29:無邪気な笑顔と再び灯る想い
それからも頻繁に、ユキと会うようになった。
仕事でも、プライベートでも。いつの間にか、彼女と過ごす時間が一日の中に自然に組み込まれていた。
まるで、そこに最初からあったかのように。
外での打ち合わせの帰り道。
雑踏を抜けて、小さな路地裏にあるカフェに入るのがいつもの流れだった。
古びた木の扉を開けると、コーヒー豆の香ばしい香りと、淡いジャズの旋律が二人を包み込む。
窓際の席に座ると、午後の光がガラス越しに差し込み、ユキの髪の一部を淡く透かした。
彼女の長い睫毛の影が、カップの縁に落ちる。
「このカフェ、照明がいい雰囲気出しててジャズに合ってて素敵ですよね」
ユキがそう言って、手を伸ばしてカップを包む。
彼女の指先に、わずかにインクの跡がついている。
徹夜で描いた証。
「今回のイラストもすごく良かったですよ」
「本当ですか? あの寝癖のアレス、ちょっとふざけすぎたかと思って」
「いや、あれがいいんです。人間味があって」
ユキは照れくさそうに笑い、カップを口元に運んだ。
湯気の向こうで微かに笑うその表情に、拓也はまた胸の奥を掴まれる。
――この時間が、永遠に続けばいいのに。
そんなことを思うのは、何年ぶりだろう。
成功してからずっと、時間は「締め切り」と「数字」に区切られていた。
だが、彼女といる時だけは、時間の輪郭が柔らかく滲んでいく。
秒針の音さえ、遠くで眠っているようだった。
休日が合えば、二人で出かけるようにもなった。
映画館ではポップコーンを分け合い、水族館では青く揺れるクラゲを二人で見つめた。
青い光の中で見たユキの横顔は、水槽の向こうの魚たちよりも儚く、美しく思えた。
「山田さんって、映画見る時すごい集中力ですよね」
「うん、なんかこう……映像に飲まれちゃうんですよ。周りに何も無くなって自分だけの空間にいるような」
「わかります。私も絵を描く時、現実の音が遠くなって全てを置き去りにするような感覚になります」
そう言って笑う彼女の横顔を見ながら、拓也は思う。この人は、自分と同じ場所を見ている。
言葉にしなくても、同じ世界の呼吸を知っている。
夜の水族館を出ると、街の灯りが少し眩しかった。
自販機の光に照らされて、ユキの頬がわずかに赤く染まっている。
「寒くないですか?」
「大丈夫です。なんか……空気が綺麗ですね」
冬の匂いを含んだ風が、彼女の髪を揺らした。
その一瞬、拓也は無意識に彼女の手を取っていた。
驚いたように目を瞬かせたユキは、すぐに小さく笑った。
「……あったかいですね」
その言葉が、静かに胸に染みた。
自分は、誰かとこうして手を繋ぐことなんて一生ないと思っていたから。
仕事場に戻ると、現実は容赦なく彼を待っていた。
メールの通知音、プロデューサーからの修正依頼、アニメの新シナリオの打ち合わせ。
だが、かつてのような苦痛はなかった。
彼女が描いたラフを見れば、少しだけ心が静まる。
ユキの描くキャラクターたちは、いつも穏やかに笑っていた。
その笑顔を見るたび、彼はユキの笑顔も思い出す。
創作机の上には、ユキからもらった小さなスケッチブックが置かれている。
「これ、いつでも描けるように持っててください」
と彼女が笑って渡したものだ。
ページの端には、彼女の手書きで「おやすみアレス」と描かれた小さな落書きがある。
拓也はそのページをそっと撫でた。
指先に触れる紙のざらつきが、妙に現実的だった。
深夜。
パソコンの画面に、新しいプロットの文が浮かぶ。
勇者アレスは、初めて他人の笑顔に救われる。
そこに込めた想いは、もはやキャラクターへの感情ではなかった。
それは、彼自身の心情の投影だった。
彼女と過ごす時間が、作品の中に流れ込み始めている。
無意識のうちに、ユキの笑い方、声のトーン、瞳の動きがリリィの中に宿っていく。
文章を打つたび、彼の中に新しい熱が灯った。
「書きたい」という気持ちが、再び彼を動かしていた。
その夜、ユキからメッセージが届いた。
『今日の夕日、すごく綺麗でした。山田さんにも見せたかったな』
添えられていた写真には、オレンジ色に染まる空と、窓際の影が映っていた。
画面越しに見るその光に、拓也の胸が静かに震える。
彼は返信を打った。
『見ましたよ。ちょうど同じ色の空を、アレスに描いていました』
送信ボタンを押したあと、しばらく画面を見つめる。
すぐに返ってきたメッセージには、こう書かれていた。
『やっぱり、繋がってますね』
短い言葉なのに、心の奥の氷が音を立てて溶けていくようだった。
繋がる
それは、彼がずっと失っていた感覚だった。
ユキと過ごす穏やかな時間が、拓也の冷えきった心をゆっくりと温めていった。
それは焚き火のような温もりで、決して激しくはないが、確かに燃えていた。
その灯が、彼を再び小説家へと導いていく。
かつては義務で動かされていた指先が、今は想いで動いていた。
あの日、何もかもに疲れ果てていた男は、もうそこにはいなかった。
代わりに、夕暮れの光を見つめながら、新しい物語を紡ぐ男がいた。
ユキの無邪気な笑顔が、その始まりのページを照らしていた。




