁寧に敷設されていた。


 ーー


 昭和十八年。

 日本の航空機工場は、かつてない忙しさに包まれていた。


 ラインは動いている。

 発動機は組み上がっている。

 書類上の生産数は、決して少なくない。


 だが、前線に届く機体は、足りなかった。


 液冷発動機は、最後まで気難しかった。


 設計通りに作れば、確かに性能は出る。

 だが設計通りに作れる環境が、すでに失われていた。


 合金が不足する。

 工作機械が摩耗する。

 熟練工が減る。


 それでも、液冷は許容しない。


 空冷なら回ったであろう誤差で、

 液冷は止まった。


 整備兵たちは、知っていた。


 この機体は、本来ここで使うものではない。

 この国の工業力は、ここまで精密な戦争を維持できない。


 だが、それを口にする者はいなかった。


 なぜなら、最初にそれを選んだのは、

 勝利した日本だったからだ。


 前線では、飛燕が飛び続けていた。


 数は減り、

 搭乗員は若くなり、

 帰還率は下がっていた。


 それでも、敵機と正面から戦えば、まだ勝てた。


 問題は、そこではなかった。


 米軍は、もはや勝負をしていなかった。


 撃墜数を競わない。

 制空を誇らない。


 ただ、日本機を飛ばせなくする。


 レーダーで捕捉し、

 上昇を強要し、

 冷却水を削る。


 深追いはしない。

 帰路で落ちることを、最初から計算している。


 空戦は、処刑になった。


 彗星は、もう急降下できなくなっていた。


 急降下は発動機に負担が大きい。

 冷却系の寿命を縮める。


 天山は、雷装を減らされた。


 重量を抑えなければ、帰れない。


 性能を誇った機体は、

 性能を発揮することを禁じられていった。


 昭和十九年。

 本土防空戦。


 B-29の編隊が、雲の上から現れる。


 迎撃に上がる飛燕は、少ない。


 数の問題ではない。

 飛ばせる機体がない。


 上がった機体も、高度で限界を迎える。


 冷却水温、限界。

 油温、限界。


 それでも、行く。


 行かねばならない。


 20mm弾が、B-29の腹を掠める。

 火は出ない。


 その瞬間、飛燕の機首下面に火が走る。


 冷却器被弾。


 搭乗員は、無言で操縦桿を引く。


 帰れないことを、理解している。


 地上から、それを見上げる者がいる。


 かつて、鹿児島で訓練を見ていた整備士だった。


 あの時、確かに思ったのだ。


 ――速すぎる。

 ――良すぎる。


 真珠湾で、日本は勝ちすぎた。


 その勝利が、

「この路線で行け」という命令になった。


 引き返す勇気は、

 敗北を認める勇気と同義だった。


 この国には、

 それがなかった。


 終戦が近づく頃、

 工場の片隅に、初期型飛燕の試作機が残されていた。


 余分なものを削ぎ落とした、

 粗く、頑丈な設計。


 もし、これを選んでいれば。

 もし、性能を抑えていれば。


 だが、その「もし」は、真珠湾の炎の中で焼き尽くされていた。


 敗戦。


 焼け跡。


 残された記録の中で、真珠湾攻撃は「成功」と書かれ続けた。


 誰も、それを否定しなかった。


 否定できなかった。


 日本は、正しい判断を積み重ねた。


 その結果として、

 最も逃げ場のない敗北に辿り着いた。


 液冷という選択は、間違いではなかった。


 ただ、それを選べる国ではなかった。


 最も鋭い剣を手にし、最も脆い柄しか持たなかった。


 それが、この国の戦争だった。


 真珠湾から始まった勝利は、ここで、完全に終わった。


 誰にも祝われず、誰にも総括されず、ただ、静かに。


 ――敗北だけが、完成していた。

 

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