27:安息と真の解放
原因は過労と極度の睡眠不足。
診断結果は明確だった。
医師は淡々と、しかしどこか呆れたような口調で告げた。
「一週間の絶対安静です」
無理をすれば再び倒れると、医師はやや厳しい口調で念を押す。彼はただ小さくうなずくことしかできなかった。
皮肉なことに、『勇者アレスの怠惰な日々』の作者は、作品の主人公が愛した「怠惰」とは程遠い、過酷な労働によって、ようやく強制的に「究極の怠惰」を強いられたのだった。
病室は驚くほど静かだった。
白で統一された壁と、無機質な機器の並ぶ空間。
窓から差し込む午後の光が、床に長い影を作っている。
消毒液の匂いが鼻先をくすぐり、シーツの清潔さが肌に少し冷たく触れる。
その窓の外に広がる空は、いつもの東京の空だった。
だが彼には、違って見えた。
遮るもののない、澄みきった青。
気だるく伸びるように形を変えながら、音もなく流れていく雲。
それらを、ただ何の意味もなく、ぼんやりと眺めていられる時間。
スマートフォンもパソコンも遠ざけられ、騒がしい通知音も締切の警鐘も存在しない。
ただ、ゆっくりと呼吸する音だけが、自分の内側に戻ってくる。彼は久々に、自分の思考だけと向き合うことができた。
数日後。
かすかに立ち入る足音と、扉の軋む音。
担当編集の加瀬が見舞いに訪れた。
「山田さん、お身体の方はどうですか?」
加瀬の顔には、疲労と、そしてある種の諦観が浮かんでいた。
「山田さん……アレスの次巻、少し発売を遅らせます。身体を壊してまで書くものではない。正直……うちも少し、この高速なペースは無理がきています」
加瀬の言葉は、拓也を追いつめるものではなく、むしろ、彼と同じく巨大なブランドの重圧に疲弊している人間の本音だった。
「そうですか……」
「実は今日……ユキ先生にも来てくださってます」
その名前を聞いた瞬間、拓也の胸がわずかに動いた。
――ユキ。あの表紙を描いてくれた女性。アレスとリリィを、誰よりも生きた存在にしてくれた人。
彼女がいなければ、この物語は世界に羽ばたかなかった。
以前より少し髪が短くなっていて、淡いグレーのシャツの袖をまくり上げ、スケッチブックを抱えていた。
彼女が顔を上げ、静かに微笑んだ。
「お久しぶりです、山田さん」
その声は、柔らかく、それでいてどこか芯があった。
拓也は、うまく言葉が出せず、ただ「お久しぶりです」とだけ返した。
ユキは静かに、スケッチブックをベッドのサイドテーブルに置いた。
紙の音が柔らかく響き、ページがめくられていく。広げられたラフを見た瞬間、空気が変わった。
そこにいたのは、アレスとリリィ。
いつもの凛々しい英雄の姿ではない。
瓦礫の山。その中に腰を下ろし、剣を傍らに投げ捨て、空をじっと見上げているアレス。
その表情は、怠惰というよりも、静かな疲労。
戦い続けた者だけが持つ、深い達観。
その横で、リリィがそっとマントを整えている。
言葉はない。ただ、寄り添う姿だけが、二人の繋がりを語っていた。
「……これ、すごくいいですね」
拓也は、思わず呟いていた。
ユキは少し頬を染めて微笑む。
「ありがとうございます。最近の展開、読んでいて……なんだか、アレスが少し、苦しそうに見えたんです。彼が何もしていないのは、怠けているんじゃなくて……疲れ切って、何もできないように見えた。だから、この一枚を描いたんです。たまには、誰かが彼のマントを直してあげてもいいんじゃないかって」
その言葉に、拓也の胸が熱くなった。
自分が見失いかけていたものを、彼女は見ていた。
誰よりも正確に、静かに、彼の物語の痛みを感じ取っていた。
「……俺、最近、全然書けてないんです」
自分でも驚くほど自然に、弱音がこぼれた。
ユキは眉をひそめることも、驚くこともせず、静かに頷いた。
「わかります。私も同じような事がありましたから。でも……山田さんの作品って、もともと怠けることを肯定する話でしょう?だったら、少しぐらい、書かない時間があってもいいんじゃないですか」
その一言が、心の奥にゆっくりと沈んでいった。
書かなくてもいい。
そんな言葉を、誰かからかけられたのは、いつ以来だろう。
この一年間、誰もが「書け」と言った。
読者も、編集も、自分自身さえも。
でも、ユキだけは違った。
彼女の声は、無理に励まそうとも、慰めようともしていない。ただ、肯定していた。
今、止まっているあなたも、それでいいんですよ、と。
拓也は、スケッチブックをもう一度見た。
瓦礫の中で空を見上げるアレス。
まるで自分自身の姿のようだった。
それでも、傍らにはリリィがいる。彼を見放さず、そっとマントを整えている。
「……アレス、もう少し休ませてあげようと思います」
拓也が呟くと、ユキは小さく笑った。
「いいと思います。怠惰って、本当は、自分を守るための強さですから」
その瞬間、拓也の中で、何かが音を立ててほどけた気がした。
彼は長い間、書くことに囚われていた。
でも本当は、止まることもまた、物語の一部なのかもしれない。
窓の外、青い空がゆっくりと流れていた。
そして彼は、久しぶりに、深い呼吸をした。




