11:静寂と読者からのメッセージ
拓也が深い眠りから覚めたのは、午後十一時を回った頃だった。
体が、鉛のように重い。
しかし、連日の徹夜で常に張り詰めていた神経は、久しぶりに休息を得たことで、わずかに弛緩していた。彼は、顔を上げ、キーボードに突っ伏したまま寝ていたことに気づいた。首筋がひどく凝っている。
「……更新を、止めてしまった」
拓也は、真っ先にその事実を思い出した。作品を公表してから、毎日欠かさず続けてきた「毎日更新」のルーティンが、彼の現実の失敗によって、途切れてしまったのだ。
罪悪感と、読者を失望させてしまったかもしれないという不安が、彼の胸を締め付ける。
震える手でマウスを握り、パソコンの電源を入れる。
ファンの回転音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。
画面が立ち上がるまでの数秒が、異様に長く感じられた。
(読者は、どう反応しただろうか。「やっぱりな」と、切られただろうか)
彼の頭の中には、「辛口レビュアー」の冷たい言葉が蘇っていた。更新が途絶えたことで、残りの5人の読者も、離れていってしまうかもしれない。
作品管理画面を開く。まずは、活動報告のページへ。
拓也が投稿した「【お知らせ】更新を一時休止させていただきます」というタイトル。その下には、いくつかの新しいメッセージが書き込まれていた。
感想:3件
活動報告へのコメント:5件
「え……?」
拓也は、目を疑った。連載を止めたというネガティブな知らせにもかかわらず、数字が増えている。彼は、まず活動報告へのコメントを開いた。
読者名:名無しの傍観者
「作者様、どうかお気になさらず。体の健康と現実の生活が第一です。無理して体を壊して、連載が永遠に途切れる方が悲しいです。三日間、ゆっくり休んでください。私たちは待っています」
読者名:剣好きの通りすがり
「作者様、正直な報告、ありがとうございます。私も仕事で疲弊している身なので、お気持ちはわかります。アレスの物語を楽しみに待っていますので、焦らず、元気になって戻ってきてください。応援しています」
読者名:通りすがりの元書き手
「ノベリストになろうは、体力勝負です。よく決断されました。仕事でのミスは痛いですが、それを糧にできるのが創作者です。三日後、パワーアップしたアレスを見せてください。私も昔、挫折した者ですが、陰ながら応援しています」
コメントを読み進めるうちに、
拓也の胸の奥で何かがゆっくりと溶け出していった。
熱いものが、目の奥からこみ上げてくる。
手で押さえようとしたが、もう抑えられなかった。
「……っ、うぅ……」
声が、勝手に漏れた。
涙が頬を伝い、キーボードに落ちた。
一滴、また一滴。
乾いたキーの隙間に、雫が小さく光る。
こんなにも優しい言葉が、自分に向けられたのはいつ以来だろう。
彼らは、ただの読者。
顔も知らない、遠くの誰か。
それでも――
彼の言葉を信じて、待っていてくれる人たち。
拓也は、手の甲で涙を拭いながら、画面を見つめた。
視界の向こうで、光るコメント欄が、まるで焚き火のように温かく揺れて見えた。
(俺の物語は……誰かに届いていたんだ)
心の奥に、静かに灯がともる。
その灯は、かつて自分が失いかけた創作の意味を、
再び思い出させてくれる光だった。
「待っています」
その一言一言が、彼の心を覆っていた重い鉛を、溶かしていくようだった。彼が抱いていた「読者を裏切った」という罪悪感は、読者たちの温かい言葉によって、完全に打ち消された。
特に、「通りすがりの元書き手」のコメントが、胸の奥に響いた。
田中と同じように夢を抱き、そして現実に砕かれた誰かが、今、自分を応援してくれている。
見えない線が、過去の痛みと今の自分を繋いでくれているように思えた。
(俺は、一人じゃなかったんだ……)
彼は、すぐに返信を書き込んだ。感謝の言葉と、必ず三日後に戻るという、強い決意を込めて。
次に、拓也は感想欄を開いた。新規の感想も、彼の作品に寄せられていた。
読者名:名無しの権兵衛
「更新停止のお知らせから来ました。作者さんの正直な報告に、逆に興味を持ちました。設定が面白そうだったので、一話から読みました。作者さんの疲労感が、主人公アレスの『怠惰』に説得力を与えているのかもしれませんね。ブクマします。休んでください。」
「……ブクマ、してくれた?」
拓也は、信じられない思いで、アクセス解析のページを開いた。
ブックマーク:6(新規1)
増えている。連載を休止するという、通常であれば読者が離れていく事態にもかかわらず、彼は、新たな読者を獲得していた。
「名無しの権兵衛」の言葉が、拓也の胸に響く。
「作者さんの疲労感が、主人公アレスの『怠惰』に説得力を与えているのかもしれませんね」
彼は、自分自身の苦悩、現実のライン作業での疲労と、小説への情熱の間で揺れ動く姿が、意図せずして、アレスのキャラクターに深みを与えていたことを知った。
拓也は、椅子から立ち上がり、窓を開けた。外は、真夜中の静寂。しかし、拓也の心の中は、熱い感動と、新たな活力が満ち溢れていた。
(そうだ。俺の書く小説は、俺自身の人生の投影なんだ。現実の苦しさ、辛さ、それでも前に進みたいという欲望。それが、この物語の核だ)
拓也は、自分の失敗や挫折を、隠すべきものではなく、物語の真実味を増すための「素材」として捉え直すことができた。
彼は、活動報告に寄せられた応援のメッセージを、まるで命綱のように感じた。彼らは、拓也の作品を、単なる消費物としてではなく、「作者」である拓也の人生の一部として、受け入れてくれたのだ。
その夜、拓也は、第二十三章のプロットを、一切変更しなかった。ただ、文章の一つ一つに、彼の感謝と決意を込めて、より丁寧に、より真摯に書き込むことを決めた。
拓也は、眠気など完全に忘れ、新しいエネルギーに満たされて、創作の喜びを噛みしめていた。
三日間という短い休止期間は、彼にとって、単なる休息ではなく、「小説家」として、そして「人間」として、再出発するための、必要な儀式となったのだ。




