1話 始まりの日
「まもなく綾瀬。綾瀬。お出口は右側です。北綾瀬駅行きの電車に〜」
時計は22時を回った。長い仕事を終えた僕はこれまた長い帰路の途中だった。周囲を見渡すと、ひどく疲れ切った背広姿の男たちがスマートフォン片手に下を向いている。資本主義の奴隷。スマホの支配。そんな言葉が頭に浮かんだ。視線を前に戻すと、ガラス越しに反射した女の人と目が合った。しかし、コンマ一秒も経たぬうちに、すぐに顔を逸らされた。よほど気持ち悪かったのだろう。あれほど若いと思っていた僕も、今年で遂に30を迎えた。おじさん扱いされるのも時間の問題である。
ーはぁ疲れた
電車は綾瀬駅に到着した。3人ほど降りたかと思うと、また同じ数の乗客が搭乗した。車内は相変わらず満員である。
ーみんな何時まで仕事してんだよ。早く帰りゃいいのに
これは自分にも当てはまるなと思いながら、スマホに視線を戻す。あと5駅か。時間にして16分。小さい頃から僕は人混みが苦手だった。逃げ場のない満員電車は殊更に。それゆえ、自分の駅まであと何駅か逐一カウントするのが癖だった。帰ったら、牛丼でも食うか。そんな事を考えていると、ヒンヤリと硬い物体が額に触れた。
「動くな」
ーえ?
次の瞬間、僕は額に触れたその物体の正体を知り、恐れ慄いた。黒く沈んだ金属の塊。先端に開いた小さな円は空洞であるはずなのに、こちらを覗き込む盲目の眼のように深かった。引き金へと伸びる細い曲線だけが、ただ静かに、誰かの運命を待っている指先のように震えていた。
そう。拳銃である。




