10:疲労の限界とリアルの重圧
空は灰色に曇り、工場の屋根に低く垂れ込めていた。
夜の冷気をそのまま閉じ込めたような朝の空気は重く、油と鉄の匂いが、拓也の鼻腔にまとわりつく。
いつも通りのライン作業。
だが拓也の手は、まるで自分の意志とは別のもののように、鈍く動いていた。
指先は冷え切り、関節がきしむ。
睡眠不足で霞む視界の向こう、プレス機の赤いランプが、ぼんやりと滲んで見えた。
――カシャン。
小さな金属音とともに、拓也は部品をセットした。
だが次の瞬間、異様な手応えが走る。
「……あ」
プレス機が一瞬、重たい悲鳴を上げた。
部品の角が僅かにずれていた。金属の板が圧力で歪み、いやな音を立てて裂ける。
「ストップ! 機械止めろ!」
誰かの叫び。続いて、警告ランプの赤が一斉に点滅した。
工場全体が静まり返る。
耳鳴りのような沈黙の中で、拓也は、自分の呼吸だけが異様に荒いのを感じた。
班長が駆け寄ってきた。
油の染みついた手袋を外しながら、顔をしかめ、怒鳴り声を上げた。
「山田! 何やってんだ! 仕事舐めてんのか!」
声が、鉄骨の壁に反響して何度も跳ね返る。
まるで、責め立てる声が何人分にも増えて襲ってくるようだった。
拓也は、ただ立ち尽くした。
油まみれの床の上、靴の裏にぬるりとした感触。
全身の血が足の裏に沈むような感覚。
「す、すみません……」
自分の声が、情けなく震えた。
「俺はなぁ、お前のそういう態度が一番気に食わねぇんだよ!」
班長の顔は真っ赤に膨らみ、額の汗が飛び散る。
その怒気は、拓也の胸を貫いた。
「ぼーっとして、仕事に集中してねぇ! 給料もらってる意味わかってんのか!」
班長は、手にしていた歪んだ製品を拓也の足元に叩きつけた。
ガシャン!
重い金属の音が、床に跳ね返って響いた。
拓也の心臓が、その音に合わせて一瞬止まる。
「自分の体調管理ぐらいちゃんとしろ! ラインを止めるな!」
拓也は何も言えなかった。
汗が首筋を伝い、作業着の襟元を濡らす。
胸の奥では、怒りでも悲しみでもない、
“自分が小さすぎる”という、言葉にならない羞恥が膨れ上がっていた。
(俺は……俺は何をやってるんだ)
現実が一気に襲いかかる。
徹夜明けのぼんやりした頭が、今になって激しく痛み始めた。
工場の騒音が戻り、再稼働した機械のリズムが、心臓の鼓動を狂わせる。
「……はい、すみません」
それだけを絞り出し、拓也は壊れた製品を片付けた。
周囲の視線が、突き刺さる。
同僚たちの表情には、あからさまな軽蔑や呆れが浮かんでいた。
その後の作業中、拓也は無言だった。
油と鉄粉の臭いが、鼻を刺すたびに吐き気が込み上げる。
眠気と倦怠が波のように押し寄せ、
自分がここにいる意味が、次第に分からなくなっていく。
(……俺は、ノベリストになろうで、たった数人の読者に読まれてるだけなのに。たかがそれだけで、小説家気取りになってたんだ)
現実の中の自分は、一人の読者すら感動させられないどころか、まともに機械を扱うことすらできない。
「仕事もまともにできない奴が、他人に感動を与える小説なんて書けるのか?」
班長の怒声の残響と、田中の言葉が、頭の中で交錯した。
「この工場で、俺みたいに夢を殺すな」
だが今、その言葉は違って聞こえた。
まるで、別の声がそれに重なっているようだった。
「お前は、現実から逃げているだけだ」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
それはプライドだったのか、希望だったのか、もう分からない。
拓也は、ラインの音に紛れながら、
自分の心の奥で、何かを必死に繋ぎ止めようとしていた。
だがそれは、指の間からこぼれ落ちる砂のように、形を保てなかった。
退勤後、拓也は、疲れ果てた体でアパートに帰宅した。夕食を済ませる体力もなく、そのままベッドに倒れ込みたかったが、その前にやるべきことがあった。
パソコンを開き、自分の作品ページを確認する。
第二十二章投稿済み。
閲覧数:920
ブックマーク:5
評価ポイント:10
拓也が、疲労を押し殺して捻りを加えた第二十二章は、ランキングにも新規読者の獲得にも、大きな影響を与えなかった。まるで画面の中だけ、時間が止まっているかのようだった。
そして、その夜、拓也はキーボードに手を置いたまま、動けなくなった。第二十三章のプロットは頭の中にある。辺境の村でのアレスの活躍を描き、物語を盛り上げる重要な局面だ。
しかし、体と精神が、完全に悲鳴を上げていた。
(書けない……。指が、動かない。頭が、真っ白だ……)
彼は、連載開始以来、初めて、「毎日更新」を断念せざるを得ない状況に陥った。
拓也は、悔しさで唇を噛んだ。たった5人のブックマークをしてくれた読者。彼らは、拓也の作品の更新を待っているはずだ。
彼は、震える指で、作品管理画面の「活動報告」を開いた。
「このまま黙って休んだら、読者を裏切ることになる。正直に、伝えるべきだ」
拓也は、自らの挫折を、文字にして公表する覚悟を決めた。
【活動報告】
【お知らせ】更新を一時休止させていただきます
いつも『アレスの怠惰な日々』を読んでくださっている読者の皆様へ。
誠に申し訳ございませんが、作者の体調管理不足により、本日の更新(第二十三章)を休止させていただきます。連日、仕事の傍ら執筆を続けておりましたが、本日、現実の仕事で大きなミスを犯してしまいました。
社会人として、現実の生活を疎かにして創作に没頭することは、本意ではありません。読者の皆様の期待に応えるためには、まず、作者自身が万全の状態でなければならないと痛感いたしました。
情けない話ですが、このまま書き続けると、作品の質が落ちるか、連載そのものを継続できなくなると判断しました。
一旦、体調と生活のリズムを整えるため、連載を三日間、休止させていただきます。
三日後には、必ず、今まで以上に面白い物語をお届けすることを、ここにお誓い申し上げます。
この度は、連載を楽しみにしてくださっていた皆様に、深くお詫び申し上げます。
山田拓也
拓也は、活動報告を投稿した。それは彼にとって、自分の無力さと挫折を、公衆の面前で晒す、屈辱的な行為だった。
しかし、同時にそれは「小説家として読者に誠実である」という、新たな決意の表明でもあった。
投稿ボタンを押した後、拓也は椅子にもたれかかり、深く息を吐いた。身体の緊張が一気に解け、強烈な眠気が襲ってきた。
彼は、パソコンの電源を落とさず、そのまま机に突っ伏した。
(三日……三日、休む。そして、必ず、戻ってくる)
自分にそう言い聞かせるように、心の中で繰り返した。体の力が抜けていく。指先の感覚が遠のき、意識が闇に沈む。
机に突っ伏したまま、拓也は眠りに落ちた。
その疲弊しきった夢の中には、怠惰なはずの勇者アレスが、誰よりも真剣な顔で、荒野を駆けている姿が映っていた。




