25:理想と現実の呪い
書籍の発売から三年、常に「加速」と「増殖」の渦の中にいた。
『勇者アレスの怠惰な日々』は、瞬く間にライトノベル界の台風の目となり、シリーズ累計発行部数は右肩上がりで増え続けた。そして、半年後にはアニメ化が発表され、彼の生活は完全に一変した。
最初は夢のようだった。だが、夢はいつしか現実に変わり、そして現実は常に走り続ける現場になった。
拓也の一日は、光の点滅から始まる。
モニターの電源を入れると、メールの受信音が途切れなく鳴り、画面には複数のスケジュールが並ぶ。
Zoomのウィンドウが開くと、六分割された画面の中に、編集者、プロデューサー、デザイナー、コミカライズ担当が映る。
それぞれの部屋の光が異なる温度を持ち、拓也はまるで、世界中の時間帯を同時に相手取っているような錯覚を覚えた。
「山田さん、アニメの四話のリリィの入浴シーン、少し尺を伸ばしたいとの意見が上から出てまして」
「コミカライズ版で、アレスが初めて昼寝を邪魔されるシーンのコマ割りを、よりダイナミックに」
「次巻の発売はクリスマス商戦に合わせたい。そのためには、今月末までに三万字が必要で――」
拓也は、自分の作ったキャラクターたちが、まるで部品のように分解され、様々な媒体で再構築されていくのを見る。
彼は、その全ての決定に「GOサイン」を出さなければならない。
最初の頃は、全ての会議が刺激的だった。
自分の物語が、アニメになり、コミックになり、グッズ化されていく。
それは確かに、夢が形を持って広がっていく瞬間だった。
だが今や彼は、自分の創造物を取り巻く巨大なビジネスの「最終決定者」であり、全ての責任を負う者となった。
(アレスが……どんどん、自分の手から離れていく)
画面の中で交わされる専門用語。尺、絵コンテ、販促、ターゲット層、PV、キービジュアル。
それらの言葉の洪水の中で、拓也は時折、自分が「何を作りたかったのか」を思い出せなくなる。
かつて、夜の静かなアパートで、心を削って書いていたアレスの怠惰は、もうどこか遠くの喧騒の中にいる。
昼食は、コンビニエンスストアのサラダとプロテイン。パソコンの前から離れる時間は一瞬だ。
食後、マグカップの底に残った冷めたコーヒーを一口すすり、ここから執筆の時間となる。
かつて、この時間は一日の中で最も神聖な時間だった。誰もいない夜、世界が眠りについた静寂の中で、文字を打つ音だけが生きているように響いていた。
だが今、その感覚は跡形もなく消え失せている。
キーボードの前に座るたび、胸の奥から湧き上がるのは、「書きたい」という衝動ではなく、スケジュール表に赤字で書かれた「ノルマ」という名の鎖だった。
工場員時代、彼は単調な作業を「苦痛」と感じたが、それは「自分の時間を奪われている」という意識があったからだ。
自分の作品、自分のキャラクター、自分の言葉。
すべて自分のもののはずなのに、なぜか、誰かのために、誰かの思惑のために書かされている感覚が消えない。
創作が「自己表現」だった頃は、苦しみさえも自由だった。
今は違う。
「自由に苦しむこと」さえ、スケジュールに組み込まれている。
(自分が書かなければ、誰もアレスの続きを読めない。アレスを待っている読者がいる。アニメの企画が止まる。コミカライズの連載に穴が開く。……だから、書かなければならない)
いつしか、創作は「自己表現」から、「社会に対する責任」へと変質していた。
そして最も彼を苛立たせたのは、担当編集の加瀬の変化だった。
加瀬は、彼の才能を最初に見出し、無名時代を共に戦った恩人だ。しかし、作品が売れてからは、彼の言葉は、拓也への「意見」ではなく、「市場の代弁」へと変わった。
「山田さん、やはりこの展開では弱い。読者レビューで『最近、マンネリ化している』という声が増えています。次の敵は、もっとヒロインのリリィを追い詰めて、アレスの『本気の怒り』を引き出すようにしましょう」
「でも、アレスの本気の怒りって、昼寝を邪魔された時だけが一番面白いんです。リリィの危機は、安直すぎて――」
拓也が初期のコンセプトを主張すると、加瀬は冷静に、しかし冷徹に反論した。
「それは初期の成功体験に囚われている。物語は生き物です。今、市場が、読者が求めているのは、最強の主人公による、熱いバトルとヒロインの救出ですよ。初期の『怠惰』だけでは、この高速なエンタメ業界では生き残れません」
拓也は、ぐっと言葉を飲み込むしかなかった。
彼の創造物は、今や彼の個人的なものではなく、巨大な資本が関わる「商品」であり、「市場の需要」が、彼の物語の舵取りをしていた。
彼は、キーボードを叩くたび、自分の魂の深部にあるはずの「オリジナリティ」が、加瀬の指摘や読者のレビューによって少しずつ削られていくのを感じていた。
夜。
冷えたコンビニ弁当の容器を机の端に押しやり、拓也は再びパソコンの前に座った。
SNSの通知音が絶え間なく鳴り続ける。
「新刊、最高でした!」
「次巻、楽しみです!」
「最近ちょっとテンポが遅い気がする……」
感謝と批判が混ざり合い、心に薄い膜のような疲労を重ねていく。
キーボードの光だけが煌々と輝く中、日付が変わる。
手が止まった時、拓也は、ふと自分が工場員だった頃の自分を思い出す。
あの頃の自分は、未来がないと嘆きながらも、この「深夜の時間」だけは、唯一、自分だけの世界を創造する神になれる時間だった。
しかし、今はどうか。
この深夜の時間すら、読者への供給、編集部への報告、そして何よりも「金を生み出す」ための時間に組み込まれてしまった。
(俺は……何のために、作家になったんだ?)
疲労で頭がうまく働かないまま、彼は自分の創造した勇者アレスのことを思い浮かべた。
アレスは、たった一匹のゴブリンの出現すら「昼寝の邪魔」と断じ、一瞬で屠る。彼は、自分の「怠惰」を絶対的な正義とし、それを脅かす全てを無慈悲に排除する。
一方、作者である自分はどうか。
読者の期待、編集者の要求、アニメ制作のスケジュール、その全てが「昼寝の邪魔」であり「究極の怠惰」の敵であるにも関わらず、彼はその全てを受け入れ、その邪魔物たちに追われ続けている。
拓也は自宅のマンションで、ただただ何もしないで眠り続けているアレスの姿を想像した。そして、その姿は、彼にとっての「理想」であると同時に、決して辿り着けない「呪い」のように感じられた。
(俺は……アレスを自由にしたのに。自分は……どうしてこんなに縛られてるんだ)
猛烈な多忙とプレッシャーの末、彼の心に湧いたのは、「次の展開への期待」でも「さらなる創作意欲」でもなく、ただ冷たい一言だった。
「もう、書きたくない」




