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12/32

12:ぎこちない休息と小説への熱意

土曜日。

拓也は布団の中で、毛布の端を掴んだまま動かなかった。

カーテンの隙間から射す光が、ぼんやりと灰色の部屋を照らしている。外では時おり車の音が通り過ぎるが、それも遠い世界の出来事のようだった。体の芯まで疲れが沈殿していて、まぶたを開ける気力すら湧かない。

眠るというより、意識を手放していた。夢も見ない。時間が溶けていく。


昼を過ぎた頃、ようやく目を覚ます。

布団の中は生ぬるく、湿った空気がこもっている。頭が重い。

ゆっくりと身体を起こし、髪をかき上げながらため息をつく。時計を見ると一時を回っていた。

台所で湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れる。カップの縁から立ち上る湯気が、ぼやけた光の中で揺れている。

一口飲むと、舌に苦味が広がった。眠気は少しだけ遠のく。


「休む」と決めた。頭では分かっている。だが、胸の奥では何かが落ち着かない。

書きかけの小説の登場人物たちが、脳裏で微かにざわめいている気がする。


――あの場面の続きはどうなる?

――あのセリフ、もっと強くできるんじゃないか?


そんな声が、コーヒーの苦味と一緒に心の奥底を刺激する。


気を紛らわすようにテレビをつける。

画面の中では、照明の強いスタジオで芸能人たちが笑っている。軽快な音楽、テロップ、過剰なリアクション。

通販番組では、白い歯を見せた司会者が生活用品を得意げに掲げている。

拓也の部屋にあるのは、剥げた木目の机と、古いノートパソコン、使いかけのマグカップだけ。

画面の光が、まるで異世界の眩しさのように見えた。


彼はリモコンのボタンを押す。

「ピッ」という音と共に、部屋に静寂が戻る。


静寂は重たかった。

外の風が窓をわずかに揺らす音のほかには、何も聞こえない。

しかし、拓也の頭の奥で「カタカタカタ……」という音が鳴り始める。

キーボードを叩く、自分の指先の幻聴だ。

思考のどこかで、物語が勝手に走り出そうとしている。


「だめだ、だめだ……」


拓也は頭を振る。

それでも胸の中で、言葉の断片が形を持ち始める。

獲物の匂いを嗅ぎつけた獣のように、創作への渇望が身体の奥から這い上がってくる。

休むと決めたのに――休めない。


部屋の中を行ったり来たりする。

机の前に座っては立ち上がり、布団に潜ってはまた起き上がる。

狭い六畳の空間が、まるで自分の思考を閉じ込める檻のように感じられる。


窓の外では、夕暮れの色が滲み始めていた。

オレンジと灰色の境目がぼんやりと揺れ、街の遠くで救急車のサイレンが鳴る。

現実の音と、小説の世界の断片が、拓也の頭の中で入り混じる。

現実と虚構が混ざり合い、心がどちらにも居場所を見いだせない。

冷めたコーヒーの残りが、胃の底で重く沈んでいた。




翌日の日曜日。

朝の光がカーテン越しに淡く部屋を照らしている。

拓也は深呼吸をして、ようやく布団を抜け出した。

今日は創作から離れよう。そう自分に言い聞かせる。

ノートパソコンの電源ボタンに無意識に伸びかけた手を止め、外に出る準備を始めた。


アパートを出ると、空はうす曇りだった。

秋の風が乾いた匂いを運んでくる。

近所の通りには、人の気配が少なく、風が電線を細く鳴らしていた。

小さな古本屋の前に立つ。木製の看板が少し傾いたまま立っている。

中に入ると、紙と埃の混ざった匂いが鼻をくすぐった。


拓也は狭い通路を抜け、棚の隅に積まれた文庫本の山の前で足を止めた。

指先で背表紙をなぞりながら、一冊の色あせたミステリー小説を手に取る。

表紙の角は擦れて、古いインクの匂いがした。


「今日はこれで現実を忘れよう」と、心の中で呟く。


帰宅し、インスタントラーメンをすすりながらページを開く。

プロの作家が紡ぐ物語。

緻密な伏線、絡み合う人間関係、鮮やかな真相。


最初は夢中になっていた拓也だが、次第に手が止まる。


「――いや、これ、ここで主人公が動くのは不自然だろ」


「このミスリードは、ちょっと強引すぎないか?」


読み進めるうちに、彼はその小説の「構造」ばかりを気にし始める。自分の小説の糧に出来ないかと無意識に分析してしまう。


小説を閉じ、拓也は深いため息をついた。かつての彼にとって、物語は唯一の「現実逃避」の場所だった。しかし、今はその逃避先すらも、純粋に物語を楽しめる場所ではなくなっていたのだ。


拓也は立ち上がり、外へ出た。

靴ひもを結び直し、無言のまま走り出す。

冷たい風が頬を打つ。

息が白くなり、肺が焼けるように痛い。

アスファルトの硬さが足の裏に伝わる。

走るたびに、頭の中の雑音がひとつ、またひとつと削れていく。

何も考えたくなかった。ただ、空っぽになりたかった。


一時間ほど走り回ったあと、足の裏に鈍い痛みを感じながら帰路につく。

シャワーの湯が、火照った身体から汗と疲れを流していく。

夕食を終え、布団に潜り込むと、ようやく安堵の息が漏れた。


まぶたを閉じると、再び頭の奥で「カタカタカタ……」という音が鳴る。

アレスの声が、遠くで呼んでいる。


「早く、アレスの次の物語が書きたい……」


明日からまた工場での単調な日々が始まる。

それでも、拓也の心の奥には小さな火が残っていた。

眠りに落ちる直前、その火が、静かに揺らめいた。


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