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30:完結への決意と本当の『アレス』

冬の終わり、薄曇りの空の下。

編集部の会議室に、拓也と加瀬の二人だけが残っていた。

窓の外では、街路樹が冷たい風に揺れ、遠くの交差点からはクラクションの音が微かに響く。


「俺、『アレス』を完結させます」


その言葉を聞いた瞬間、加瀬の肩が僅かに震えた。

ペンを持つ手が止まり、数秒の沈黙が流れる。


「……え? まだ、アニメ三期も動いていますし、海外展開も……」


「わかっています」


拓也の声は、静かだった。

けれどその奥に宿る熱は、かつて工場作業員だった時、夜中にキーボードを叩いていた頃の、あの青白い光のように確かなものだった。


「だからこそ、最高のものにしなければならない。

商業的な計算や、読者の要求を全部無視した、俺が最初に思い描いた、本当の終わりを書きたいんです。完璧な最終巻を。アレスを、本当に解放してあげたいんです。そして――俺も、解放される」


静寂が、室内を支配した。

外の車のライトが窓ガラスに反射し、二人の間を一瞬だけ照らす。

その光が消えたあと、加瀬はゆっくりと息を吐いた。


「……わかりました。あなたの、本当の『アレス』を見せてください」


それは、担当編集としての判断というより、ひとりの読者としての祈りに近かった。


拓也は、深く頭を下げた。

その背中には、長い年月に積み重なった疲労の重みがあった。

だがその奥には、確かに「生きる意志」が宿っていた。




それからの数ヶ月、拓也はまるで別人のように机に向かい続けた。

ただ、原稿ファイルだけを開き、キーボードを叩く。


そんな日々の中で、唯一の息抜きがユキとの時間だった。

彼女が訪れる日だけ、部屋に柔らかな空気が流れ込む。

コンビニで買ってきたサンドイッチをたべながら、二人で何気ない会話を交わす。


「最近、また顔がやつれてますよ」


「……そうですか?」


「はい。でもなんか楽しそうです。だからって、また前みたいに身体壊さないように、気をつけてくださいね」


その言葉に、拓也は小さく笑った。

疲労の奥に確かな熱を、彼女は見抜いていた。

ユキが笑うたび、部屋の中の空気が少し明るくなる気がした。

それだけで、もう少し頑張ろうと思えた。


窓の外で季節が変わっても、彼の部屋の中には、一定の時間だけが流れていた。

机の上のマグカップには、いつものように冷めたコーヒー。

けれど、以前のそれは「義務の象徴」だったが、今は違う。

冷たくなった苦みの奥に、自分だけのリズムがあった。


「アレス」の最終巻は、誰のためでもない、自分の魂のための物語になっていった。


彼は書きながら、ふとあの工場が思い浮かんだ。

機械の轟音、油の匂い、指先の小さな切り傷。

田中さんや班長の不器用な優しさ。

そのすべての中で、ただ一つの想いが「書くこと」だった。


誰も読まなくてもいい。

俺は、書くことで生きている。


ただ、自分の言葉で世界をつくることの歓び。

その感覚が、指先から心臓へと流れ込んでくる。


やがて、最後のページに辿り着いた。


***


アレスは、魔王を討ち、世界を救った。

王から勲章を授けられ、国中の民がその名を讃えた。

だが、彼は微笑みながら、そのすべてを拒んだ。


「……面倒だ」


そう呟いて、彼は全ての名誉と褒美を置き去りにした。

金も、権力も、称賛も――。

それらは彼にとって、ただの雑音でしかなかった。


そしてアレスは、相棒のリリィとともに森の奥へと姿を消した。

静かな風が吹き抜ける木々の間で、二人は焚き火を囲み、穏やかな微笑みを交わす。


「もう、昼寝を邪魔するものは何もなくなりましたね」


リリィがそう言うと、アレスは瞼を閉じたまま、柔らかく頷いた。


――ああ、いい夢が見られそうだ。


そのまま、アレスは昼寝に入る。

剣も、鎧も、名も置き去りにして。

世界は再び回り始めるが、彼らの静かな時間は永遠に穏やかなまま止まったままだ。


それが、最強の勇者が見つけた「究極の自由」だった。


***


完成したものを、誰よりも先にユキに届けたかった。彼の情熱を今一度呼び起こしたのは、他でもない彼女だったから。


翌日、ユキは静かに拓也の部屋を訪れた。

髪を後ろでまとめ、淡いベージュのカーディガンを羽織っている。

春の光が窓から差し込み、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。


「……読んでもいいですか?」


「もちろん」


ユキはページをめくるたびに、ほんの少しだけ眉を動かした。

息を呑むような場面では指先が止まり、微笑む場面では唇の端がわずかに上がる。

その静かな仕草の一つひとつが、拓也の心を温かくさせた。


やがて、最後のページを閉じたユキは、ゆっくりと顔を上げた。

その瞳の奥には、涙がほんの少し光っていた。


「……拓也さんらしくて、とてもよかったですよ」


声は震えていたが、笑顔は穏やかだった。

拓也は、何も言えなかった。

胸の奥が熱くなり、ただ小さく頷くだけだった。




最終巻の発売は、出版業界を揺るがした。

発売初日で書店から在庫が消え、ネットでは「賛否両論」が爆発した。


拓也は、そのすべての声を、ただ静かに受け止めた。

彼にとって、そのどれもが愛おしかった。

怒りも、賛辞も、涙も。

全てが、物語が生きている証拠だった。


SNSの通知を閉じ、彼は静かにパソコンを閉じた。

指先が震えていた。

だが、それは疲労ではない。

何かを成し遂げた後に訪れる、深い静寂の震えだった。


窓の外、東京の夜景が広がる。

高層ビル群の光が、まるで星のように瞬いている。

かつてこの光を「締め切りの警告灯」としか思えなかった。

だが今は違う。

その光は、彼を包み込むように優しく輝いて見えた。


「終わったんだな……」


拓也は、小さく呟いた。

誰に聞かせるでもない声だった。

だが、その言葉に宿る安堵は、何年分もの鎖を解く音に似ていた。


机の上には、新しいノートが置かれている。

白い表紙に、彼は黒ペンで小さく文字を書き込んだ。


『名前のない生活』


それは、新しい物語のタイトルだった。

誰が読むかもわからない。

売れる保証などない。

だが、不思議なことに、それが心の底から嬉しかった。


インスタントコーヒーを淹れ直す。

湯気の向こうに、窓の外の光が滲む。

その苦みをひと口飲み込みながら、彼は思う。

この苦さは、生きている証拠だ。


パソコンの電源を入れ、真新しいファイルを開く。

白い画面の前で、指先が自然と動き始める。


夜の静けさの中に、心地よいリズムが響く。

それは、もう誰かの期待に応えるための音ではなかった。

自分が生きていることを確かめる音だった。


窓の外、夜明け前の空が少しずつ白み始めていく。

都会の喧騒がまだ眠っているその一瞬、拓也はふと微笑んだ。


「アレス、やっと……お前を眠らせてやれたな」


その言葉とともに、彼の中の長い戦いが終わった。

そして新しい朝が始まる。


コーヒーの香り。

机に差し込む淡い光。

キーボードの上に置かれた両手。


拓也は深く息を吸い込み、静かに呟いた。


「さあ、ここからだ」


誰の指図でもなく、誰の期待でもない。

ただ、自分の物語を生きるために。


新しいページに、一文字目が刻まれた。

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