20:編集者との初対面とプロの視点
翌週。
拓也は、東京の出版社が入る高層ビルのロビーで、待ち合わせの時間までそわそわと落ち着かなかった。連載開始から二ヶ月、そして工場を辞めることを決意してからまだ数日。彼の人生は、あまりにも急激に変化していた。
拓也は、ジャケットの内ポケットを確かめた。
中には、小さな名刺入れ――印刷所に駆け込むようにして作った、「山田拓也」という名前と、電話番号、メールアドレスだけが記された簡素なもの。
それを指でなぞるたびに、紙の薄さが、自分の存在の頼りなさを思い知らされるようだった。
時間になり、彼を迎えに来たのは、メールの差出人である加瀬という名の編集者だった。加瀬は三十代前半と思しき、穏やかな笑顔の男性で、拓也の想像していた「敏腕編集者」よりも、ずっと親しみやすい印象だった。
「山田拓也様ですね。加瀬と申します。わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「あ、こちらこそ……山田です。お世話になります」
拓也は、慌てて名刺を取り出し、両手で差し出した。
手のひらがわずかに湿っているのを、加瀬に悟られないように指を軽く握る。
加瀬は笑顔のまま受け取り、「どうぞ」と、ガラスの自動ドアの奥、会議室へと案内した。
会議室は、窓から都心の景色が一望できる、洗練された空間だった。拓也が住むアパートや、彼が働いていた工場の殺風景さとは、対極にある世界だ。
加瀬は、資料を広げ、早速、本題に入った。
「まずは、書籍化のオファー、改めてお受けいただきありがとうございます。貴作『勇者アレスの怠惰な日々』は、ランキングでも急速に順位を上げられていて、社内でも大きな注目を集めています」
「ありがとうございます。まさか、書籍化の声をかけていただけるとは思っていなかったので、大変光栄です」
「いえ、作品の力が素晴らしい。特に、アレスの『怠惰』という動機付けが、物語の核として非常に強力です。特に王都を破壊した場面などは、最高のカタルシスでした」
拓也は、自分の苦悩の末に生み出した展開を、プロに評価されたことに、胸が熱くなった。
「さて、本題なのですが、書籍化にあたり、いくつかプロの視点からご提案させていただきたい点がございます」
加瀬は、そう言うと、静かに資料をめくった。
「現在の連載版は、非常に勢いがあり、WEB小説としては完璧です。しかし、書籍として売るには、『プロローグの強化』と、『ヒロインのリリィの掘り下げ』が不可欠だと考えています」
拓也の頭の中に、アレスとリリィの姿が浮かぶ。
怠惰を貫く男と、それを叱る少女。
二人のやりとりは軽妙で、彼自身が最も楽しんで書いていた部分だった。
けれど、その楽しさの裏にある物語の深みを、まだ描き切れていないことも、自分が一番わかっていた。
「まず、プロローグです。現状は、アレスの『怠惰』な日常から始まる導入ですが、書籍の読者は、もう少し『なぜ彼は最強なのか』という設定を、最初に知りたいと考えます。書籍版では、アレスがなぜ力を持ち、なぜ怠惰になったのかを、エピソードとして追加してもらえませんか?」
「なるほど…アレスの過去ですね」
加瀬はうなずき、今度はもう一枚、別の資料を広げた。
空調の微かな風がページを揺らし、紙の端がカサリと鳴る。
「そして次に、ヒロインのリリィです。連載では、リリィはアレスのツッコミ役、保護者役として機能していますが、彼女自身の『夢』や『目的』が薄い。読者は、彼女がアレスの隣にいることで、何を得たいのかが見えると、物語に感情移入しやすくなります。例えば、リリィの故郷が魔王軍に滅ぼされた、などの過去を追加し、彼女を単なる『お守り役』から脱却させる必要があります」
加瀬の指摘は、的確だった。拓也は、連載の途中で、読者から「世界観ガチ勢」として指摘された『リリィの掘り下げ』について、まだ手を付けられていなかった。
「その通りです。リリィについては、私も課題だと感じていました。ぜひ、その方向で書き直させてください」
「ありがとうございます。そして最後に、最も重要な点です」
加瀬、資料から目を上げ、拓也の目を見た。
「WEB小説の読者は、日々の更新を楽しみますが、書籍の読者は、完結した物語を求めます。今、拓也様の作品は、王都編に入ったばかりですが、読者アンケートの結果、この作品の核である『怠惰な最強』が最も活きるのは、魔王を倒した後、全てが解決した世界でも、アレスが怠惰を貫くというラストだと考えます」
「魔王討伐後の、その後、ですか」
「ええ。ですから、書籍化を機に、物語のゴールを明確にし、連載のプロット全体を、『魔王討伐』と『その後のアレスの究極の怠惰』に向けて、再構成していただきたいのです。これは、プロの作家として、『物語をどこで終わらせるか』という、最も重要な決断になります」
拓也は、加瀬の言葉に、打ちのめされるというよりも、むしろ、深い感銘を受けた。それは、単なる編集ではなく、物語の可能性を信じる、一人の読者からの真摯な提言だった。
「承知いたしました。書籍の読者の期待に応えられるよう、プロットを見つめ直し、全力で執筆させていただきます」
拓也は、力強く答えた。彼の視線の先には、もう工場のライン作業の姿はない。あるのは、彼の物語を待つ、新たな読者たちの顔と、彼自身の創造した、広大な異世界だけだ。
拓也は、書籍化のオファーを受けるという、夢の成就を目前にして、「書く」という行為が、単なる情熱から、「読者との約束」であり、「プロとしての責任」へと変わった瞬間を、実感していた。
「素晴らしい決意、ありがとうございます。では、まずは第一巻の書き下ろし分、そしてプロットの再構成について、綿密に打ち合わせをしていきましょう」
加瀬はそう言い、笑顔で拓也に手を差し伸べた。拓也は、その手を力強く握り返した。
彼の「小説家」としての、本当の戦いが、今、始まったのだ。




