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28/32

28:穏やかな時間と揺れる心

午後の光が、白いカーテン越しにやわらかく差し込む静かな病室。

機械の規則的な電子音と、消毒液の匂いだけが、そこに時間が流れていることを示している。


そんな静寂を破るように、ノックの音が響いた。


「山田さん、こんにちは」


ユキの声。

柔らかく、空気を揺らすようなトーンだった。

この数日、毎日この病室に訪れてくれている。


今日の彼女は、花柄の布トートを肩にかけ、いつもの控えめな笑顔を浮かべて立っていた。

手には、見慣れたスケッチブック。

彼女が入ってきた瞬間、無機質だった病室の空気が、ほんの少し色を帯びたように感じられた。


「このラフ、昨日の夜に描いたんです」


そう言って彼女が差し出したページには、アレスが珍しく笑っている姿が描かれていた。

いつもの鋭い目ではなく、少し眠たげな穏やかな笑顔。

隣ではリリィが、頬杖をついてその顔を見ている。


「……いいですね」


拓也は、指先でその線をなぞった。

線は柔らかく、生命を宿していた。


「アレス、こんな顔もできたんだな……」


言葉にしてから、自分でも驚いた。

その声には、久しく失われていた温度があった。

自然と、口元に笑みが浮かんでいた。


「できますよ。だって、彼も人間ですから」


ユキは少し誇らしげに微笑み、筆ペンをくるくると回した。

その仕草も、どこか絵を描く人特有のリズムがあって、見ているだけで心が落ち着く。


「最近、山田さんも笑うようになりましたね」


「そう……ですかね」


拓也は、少し照れたように頬を掻いた。


「はい。前はもっと、こーんな風に顔が強ばってましたよ」


ユキは両手で頬を押さえて、ぎゅっと仏頂面の真似をしてみせた。

その不器用な真似に、拓也は思わず吹き出してしまう。

笑うたびに、胸の奥で何かが溶けていくような気がした。



退院してからも、自然と二人はよく会うようになった。


拓也の部屋。

テーブルにはノートパソコンと液タブ。散らばった資料、飲みかけの缶コーヒー。


二人は肩を並べて作業を続ける。

液タブの画面には、アレスの新しい衣装案、肩をゆったりと覆う薄手のコートが描かれていた。

その線は軽やかで、まるで風が通り抜けるようだった。


「うん、すごくいい……。アレスにピッタリの衣装だ」


拓也はキーボードを打つ手を止め、隣の画面を覗き込む。

ふと、二人の指が触れ合った。

小さな音も立たないほどの微かな接触。

互いにハッとして手を引く。

その一瞬に、空気が少しだけ震えた。

どちらも言葉を探せず、ただ同時に、同じような照れくさそうな笑みを浮かべた。


鮮やかな夕陽が窓から差し込む頃、ユキが小さく欠伸をした。


「すみません、徹夜で描いてたから……」


「無理しないでください。締め切りは、俺が伸ばしてもらいますから」

 

「そんなこと言って、編集さんに怒られません?」


「怒られてもいいですよ。俺、もうちょっとだけこの時間を延ばしたいんで」


――しまった、と思ったのは、言ったあとだった。


ユキは少し驚いたように目を瞬かせ、それからふわりと笑った。


「じゃあ……もう少しだけ、居ますね」


彼女がそう言って、再びペンを取る。

その横顔が夕陽に柔らかく照らされ、頬のあたりが金色に染まっていた。


拓也は、ただその光景を見つめていた。

胸の奥に、温かくてどうしようもない衝動が芽生える。


この瞬間を、描きたい。


それは、久しく感じていなかった創作の衝動だった。

義務でも、責任でもない。ただ、誰かを美しいと思った気持ちを残したいという衝動。


夜になり、ユキが帰る支度をする。

玄関まで見送りながら、拓也は迷った末に口を開いた。


「ユキさん」


「はい?」


「また、次の打ち合わせ……その、俺の家でもいいですか?」


ユキは優しく微笑んだ。


「もちろん。ここ、落ち着きますし」


「ありがとうございます」


ユキがドアを開ける。

外の夜風が、彼女の髪を少し揺らした。

月明かりに照らされたその横顔は、儚くも凛としていて、言葉を失うほど美しかった。


「山田さん」


「はい」


「アレス、もっと笑わせてあげますからね」


「……はい」


ドアが静かに閉じた。

残された部屋の中には、彼女の香りと、夕陽の余韻がまだ漂っていた。


モニターの電源を入れる。

新しいページを開く。

そこに浮かんだのは、アレスとリリィが見上げる、穏やかな夕暮れの空。

その空の色は、まるでユキの頬を照らしていた光のようだった。

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