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19/32

19:辞表の提出と託された想い

土曜日の朝。

カーテンの隙間から差し込む薄い光が、部屋の壁を斜めに切り裂いていた。

灰色の冬空が、ゆっくりと明るみ始める。


拓也は、アラームが鳴るより先に目を覚ました。

久しぶりに、体の奥に溜まっていた鉛のような重さが消えている。

深く息を吸うと、胸の内側がわずかに温かく膨らむのを感じた。


(今日で全てが変わる……)


思考の奥で、その言葉が何度も反響する。

布団から起き上がると、薄い空気が肌に触れ、現実の冷たさが戻ってきた。

けれど、それは嫌な冷たさではない。

これから新しい場所へ踏み出す前の、清らかな緊張の温度だった。


今日は、出勤日ではない。だが、彼はアパートの大家に頼み込んで、班長が工場の事務作業で出勤している時間帯を聞き出していた。


彼は、スーツに着替えた。何年か前に友人の結婚式のために購入した、安物だが、今は人生の重要な節目を象徴する一張羅だ。

鏡に映る自分の顔は、相変わらず寝不足のクマが目立つが、その瞳には、かつてないほどの決意が宿っている。


内ポケットに手を伸ばし、封筒を確認する。

辞表――白い紙が、指先に触れるたび、不思議な重みを感じた。

まるで、過去の全てがそこに詰まっているかのようだった。


外に出ると、空気はまだ冷たい。

街路樹の枝から落ちる水滴が、太陽に光って弾ける。

工場へ続くいつもの通勤路。

何百回も歩いた道なのに、今日はまるで違う場所のように見えた。単調で退屈だった通勤路が、今は、彼の「過去」と「未来」を隔てる、特別な道のように感じられた。


工場に到着すると、拓也は直接、班長がいる事務室へ向かった。鉄骨とコンクリートでできた工場棟の内部は、静かだ。ラインは止まり、機械の騒音がない分、冷たい空気が張り詰めている。


事務室の前に立つと、中から書類をめくる音と、パソコンのキーボードの打鍵音が微かに聞こえた。

拓也は、一度、深く息を吸い込み、拳を軽く握り締めてから、ドアをノックした。


「入れ」


低く重い声。

班長の声だ。


班長は、書類の山に囲まれ、パソコンに向かっていた。顔を上げ、スーツ姿の拓也を見て、一瞬、怪訝な表情を浮かべた。


「なんだ、山田。今日、お前は休みだろう。まさか、また何かやらかしたのか?」


拓也は、姿勢を正し、机の前に立った。

手のひらが汗ばむ。だが、声は震えなかった。


「班長。お忙しいところ申し訳ありません。本日、お話があり参りました」


拓也は、深呼吸し、内ポケットから封筒を取り出し、班長の机の上に静かに置いた。


「私、山田拓也は、一身上の都合により、今月末をもって退職させていただきたく、お願いに参りました」


班長は、封筒を見て、一瞬言葉を失った。

そして、その顔に、怒りよりも先に、何か諦めのような、複雑な感情が浮かび上がった。


「……退職、だと? 理由は何だ。結婚か? それとも、また、夜中の『遊び』が祟って、まともな仕事ができなくなったか?」


班長の口調は、いつものように刺々しい。拓也は、その質問に、逃げることなく答えた。


「夜中の遊びではありません。私は、小説を書いています。そして、この度、その小説が、出版社から書籍化のオファーをいただきました」


班長は、拓也の顔をまじまじと見つめた。その視線は、拓也の嘘を見抜こうとしているようだった。しかし、拓也の目に宿る真剣な光を見て、班長は深く息を吐き出した。


「……そうか。お前もか」


「え?」


「田中も昔、お前と同じ夢を見てたな。でも結局、あの野郎は最後はクビだ。お前は、そうならないと、本気で思ってんのか?」


班長の言葉は、拓也の胸を抉った。だが、拓也は毅然として答えた。


「はい。確かに、夢を追う過程で現実の仕事を疎かにしました。自分のミスでラインを止め、自分の未熟さを痛感しました。だからこそ、今、プロとして小説を書くために、この現状を変えなければならないと考えました」


拓也の真っ直ぐな言葉に、班長は数秒間、沈黙した。そして、机の上にあった書類の束の中から、くしゃくしゃになった一枚の便箋を取り出し、拓也の目の前に置いた。


「これを見ろ」


それは、筆跡が乱れた、簡単なメモだった。



山田へ

しっかり夢を叶えろよ。

お前の小説、面白かったぞ。

これからも応援してるからな。

田中



拓也は、その便箋を見て、全身が震えた。田中は、拓也の小説を読み続けてくれていた。そして、最後に、拓也を応援する言葉を残してくれたのだ。


「田中さんが……読んでくれていたんですか」


班長は、椅子の背にもたれ、ゆっくりと息を吐いた。

その吐息には、怒りでも呆れでもなく、どこか年長者の、諦念にも似た優しさが滲んでいた。


「……俺は、お前らのやってることは理解できねぇ」


低くくぐもった声が、事務室の静寂を割った。


「だが、お前が本気なのはわかった。辞表は受け取っておく。今月いっぱいで、引き継ぎをしっかりやれ。最後まで、仕事の責任を果たせ」


一瞬、言葉が出なかった。

拓也は喉の奥を鳴らし、ようやく声を振り絞った。


「……はい! ありがとうございます!」


拓也は、深々と頭を下げた。それは、辞表を受け取ってもらったことへの感謝だけでなく、田中からのメッセージを伝えてくれたことへの、心からの感謝だった。


班長はもう何も言わず、手元の書類に視線を落とした。

しかしその横顔は、どこか穏やかで、まるで巣立ちを見送るような寂しさがあった。


工場を出た拓也は、空を見上げた。いつもの曇り空だが、今日は、鉛のような重さは感じない。


内ポケットの辞表は、もう彼の傍にはない。代わりに、彼の心の中には、書籍化への希望と、田中からの温かい置き土産が、強く、熱く残っていた。


拓也は工場を背にし、小説家としての、新たな生活と、新たな戦場へと、力強く歩み出した。彼の物語は、今、現実の世界でまさに次の章へと進もうとしている。


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