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32:自由と名前のない生活

彼を追い立てるものは、何もなくなった。


彼の部屋のノートパソコンは、埃を被っているわけではないが、その画面は常に真っ白なテキストエディタを開いている。


朝、拓也は、好きな時間に目を覚ました。

カーテンの隙間から差し込む光が、ゆっくりと白いシーツの上を滑っていく。

時計を見ることもなく、ただまぶしさに目を細めながら伸びをした。


窓を開けると、風が部屋に流れ込んできた。

高層階の空気は澄んでいて、わずかに春の匂いが混じっている。

遠くで電車の音がかすかに聞こえ、街のざわめきがまだ半分眠っているようだった。


一年前、この景色は違って見えていた。

無数のビルの光、動き続ける車の列、忙しなく流れる人の群れ――

それらは、自分を追い立てる資本の象徴でしかなかった。

生き急ぐ者たちの呼吸が、ガラス越しにも聞こえるような錯覚に陥る夜があった。


けれど今は違う。

それらの光も音も、ただの「景色」に戻っていた。

誰かの時間でなく、自分の時間で見る東京は、こんなにも静かで優しいものだったのかと、今さら気づかされる。


キッチンに立ち、棚から豆の瓶を取り出す。

瓶の蓋を開けると、深く焦げた香ばしい香りがふわりと広がった。

インスタントではない、自分で選んだ豆。

ミルに入れ、ゆっくりとハンドルを回す。

ごり、ごり、と心地よい音が響くたび、豆の中に閉じ込められていた時間が少しずつ解けていくようだった。


その音が止むと、静寂が戻ってくる。

ポットから注がれるお湯の音が、部屋の中にやわらかく広がった。

香りが、光と一緒に流れていく。


「二人分、ですね」


いつの間にか、背後から声がした。


振り返ると、ユキがゆるやかなワンピース姿で立っていた。

寝起きの髪を後ろで軽くまとめ、頬には少しだけ寝跡のような赤みが残っている。

それでも、その姿が、拓也には何よりも愛おしかった。


「おはようございます」


「おはよう。……少し早起きしすぎたかも」


「ううん。いい朝ですよ」


ユキは微笑みながらソファに腰を下ろした。

淡い湯気がゆらめき、窓辺の光と重なって淡い金色を帯びる。


「……これが、アレスが手に入れたかった安息なのかな」


カップを手にしながら、拓也は呟いた。

ユキは、静かにカップを置き、彼の肩に頭を寄せた。


「拓也さんが手に入れたかった安息、でもありますね」


何も求めず、何も背負わず、ただ在るという生の形。

あの物語の終わりは、もしかすると、自分自身の願いの投影だったのかもしれない。


ゆったりとした時間が流れる中、コーヒーの香りと温かさを、心ゆくまで楽しんだ。




拓也は、最終巻の原稿を渡した後、すぐに新しい小説を書き始めていた。


タイトルは『名前のない生活』。

それは、剣と魔法の世界でも、異世界転生でもない、現代社会を舞台にした、極めてパーソナルな物語だった。


主人公は、彼自身の経験を色濃く反映した、「大ヒット作を完結させた後、すべてをリセットした元作家」だった。

物語は、その主人公が、名声も富も捨て、地方の古書店で働きながら、淡々と過ぎていく日々の中で、

「生きるとは何か」を静かに見つめていく。


(これは、売れないだろうな)


拓也は、そう確信していた。読者が期待するようなスピード感も、バトルも、ドラマもない。

波風一つ立たない水面を、延々と見つめるような物語。

だが、その静けさの中でこそ、彼は確かな充足を感じていた。


キーボードを叩く指先に、震えはない。

しかし、彼の胸の奥では、かつて工場で「書かずにはいられない衝動」として感じた、あの熱いものが、静かに、しかし力強く燃焼していた。


ある日、加瀬編集長が訪ねてきた。手に持っているのは、アレスの最終巻の増刷に関する資料ではない。


「山田さん。新しい原稿、拝見しました」


加瀬は、拓也が書いた新しい物語のコピーを机に置いた。彼の顔には、かつての売上への焦りや、プロット会議の厳しさはなかった。

ただ、一人の読者としての、穏やかな表情があった。


「正直に言います。商業的なポテンシャルは、アレスの足元にも及びません。これを出版しても、マンションの家賃すら賄えないかもしれない」


拓也は、穏やかに笑った。


「そうだと思います」


「ですが……」


加瀬は、そこで言葉を切った。


「ですが、とても良い小説です。あの時、あなたが言った『本当に今書きたいもの』が、これなんですね」


「はい。アレスは、俺が『自由を求めていた』時に生まれた物語です。この新しい物語は、俺が『自由を手に入れた』後に、書くことを許された物語です」


拓也は続けた。


「俺は、アレスを完結させ、『作家・山田拓也』というブランドを殺したことで、初めて、『山田拓也』という人間として、自由に書くことができたんです」


加瀬は、静かに頷き、言った。


「この作品は、うちで出しましょう。売れなくても構いません。あなたが、作家として生きている証だから」


それは、長年のビジネスパートナーシップの中で、加瀬が彼に送った、最も純粋で、心からの敬意だった。




拓也はその日、決断した。

マンションを解約する。

築き上げた富を捨てるわけではない。

だが、成功という檻から一歩外へ踏み出すために、自らを追い詰めた象徴から、距離を置くことにした。


彼は、アレスがそうしたように、人里離れた静かな場所を求めた。

選んだのは、かつての拓也が住んでいた故郷ではなく、ユキが住みたいと言っていた海に近い町。


海沿いには白い風車がゆっくりと回っていて、波の音が響き渡る海からの潮の香りが風に乗って頬を撫でる。


そこには、数キロメートルに及ぶ護岸壁に、地域の人達が描いた壁画が並ぶアートスポットがあり、ユキも過去に一度、参加者としてその大きなキャンバスに描いた事があると言っていた。


「子供も大人も関係なく、皆で思い思いに絵を描いてとっても楽しかったですよ」と微笑みながら語ってくれた。


他にも深い歴史のある神社や国内有数の大きな湖など、二人の創作意欲を駆り立てる場所が山ほどある。


この大きな決断をした事で、心の中の靄が少しずつ晴れていくのを感じた。

まるで、物語の中の主人公が、新しい章へ進むように。




引っ越しの前夜。

部屋の中は、段ボールの山と、取り外されたカーテンの跡。

夜風が窓の隙間から入り込み、白いレースをふわりと揺らした。


引越しの準備で疲れたのか、ユキは隣の部屋ですやすやと寝息を立てて眠っている。


外は、真夜中の静寂。


デスクの上にはノートパソコン。

電源を入れると、画面がゆっくりと白く光り、テキストエディタが開いた。

彼を追い立てる締め切りはない。

ただ、書きたいから書く。


冷めたマグカップに残ったコーヒーの苦みを一口。舌の上に残るその渋みが、ゆっくりと喉を通り、胃の奥に沈んでいく。


(ああ、この苦みだ)


それは「この単調な人生を打ち破りたい」という、あの強烈な衝動と共に味わった、インスタントコーヒーの苦みと全く同じ味がした。


彼は、今、再び自由を手に入れた。

それは、「何にも縛られず、自分の人生の速度を自分で決める」という、彼にとっての真の『究極の怠惰』だった。


キーボードを叩く音だけが、静かな部屋に響く。


彼の「名前のない生活」は、今始まったのだ。


これで完結となります。最後までお付き合いくださりありがとうございました。

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