22:東京での新たな生活と孤独な執筆
東京。
拓也が降り立ったのは、高層マンションとオフィスビルがひしめき合う、巨大な都市だった。
加瀬編集者が手配してくれたアパートは、都心から電車で二〇分ほど離れた住宅街にあった。
外観は古びた二階建てのアパートだが、部屋に入ると、広さも静けさも前の生活とは別世界だった。
薄いレースのカーテン越しに、遠くの街明かりが柔らかく揺れている。
「ここが、俺の新しい住処か……」
拓也は、窓から見える都会の夜景を眺めながら、決意を新たにした。工場での騒音と疲労から解放された今、彼は時間を気にせず、心ゆくまで執筆に集中できる。
引越し後すぐ、拓也は生活の全てを「執筆」に最適化させた。
午前中は、体力維持のために近所を散歩し、昼食後はすぐに仕事に取り掛かる。夕食後には、加瀬との打ち合わせや、WEB版の読者からの感想を読み返す時間を取り、深夜まで執筆を続ける。
かつての疲弊した「毎日更新」とは異なり、この生活は、彼に安定した創造のサイクルをもたらした。
しかし、新たな生活は、同時に、新たな種類の孤独を拓也にもたらした。
工場での仕事は、人間関係の摩擦はあったものの、常に誰かの存在があった。班長の怒声、同僚との他愛ない会話。それらは全て、拓也を「現実」に繋ぎ止めるアンカーだった。
だが、東京での生活は、完全に「一人」だった。
エアコンの風が壁に当たる音さえ、やけに大きく響く。マグカップを置いた時の乾いた音が、妙に心に刺さる。
編集者とのやり取りはオンラインが主で、顔を合わせるのは週に一度あるかないか。彼は、誰にも邪魔されない静寂の中で、一人、物語を構築し続けなければならない。
(アレスの過去編……リリィの過去……)
拓也は、書籍化のための書き下ろしに没頭した。過去のエピソードは、連載版にはなかった、感情的な負荷が高いシーンが多い。
特に、アレスがなぜ「怠惰」を究極の信条としたのかを描くプロローグは、彼自身の現実逃避の願望と重なり、執筆に精神的なエネルギーを要した。
***
かつて、アレスは真面目な勇者だった。
国を救うために剣を振るい、誰よりも働き、誰よりも犠牲を払った。
しかし、王国の無意味な儀式、貴族の終わりのない社交、そして膨大な報告書という「労働」の波に溺れ、彼は悟った。「真の平和とは、何もしないことだ」と。
***
「……この、『何もしないこと』を達成するために、アレスは世界を救う」
拓也は、彼のキャラクターが持つ矛盾を、より深く掘り下げていく。しかし、時には、孤独な執筆の中で、ふと手が止まることがあった。
キーボードから手を離し、拓也は窓の外を見た。街の灯りは華やかだが、その一つ一つに、彼の知らない、無数の人生と物語がある。
その中で、自分だけが、この部屋で、架空の世界を構築している。
「俺は、本当に、この道を選んでよかったのだろうか……」
不安が、ふとした瞬間に、拓也の心に忍び込んでくる。工場での生活は、つまらなかったが、少なくとも「安定」していた。今は、全てが彼の筆力に懸かっている。
そんな時、拓也は、自分の名刺入れに挟んである、田中のメモをそっと取り出す。
「田中さん……」
田中の存在は、現実の厳しさを示す「戒め」でもあった。
拓也は、孤独に耐え、書き続けることこそが、田中が託した夢に応える唯一の方法だと知っていた。
一ヶ月後。
春の東京の空は、まだ少し肌寒い風を含んでいた。
拓也の部屋の窓際では、午後の光がノートパソコンの画面を淡く照らし、その青白い光の中で、彼の指が最後の一文を打ち込んだ。
「そして、勇者アレスは、怠惰を選んだ。」
キーを叩く音が止み、静寂が訪れる。
数秒の間、拓也は動けなかった。
まるで、長い航海の果てに、ようやく岸へ辿り着いた船乗りのように。
呼吸を整え、彼はゆっくりと保存ボタンを押した。
ファイルのサイズは、連載版の倍以上。
そこには、彼の一ヶ月分の睡眠時間、焦燥、そしてすべての情熱が詰め込まれていた。
拓也は、椅子の背にもたれ、目を閉じた。
肩から、長く張り詰めていた糸が、静かにほどけていく。
拓也は、静かにファイルをメールに添付し、件名に「第一巻原稿」と打ち込む。
送信ボタンを押した瞬間、心のどこかで小さくカチリと音がした。
それは、ひとつの扉が開いた音にも似ていた。
数日後、加瀬からフィードバックのメールが届いた。
「山田様、素晴らしいです。プロローグ、リリィの掘り下げ、そして物語全体のトーン、全てが期待以上です。特に、アレスが『報告書地獄』で精神を病むシーンは、読者の共感を呼ぶでしょう。これで、自信を持って次のステップに進めます。早速ですが、カバーイラストレーターと打ち合わせを兼ねて、来週、顔合わせをしませんか?」
拓也は、メールを読み、力が湧き上がるのを感じた。
「イラストレーター……! 俺の物語に、命が吹き込まれる!」
彼の創り上げた文字の世界は、今、出版というプロセスを経て、より多くの人々に届くための、具体的な「形」を得ようとしていた。
拓也は、ゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。
朝の風が頬を撫で、春の匂いが流れ込む。
街のざわめきが、遠くからかすかに届く。
今まで聞こえなかったその音が、不思議と心地よかった。
孤独に耐え、迷いながら、それでも書き続けてきた。
――その先に、ようやく見える景色がある。
拓也は、深呼吸をした。
胸の中に、確かな重みと温度があった。
「ここからだ……俺の本当の物語は」
小さく呟いたその声は、春の光に溶けるように、部屋の中で静かに消えていった。




