9:連載の継続と倦怠の波
深夜午前2時。
拓也は、冷え切ったアパートの部屋で、第二十一章の執筆を終えた。連載開始から三週間。毎日欠かさず更新を続けている。彼の指先は、まるで機械の一部のように正確にキーボードを叩くが、その心の中には、微かな倦怠感が漂い始めていた。
「これで、連載二十話を超えた……」
指を止めた瞬間、全身の力が抜けた。
背もたれに体を預けると、椅子がギィと軋んだ。
拓也は、自分の作品ページを開いた。疲労のせいで、目を開いていることすら辛い。
閲覧数:880
ブックマーク:5
評価ポイント:10
感想:3件
日間ランキング:圏外
数字は、僅かずつだが増えている。ブクマが5。たった5人かもしれないが、この5人は、拓也の毎日の執筆を支える、最も重要な読者たちだ。
しかし、拓也が最初に熱狂したランキングからの浮上は、全く見込めない状況だった。第十一章で、批判を受け入れた上で展開に捻りを加えたものの、大規模な読者流入には繋がらなかった。作品は、大量の連載小説の波に、完全に飲み込まれてしまっている。
「……ランキング圏外。このまま続けても、この数字から大きく変わることはないだろうな」
モニターの光が、拓也の頬のやつれを浮かび上がらせる。
顎には無精髭が伸び、目の下のクマは濃く、指の関節には細かなひび割れがあった。
コーヒーの缶を握る手が、わずかに震える。
その時、田中の声が、記憶の奥から蘇った。
「自信も無くして仕事で疲れ果てて、もうそれ以上続けることができなかった」
まさに今、拓也は、その言葉の重みを骨身に染みて感じていた。疲労は限界。睡眠時間は削られ、工場の作業効率も落ちてきている。班長からの小言は増えた。
「俺は、何のために、こんなにも苦しい思いをして、書き続けているんだろうか?」
呟いた言葉は、部屋の壁に吸い込まれ、消えていく。
初めて、拓也の心に、諦めの感情が、冷たい水のように染み込んできた。
彼は、パソコンの画面から目を離し、自分の部屋を見渡した。コンビニ弁当の空き容器が、床の隅にいくつも積み重なり、ペットボトルが倒れたまま転がっている。
その隣には、汗と油の染みついた作業服が無造作に脱ぎ捨てられていた。
蛍光灯の白い光が、それらを無情に照らし出している。
この部屋の散らかり具合は、まるで自分の精神の投影のようだった。
整える余裕も、気力も、もうほとんど残っていない。
「もしかしたら、田中さんの言う通り、俺にも才能がないのかもしれない。この作品は、誰の心にも響かない、ただの自己満足なんだ……」
拓也は、震える指でマウスを動かし、感想欄を開いた。
薄い青の光が、無表情な彼の頬を照らす。
読者名:名無しの傍観者
「主人公の怠惰な性格と、圧倒的な実力のギャップが面白いです。特に、第四章のゴロツキを一瞬で蹴散らすシーンの描写はテンポが良くて好きです。更新、頑張ってください!」
読者名:剣好きの通りすがり
「リリィが捕まる展開は王道ですが、アレスの『キレ方』が面白いですね。(中略)今後の展開に期待です。ブクマしました!」
そして、視線が止まる。
読者名:辛口レビュアー
「(中略)王道すぎて、読むのが少し辛いので切ります」
その一文が、胸の奥で鈍く響いた。
指先が冷たくなり、無意識に拳を握りしめる。
だが同時に、拓也は静かに思った。
「でも……この人たちは、俺の作品に、時間を割いてくれたんだ」
拓也は、再び、最初の初心を思い出した。ランキングのためではない。ただ、自分の世界を創造したいという、あの強烈な衝動。
そして、自分の描いた世界が、誰かの心を動かしたという、あの唯一無二の喜び。
彼は、諦めかける自分に、怒りを覚えた。
「まだだ。まだ、連載を止めるわけにはいかない」
拓也は、椅子に深く座り直し、新しい展開を考えるために、目を閉じた。
(連載を止めたら、この5人の読者は、どこへ行ってしまう? 彼らを裏切ることになる。そして何より、この物語を最後まで知らないのは、俺自身だ)
彼は、アレスが、自分の「怠惰な日常」を守るために、どれほどの困難に立ち向かうか、というプロットを再確認した。
アレスの戦いは、まさに今、拓也が向き合っている、この連載継続という困難そのものだった。
「アレスが、困難から逃げないのに、作者である俺が逃げてどうする」
拓也は、マグカップに残っていた冷たい水を一気に飲み干し、再びキーボードに手を置いた。
第二十二章のプロット。
【第二十二章:辺境の村と、アレスの「怠惰」の進化】
アレスとリリィが、とある貧しい辺境の村に立ち寄る。
村人たちは、魔王軍の脅威と、王国の重税で、疲弊しきっている。
アレスは、「美味い飯が食えないし、ゆっくり昼寝もできない」という理由で、王国の役人と魔王軍の両方を、徹底的に排除し始める。
アレスの「怠惰」が、結果的に「弱者を救う」という、皮肉なヒーロー行為へと繋がる。
「よし。これでいこう。王道な『村の救済』を、アレスの動機で捻り、テーマをより深くする」
拓也は、自分の内側から湧き出てくる、物語への欲望が、まだ死んでいないことを確認した。疲労と倦怠は、彼の肉体を支配しているが、彼の魂は、まだ、この物語と共に生きている。
彼は、第二十二章の執筆を始めた。
***
辺境の村「シルフィード」は、名前の通り、風の精霊が住まうかのような、穏やかな静寂に包まれていた。
「ふぅ……最高の静寂だな」
村の入り口の土埃の道に、アレスは寝転んでいた。太陽の光を避け、古びた木の影を選んで。
「アレス様! またこんなところで! 埃が付きます!」
リリィが、いつものように騒いでいる。
***
拓也は、この慣れた二人の会話の応酬を描くことで、自分自身の心が安らぐのを感じた。この世界は、彼にとっての安息の地なのだ。
夜が明けるまで、あと二時間。拓也は、眠気に耐えながら、自分の創造した世界で、アレスという分身と共に、現実の重圧から逃れるための戦いを続けた。
連載の継続は、才能以上に、意志と体力の勝負だ。拓也は、その厳しい現実に、改めて立ち向かうことを決意した。




