第2話 彼女を追いかけて
この人気のない、魔獣が蔓延る廃墟都市で出会った少女は敵対する魔族だった。それも聖族語を操る高位の者の可能性が浮上したのだ。
「う、うぁ……」
俺は慌てて立ち上がり、逃げようとする。しかし背中に激痛が走り、前のめりに倒れてしまう。あろうことか、彼女が机に掛けた布を引っ張り、乗っかっていた道具を床にぶち撒けながらだ。
騒音を響かせて落ちた道具を見ながら、彼女の楽しげに準備していた顔が僅かに脳裏に過る。しかしボトリと目の前に落ちた生肉によって恐怖に上書きされた。
コツッと彼女の靴音が静かに鳴った。俺はほとんど反射的に身を翻し、後退りながら彼女の動向を固唾を呑んで見つめた。
「……仕方ありませんね」
淡々とそう言って彼女、デスティニアは近づいてくる。
「安心してください、危害は加えませんから」
デスティニアは怯える俺に優しく、だけど諦めの混じった声でそう言い、ゆっくりと手を伸ばして……俺の背中へと回した。
服の布地越しに彼女の体温が伝わってくる。俺達となんら変わらない、生きている人間の体温。
そして自然と顔が近づく。物言わぬ表情の代わりに、拒絶された痛みを青い瞳が物語っていた。
本来は敵対している相手からあまりにも人間的な感情を読み取った事で、俺は動揺して抵抗する事さえ忘れていた。
「な、何を……」
俺の掠れた声に彼女は静かに答えた。
「治癒魔法を使います。魔力は魔獣を引き寄せるので使いたくはありませんが、どちらにしてもこの土地で身動きが取れないのは致命的です」
言葉と共に背中に別の温かさが広がり、痛みが引いていく。
「魔族……がなんで……」
混乱した俺の頭が口に出した言葉はこんな曖昧なものだった。
「私は……魔族で禁忌とされている言語理解スキル『バベル』に目覚めました。だからここにいるのです」
治癒をしながら、彼女はポツリと言葉を零す。曖昧な言葉を彼女なりに解釈してくれたのだろう。だけど俺が言いたかったのはそういう事じゃない。
それを伝えようとしたが、彼女の瞳に視線を奪われ言葉を失った。
表情は変わらない。だけど瞳は何処か遠くを見るようで、よりいっそうの悲しみに溢れている。
何かを言いたかった。だけど俺の口はだらしなく開いたまま、何も言葉を見つけられなかった。そして答えを見つける前に治癒が終わってしまった。
立ち上がったデスティニアは溜息をひとつついて、背中を向ける。凛とした佇まいだが、孤独の悲壮感が滲み出ていた。
「わかってます。こんな言葉じゃ信じられないくらいに、私達魔族と聖族の溝は深いって」
その言葉に自分の行いが急に恥ずかしく思えてしまう。
彼女がいったい何をした? 彼女はただ俺を助けてくれただけなのに、魔族というだけで拒絶してしまった。
彼女を引き止める言葉を必死で探していると、外で咆哮が響く。
「もう来ましたか。リングスさん、拠点を危険に晒してしまってごめんなさい、貴方も早く逃げて。……私はここから西の方にいます。目印に旗を立てておきますから、もし気が向けば……いえ、なんでもありません。……さようなら」
テスはその言葉を残して足早に去っていった。
「待って……くれ……」
俺がやっと絞り出した言葉は虚しく響く。そして自分の不甲斐なさに、拳を床に打ちつけた。
【ΘΞΔκν】
赤みがかったウィンドウが視界で揺れて存在を主張している。
「クソッ、わかってるよ! 敵が来るんだろ!?」
いくら後悔を噛み締めていても、現実は俺を急かす。
近づいてくる気配に、俺は顔を上げて立ち上がる。
――背中の痛みはすっかり引いていた。
※※※
「クソッ!!!」
都市を走り回りながら、何回この言葉を口にしたかわからない。すでに日は沈み始めている。そろそろこの状況をどうにかしなければ。
俺の拠点へ向かってきていた魔獣は狼型だった。離れた所で様子見していた俺へと鼻をヒクつかせながら迫ってくる様子は、恐怖以外の何物でもなかった。魔力で強化された嗅覚がこんなに厄介だとは……。
走りながら、脳内でいくつもテスへの謝罪の言葉が浮かんでは消えていた。しかし今彼女の元へ行ったらコイツらを引き連れていく事になってしまう。それはダメだ。
「テスは、2年間も独りで頑張ってたんだ! やっと、人と会えたと喜んでいたはずだ!」
なんで俺の拠点の近くにいたのか。
それは恐らく俺に会うチャンスを伺っていたのだろう。
そして俺が一週間生き延びられたのも、恐らくテスのおかげだ。
俺は呑気に魔獣同士の小競り合いだろうと、拠点近くに置いてあった死体を持ち帰って食料にしていた。
「そんな都合の良い話が、あるかよッ!」
俺は生き残る事に必死で、物事を都合よく捉えていた。きっと真実は……テスが置いて行ってくれていたんだ。
「はぁはぁ……、まったくよぉ。俺はこんなにかっこ悪い人間なのに、憧れの英雄のスキルを発現しちまったのか?」
家と家の隙間みたいな狭い路地に入った所で、俺は振り返って吐き捨てる。
「自分でも嫌になる、これじゃ追放されても文句言えねぇよなぁ!?」
夕日に照らされて、三匹の狼がゆっくりと姿を現した。そして一列になって路地へと入ってくる。
テスと合流するのを待っていたのだろうけど――。
「テメェ等の思惑には乗ってやらねぇ! 蹴散らしてから彼女の所へ行ってやるよ!!」
俺は逃げながら手に入れた一本のダガーを構える。この路地は幅二人分も無い。襲ってくるにしても同時には来られないはずだ。
【ΣΜορ∇! 】
「わかってる、来るんだろ!」
先頭の狼が駆けた。それに合わせて俺も走る。
【‼ΡοιΗι‼】
突如、その狼の頭上に赤いウィンドウが現れる。その意味が警告だと俺は察したが、何故そこに?
すぐに疑問は解決した。先頭の狼が速度を緩め、姿勢を低くしたのだ。
すぐさま俺も姿勢を低くしてスライディング。
直後、先頭の狼を踏み台に、一匹の狼が飛び掛かってきた。
だが先手を打てた俺は、その下に潜り込む形でダガーを下っ腹に突き立てる。自分の勢いのまま勝手に腹を裂かれた狼は、俺を飛び越えてから地面に伏して動かなくなった。
それを横目で確認しながら、腰に下げた液体入りのビンを目の前の敵へ投げつける。これも逃げながら拝借した物だ。
中身は度数の高い――。
「酒だ! テメェの鼻にはよく効くだろ!!」
「ギャン!!」
スライディングの勢いそのままに、甲高い声で苦しむ狼の頭にダガーを突き刺した。
休む間もなく、再びウィンドウが赤く浮かぶ。急いで体勢を戻すと、壁を蹴りながら最後の一匹が襲い掛かってきていた。
ダガーを引き抜く時間が無い、そう判断した俺は拳を構える。
無謀か? だけどやるしかない!
【πµ`¿π-? y/n】
突然視界の端ではなく、中心に現れたウィンドウ。今までと違って何か選択肢がある様子だ。
疑問を抱く時間はない。俺は念じるように【 y 】を睨んだ。
瞬間、身体に力が漲った。
切り裂いた狼の、虫の息が立体的な距離感で感じられる。
アルコールと狼が流した血の匂いがむせ返りそうな程に濃く感じられる。
そして目前に迫る狼の動きが遅く感じられた。
俺は余裕で狼の下顎に合わせて拳を打ち上げる事が出来た。
顎を打たれ、冗談みたいに高く舞い上がる狼。そしてそのまま受け身も取らずに地面へと打ち付けられた。
「これが……英雄ヴァルシバルのスキル『天櫃の因憶』……なのか?」
かつて魔王を倒した大英雄の力。その強大な力に身震いした。
そしてこのスキルは確実に大英雄ヴァルシバルを支えていた、その確信がやっと持てたことに歓喜が沸き上がる。
しかし拳を握って漲る力を確かめていると、すぅっと力が散っていった。いや、力だけじゃない。自分の中の何かが抜け落ちたような感覚があった。
……どうやら制限のある力らしい。
名残惜しさを感じながらも芽生えた希望に胸が高鳴る。だけど暗くなっていく景色に気づき、俺は西へと向けて走り出した。




