23:イラストとの融合と息づく物語
翌週。
出版社のエレベーターが静かに上昇していく。
拓也の手のひらは、微かに汗ばんでいた。
スーツの袖口を整えながら、数字が「8」に変わるのを見つめる。
あの日、メールを受け取ってからずっと、この瞬間を夢見ていた。
ドアが開くと、廊下にはほのかにインクと紙の匂いが漂っていた。
初日に来た時は緊張のあまり、周りを気にかける余裕が全くなかったが、よく見ると壁に並ぶポスターには、見覚えのある人気作品のカバーがずらりと並んでいる。
そのどれもが、自分より遥か遠くにいる存在のように感じられた。
「山田様、こちらです」
加瀬編集者の声に導かれ、前回と同じ会議室へと足を踏み入れる。
すでに一人の女性が席に着いていた。
「ユキ先生、こちらが作者の山田拓也様です。山田様、こちらがイラストを担当していただく、ユキ先生です」
拓也は緊張しながら挨拶をした。
「初めまして。山田です。ユキ先生のイラスト、以前から拝見しておりました。私の作品を、ぜひ素晴らしい絵で彩っていただきたいです」
彼女は静かに立ち上がった。
白いブラウスの袖口から覗く手首は細く、そこにかすかに絵の具の跡が残っていた。
長い髪は後ろでひとつに束ねられ、柔らかく微笑み、静かな声で答えた。
「初めまして、ユキです。山田様の作品、連載を追いかけていました。アレスの『けだるいのに最強』というギャップに魅了されました。描かせていただけて光栄です」
ユキの言葉に、拓也は感動した。プロのイラストレーターが、自分の読者であり、作品の本質を理解してくれている。これほど心強いことはなかった。
加瀬が資料のフォルダを開き、会議は始まった。
テーブルの上に広げられた拓也の設定資料、そしてユキのスケッチブックが並ぶ。
「カバーイラストは、アレスの『究極の怠惰』と『最強の力』が共存するイメージでお願いします。例えば、豪華な王座に横柄に座り、片手で大剣を地面に突き刺している、など」
拓也が言葉を重ねるたびに、ユキの指先がスケッチブックの上で動いた。
鉛筆の芯が紙をかすめる音が心地よく、彼女の視線は真剣そのものだった。
彼女はただ描いているのではなく、彼の語る世界の呼吸を掴もうとしていた。
「リリィは、アレスの傍で……そうですね、呆れ顔だけど、どこか諦めきれない表情で。山積みの報告書を抱えているとか。対照的で、二人の関係が一目で伝わる構図になると思います」
ユキが顔を上げ、微笑んだ。
彼女の提案は、拓也の想像力を刺激した。
プロの感性が加わることで、彼のキャラクターたちが、より立体的になっていくのを感じた。
言葉と絵が交錯する時間は、いつしか夢中になっていた。
時計の針が三度回った頃、会議室の空気は静かな熱気に包まれていた。
加瀬が満足げに資料をまとめ、打ち合わせは終盤を迎える。
「では、この方向性でお願いします。アレスとリリィの対称的な構図、最高です」
ユキが軽く頷く。
その表情には、創作の手応えを感じた人間だけが見せる充実感があった。
数日後の午後。
曇り空の合間から射し込む淡い陽光が、都心のカフェの窓をやわらかく照らしていた。
カップの中でコーヒーが揺れ、静かな店内に微かなジャズが流れる。
「お待たせしました、山田さん」
その声に顔を上げると、ユキがスケッチブックを胸に抱えて立っていた。
黒いショルダーバッグを肩から提げ、淡いベージュのカーディガンを羽織っている。
以前の打ち合わせのときよりも、どこか柔らかい表情をしていた。
「今日は、ラフを見ていただこうと思って」
その一言で、拓也の心臓がひとつ大きく跳ねた。
ついに、自分の物語が形になる。
あのアレスが。あのリリィが。目の前に、現れる。
ユキは静かに席につくと、テーブルの上にスケッチブックをそっと置いた。
その指先の動きは、まるで宝物を扱うように慎重だった。
ページをめくる音が、静寂の中で一枚一枚、空気を震わせる。
「これが……カバーの第一案です」
ページが開かれた瞬間、拓也の呼吸が止まった。
そこには、アレスがいた。
黄金の光を浴びながら、崩れかけた王座に身を沈め、片手で巨大な剣を支えている。
その瞳は眠たげでありながら、世界を支配するような深い知性と疲弊を湛えていた。
彼の足元には、無数の書類が風に舞い、リリィがその中からひときわ凛とした表情で立っていた。
呆れと忠誠、怒りと諦めが混ざった、まさに拓也が言葉でしか描けなかった彼女がそこにいた。
何も言葉が出なかった。
胸の奥が熱く、張り裂けそうで、視界がかすかに滲んだ。
「……すごい。……本当に、アレスだ」
拓也の声は震えていた。
ユキは少し照れたように笑い、指先でラフの端を撫でた。
「ありがとうございます。山田さんが話してくれた怠惰の中にある誇り……その部分を一番大切にしました。この人は、ただ怠けてるわけじゃない。世界を憎むほど働きすぎて、ようやく、何もしないことを選んだ人だって思って」
――まさに、それだった。
拓也が誰にも言葉にできなかった核心を、ユキはたった一枚の線で言い当てていた。
鉛筆のラフなのに、そこには命の気配があった。呼吸が、重力が、孤独があった。
「……僕、ずっと思ってたんです。文字だけじゃ届かない何かがあるって。でも、これを見た瞬間……全部、繋がりました」
ユキは目を細めて頷いた。
「大袈裟かもしれませんが……イラストって、言葉が呼吸できる場所なんです。山田さんの物語にも息づく場所を与えられたらいいなって」
窓の外では、雲の隙間から光が差し込んでいた。
それはまるで、完成を祝福するような一筋の光だった。




