8:プロットの深層と同僚の影
数日後。
拓也は、食堂の隅で、カツカレーを胃に流し込みながら、スマホのメモ帳を開いていた。
食堂のざわめきが、遠くで波のように反響する。
彼の意識は、その音を完全に遮断していた。
聞こえるのは、自分の心臓の鼓動と、親指がスマホの画面を叩く音だけ。
拓也は、思考を文字に変えながら、自分の中で静かに熱を高めていった。
(今書いている第二十章で、物語のテーマをさらに深掘りしなければならない)
拓也は、批判の毒を、物語の推進力へと変える決意をしたばかりだ。彼は、単なるチート無双やヒロイン救出に終わらせず、「怠惰」というアレスの根幹にあるテーマを、異世界の社会構造と絡めて描こうと考えていた。
「アレスが、王国や魔王軍の過剰な『労働』を嫌悪する理由……それは、この世界の構造そのものにある」
彼は、プロットのメモを打ち込んだ。
【第二十章:エルフの賢者の警告と、過労死の異世界】
アレスとリリィが、とある森で長寿のエルフの賢者と出会う。
賢者は、過剰な労働と戦争によって、この世界のエルフが徐々に滅びつつあることを語る。
賢者「お前の怠惰は、この世界を救う唯一の道かもしれない」
アレス「うるさい。俺はただ、昼寝の邪魔をされたくないだけだ」と、いつものように突き放す。
(この展開なら、アレスの「怠惰」は、単なる性格ではなく、「世界の構造に対するアンチテーゼ」として機能する。読者の視点も、単なる娯楽から、少し社会的なものへと引き上げられる)
拓也は、そのアイデアに興奮した。彼の頭の中で、物語の世界が、より複雑で奥行きのあるものへと変化していく。
その時、背後から、低い声がかけられた。
「山田、またスマホか。そんなに面白いもん見てんのか?」
振り返ると、拓也と同じラインで働く同僚の、中年の男が立っていた。名前は、田中。口数が少なく、いつも不機嫌そうな顔をしている。
拓也は、慌ててメモ帳を閉じ、スマホをテーブルに伏せた。
「いえ、すいません。ちょっと、ニュースを見ていただけです」
田中は、拓也の向かいの椅子にドサッと腰を下ろした。彼の手には、くたびれた文庫本が握られている。
「ニュース、ねぇ。お前みたいに若い奴が、そんなマジメなもん見るわけねぇだろ」
田中は、缶コーヒーのプルタブを引き、一口飲んだ。そして、拓也が伏せたスマホを一瞥した。
「ま、いいけどよ。俺も、若い頃は、現実逃避ばっかしてたからな。この工場でライン作業なんてやってっと、夢の一つや二つ、持ちたくもなるだろ」
田中の言葉は、いつもぶっきらぼうだが、今日の言葉には、どこか拓也の心を見透かしたような、妙な深みがあった。
拓也は、警戒心を抱きながらも、尋ねた。
「田中さんは……どんな、夢を?」
田中は、缶を見つめたまましばらく黙っていた。
やがて、薄い笑いが漏れる。
「夢、か。……俺はな、ずっと小説家になりたかったんだよ」
拓也の心臓が、再び大きく跳ね上がった。予想外の告白に、彼は言葉を失った。
「し、小説家……ですか?」
田中は、手に持っていた文庫本を、拓也のテーブルに置いた。それは、拓也がずっと愛読していた、あるSF作家の初期の作品だった。
「これ、読んでたろ? 若い奴がこんな古い本読んでるから、懐かしくなって買ったんだ。俺は、こういう世界を、自分で作りたかった。主人公になって、このつまらねぇ現実から、ぶっ飛んでいきたかったんだよ」
田中の目は、遠い過去を見ているようだった。
「それで……どうして、小説家には?」
拓也は、絞り出すように尋ねた。
田中は、缶コーヒーを飲み干し、静かに答えた。
「才能がねぇんだよ。書いてみたさ、がむしゃらに。でもな、俺の書く文章は、ただの自己満足で、誰にも響かなかった。自信も無くして仕事で疲れ果てて、もうそれ以上続けることができなかった」
田中の言葉は、拓也の耳に、まるで自分自身の未来を語られているかのように響いた。彼の言葉の端々には、諦めと、微かな後悔の念が滲み出ていた。
「この仕事はな、時間が全部持っていかれる。体も、精神も、何もかもだ。お前も、もし本気で何かやりたいなら、早く抜け出せよ。この工場で、俺みたいに、夢を殺すな」
田中は、そう言い残すと、椅子から立ち上がり、食堂の出口へ向かった。
田中の姿が、蛍光灯の光にかすんでいく。
まるで、夢を失った男の輪郭が、現実の明るさに溶けていくようだった。
拓也は、彼の背中を、ただ茫然と見つめていた。
「田中さん……」
拓也の心の中は、激しく揺さぶられていた。田中は、拓也にとっての「可能性のある未来」であり、「失敗のサンプル」でもあった。
小説家を夢見て、結局は工場のライン作業員として人生を終えようとしている男。
(俺は、田中さんのように夢を諦めたくない。俺は、この戦いを、最後までやり遂げる)
田中の言葉は、批判の毒とは違う、冷徹な「現実の重圧」を、拓也の肩に乗せてきた。しかし、それは同時に、拓也の創作への決意を、より強固なものにした。
昼休みが終わり、午後の作業の開始を告げるブザーが鳴り響く。
拓也は、スマホをポケットにしまい、立ち上がった。プレス機の音、アルミ製品の冷たさ、班長の怒鳴り声。それら全てが、彼の小説の「背景」であり、「敵」となった。
「田中さん。あなたの夢は、俺が引き継ぎます。俺も小説を書いてるんです。俺の小説で、この現実を、ぶっ壊してみせます!」
彼は、田中の背中に向かって誓った。
「そうか……」
田中は一言呟いて、振り返ることも無く、食堂を後にした。
拓也は今夜の執筆のために、頭の中でぐるぐる巡る複雑な思いを抑え込み、体力の限界までライン作業に集中することにした。




