19:辞表の提出と託された想い
土曜日の朝。
カーテンの隙間から差し込む薄い光が、部屋の壁を斜めに切り裂いていた。
灰色の冬空が、ゆっくりと明るみ始める。
拓也は、アラームが鳴るより先に目を覚ました。
久しぶりに、体の奥に溜まっていた鉛のような重さが消えている。
深く息を吸うと、胸の内側がわずかに温かく膨らむのを感じた。
(今日で全てが変わる……)
思考の奥で、その言葉が何度も反響する。
布団から起き上がると、薄い空気が肌に触れ、現実の冷たさが戻ってきた。
けれど、それは嫌な冷たさではない。
これから新しい場所へ踏み出す前の、清らかな緊張の温度だった。
今日は、出勤日ではない。だが、彼はアパートの大家に頼み込んで、班長が工場の事務作業で出勤している時間帯を聞き出していた。
彼は、スーツに着替えた。何年か前に友人の結婚式のために購入した、安物だが、今は人生の重要な節目を象徴する一張羅だ。
鏡に映る自分の顔は、相変わらず寝不足のクマが目立つが、その瞳には、かつてないほどの決意が宿っている。
内ポケットに手を伸ばし、封筒を確認する。
辞表――白い紙が、指先に触れるたび、不思議な重みを感じた。
まるで、過去の全てがそこに詰まっているかのようだった。
外に出ると、空気はまだ冷たい。
街路樹の枝から落ちる水滴が、太陽に光って弾ける。
工場へ続くいつもの通勤路。
何百回も歩いた道なのに、今日はまるで違う場所のように見えた。単調で退屈だった通勤路が、今は、彼の「過去」と「未来」を隔てる、特別な道のように感じられた。
工場に到着すると、拓也は直接、班長がいる事務室へ向かった。鉄骨とコンクリートでできた工場棟の内部は、静かだ。ラインは止まり、機械の騒音がない分、冷たい空気が張り詰めている。
事務室の前に立つと、中から書類をめくる音と、パソコンのキーボードの打鍵音が微かに聞こえた。
拓也は、一度、深く息を吸い込み、拳を軽く握り締めてから、ドアをノックした。
「入れ」
低く重い声。
班長の声だ。
班長は、書類の山に囲まれ、パソコンに向かっていた。顔を上げ、スーツ姿の拓也を見て、一瞬、怪訝な表情を浮かべた。
「なんだ、山田。今日、お前は休みだろう。まさか、また何かやらかしたのか?」
拓也は、姿勢を正し、机の前に立った。
手のひらが汗ばむ。だが、声は震えなかった。
「班長。お忙しいところ申し訳ありません。本日、お話があり参りました」
拓也は、深呼吸し、内ポケットから封筒を取り出し、班長の机の上に静かに置いた。
「私、山田拓也は、一身上の都合により、今月末をもって退職させていただきたく、お願いに参りました」
班長は、封筒を見て、一瞬言葉を失った。
そして、その顔に、怒りよりも先に、何か諦めのような、複雑な感情が浮かび上がった。
「……退職、だと? 理由は何だ。結婚か? それとも、また、夜中の『遊び』が祟って、まともな仕事ができなくなったか?」
班長の口調は、いつものように刺々しい。拓也は、その質問に、逃げることなく答えた。
「夜中の遊びではありません。私は、小説を書いています。そして、この度、その小説が、出版社から書籍化のオファーをいただきました」
班長は、拓也の顔をまじまじと見つめた。その視線は、拓也の嘘を見抜こうとしているようだった。しかし、拓也の目に宿る真剣な光を見て、班長は深く息を吐き出した。
「……そうか。お前もか」
「え?」
「田中も昔、お前と同じ夢を見てたな。でも結局、あの野郎は最後はクビだ。お前は、そうならないと、本気で思ってんのか?」
班長の言葉は、拓也の胸を抉った。だが、拓也は毅然として答えた。
「はい。確かに、夢を追う過程で現実の仕事を疎かにしました。自分のミスでラインを止め、自分の未熟さを痛感しました。だからこそ、今、プロとして小説を書くために、この現状を変えなければならないと考えました」
拓也の真っ直ぐな言葉に、班長は数秒間、沈黙した。そして、机の上にあった書類の束の中から、くしゃくしゃになった一枚の便箋を取り出し、拓也の目の前に置いた。
「これを見ろ」
それは、筆跡が乱れた、簡単なメモだった。
山田へ
しっかり夢を叶えろよ。
お前の小説、面白かったぞ。
これからも応援してるからな。
田中
拓也は、その便箋を見て、全身が震えた。田中は、拓也の小説を読み続けてくれていた。そして、最後に、拓也を応援する言葉を残してくれたのだ。
「田中さんが……読んでくれていたんですか」
班長は、椅子の背にもたれ、ゆっくりと息を吐いた。
その吐息には、怒りでも呆れでもなく、どこか年長者の、諦念にも似た優しさが滲んでいた。
「……俺は、お前らのやってることは理解できねぇ」
低くくぐもった声が、事務室の静寂を割った。
「だが、お前が本気なのはわかった。辞表は受け取っておく。今月いっぱいで、引き継ぎをしっかりやれ。最後まで、仕事の責任を果たせ」
一瞬、言葉が出なかった。
拓也は喉の奥を鳴らし、ようやく声を振り絞った。
「……はい! ありがとうございます!」
拓也は、深々と頭を下げた。それは、辞表を受け取ってもらったことへの感謝だけでなく、田中からのメッセージを伝えてくれたことへの、心からの感謝だった。
班長はもう何も言わず、手元の書類に視線を落とした。
しかしその横顔は、どこか穏やかで、まるで巣立ちを見送るような寂しさがあった。
工場を出た拓也は、空を見上げた。いつもの曇り空だが、今日は、鉛のような重さは感じない。
内ポケットの辞表は、もう彼の傍にはない。代わりに、彼の心の中には、書籍化への希望と、田中からの温かい置き土産が、強く、熱く残っていた。
拓也は工場を背にし、小説家としての、新たな生活と、新たな戦場へと、力強く歩み出した。彼の物語は、今、現実の世界でまさに次の章へと進もうとしている。




