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1:燻っていた衝動

深夜零時を少し回った頃、山田拓也の住む、築40年を越えるアパートの六畳一間には、安物の電気スタンドの黄色い光だけが、辛うじて闇を押しとどめていた。壁に貼られた湿気で少したわんだポスターは、彼がかつて熱中したロックバンドのロゴを歪ませている。


「ふぅ……」


拓也は、冷めたマグカップに残ったインスタントコーヒーを飲み干し、深く息を吐いた。胃の奥でその苦みが重く沈む。机の上には、中古で購入したノートパソコンが鎮座している。

その画面には、小説投稿サイト「ノベリストになろう」の作品管理画面が開かれていた。タイトルはまだ「未設定」のままだ。


「『ソードマスター・アレス』…いや、ありきたりすぎるか。剣と魔法、異世界転生……王道だけど、このタイトルじゃ埋もれる」


拓也は独り言を呟きながら、細い指で黒縁メガネを押し上げた。視線の先で、キーボードを叩く指先が、僅かに震えている。

それは、夜の寒さのせいばかりではない。胸の奥で燻っている、何か熱いもの、抑えきれない衝動のようなものが、指先に伝わってきているのだ。


大学を卒業してから三年。拓也は、小さな町工場で非正規のライン作業員として働いている。将来への具体的な展望など何もない。毎日、決められた時間に同じ作業を繰り返し、帰宅して飯を食い、風呂に入り、寝る。

まるで、工場のラインに乗せられた製品のように、自分の人生も規格化されたレールの上を静かに、ただ滑っていくだけのように感じていた。


そんな彼に、突如として湧き上がってきたのが、「小説を書きたい」という衝動だった。


中学三年生の春、三者面談で将来何になりたいか、やりたいことはないかと聞かれ、当時本の虫だった彼はその頃から漠然と小説を書きたいなと考えていた。

しかし、どうせ自分には才能なんてないし……と最初から諦め、そんな思いをずっと胸の奥に閉まっていた。


だが、最近アニメ化した、ある「なろう」小説。主人公が異世界でチート能力を得て活躍する、よくある物語。しかし、その描写の細かさ、展開の爽快感に、拓也は久しぶりに心の底から震えるような興奮を覚えた。

「自分も、こんな世界を創ってみたい」――そう思った瞬間、心臓が熱を帯び、頭の中で物語の断片がまるで雪崩のように流れ込んできたのだ。


今日で、物語のプロットを考え始めてから一週間。週末の昼間は睡魔に負け、仕事から帰れば疲労で動けない。結局、彼の執筆活動は、毎晩のこの、孤独な深夜の数時間に限定されていた。


「主人公の名前は、アレス。剣技は天才的だけど、魔法はからっきし。追放系……いや、追放系はもう飽和してるか。最初から魔王討伐を任される勇者、というのはどうだろう」


彼は、プロット用のテキストファイルに、ぽつぽつと言葉を打ち込んでいく。


――『勇者アレスの怠惰な日々』


「……これだ。追放はされなかったけど、実は怠け者で、仕方なく魔王討伐に向かう、という設定。王道設定の裏をかくことで、読者のフックになるかもしれない」


拓也の口元に、微かな笑みが浮かんだ。彼の世界を覆っていた灰色の膜が、少しだけ、破れた気がした。

だが、すぐにその笑みは消える。


「いや、待て。これ本当に面白いのか?」


自信と不安が、交互に彼の心の中で波打つ。頭の中では最高の展開だと思えるのに、いざ文字にして客観的に見ると、途端に陳腐に見えてしまう。これまで何冊も、小説の書き方指南書を読み漁った。


テンプレ、テンプレ外し、魅力的な主人公、読者に寄り添う語り口……知識は増えたが、それが作品に反映されるかは全く別の話だった。


ふと、彼は立ち上がり、窓の外を見た。遠く、住宅街の灯りがまばらに点滅している。自分の部屋以外にも、きっと、夜更かしをしている誰かがいるのだろう。

もしかしたら、同じようにキーボードに向かって、誰にも見られていない物語を紡いでいるかもしれない。その想像が、孤独な作業に、わずかな連帯感を与えてくれた。

パソコンに戻ると、彼はプロットの続きを打ち込んだ。




【第一章:旅立ち】

アレスが王城に呼び出される。

王女とのぎこちない会話。アレスの怠惰な性格を強調する。

無理やり勇者パーティーに組み込まれそうになるが、アレスが拒否。

王様に「俺のやる事に一切口を挟まない」という条件を提示。渋々承諾。




「よし、会話文を書きながら、世界観の説明を挿入していこう」


彼は、新しいテキストファイルを開いた。白い画面に、指が触れる。




『勇者アレス、よくぞ参った』




最初の一文を打ち込んだ瞬間、キーボードの打鍵音が、まるで乾いた夜に響く、小さな鐘の音のように、拓也の耳に心地よく響いた。その音だけが、今の彼が生きている証だった。


――時間は、あっという間に過ぎた。


次に拓也が顔を上げた時、窓の外は、すでに白み始めていた。空の色は濃紺から、薄いグレーへと変わりつつある。街が、まだ寝静まっている静寂の中、拓也の指は無心で動き続けていた。


「っし、ここまでで、2000文字か。あと1000文字、最低でもあと1000文字は……」


彼は、寝不足で痙攣しそうなまぶたを擦りながら、最後の力を振り絞った。


***


アレスは、重い足取りで王城の石畳を歩いていた。背後では、キラキラとした鎧を身にまとった騎士たちが、彼のことを軽蔑の眼差しで見つめているのがわかる。

「怠惰な勇者」という烙印は、すでにこの国の全ての人間が知っている周知の事実なのだ


***


拓也は、アレスの心境を丁寧に、丁寧に文字に落とし込んでいく。


「孤独感、社会との摩擦、そして、それでも僅かに残る、世界を変えたいという微かな熱意……」


彼の人生と、アレスの人生が、僅かに重なるような気がした。自分も、この社会の隅で、何かを成し遂げたいと、もがき始めている。小説を書くという行為が、まさにそれだ。

ようやく、彼が満足のいく一区切りをつけられたのは、午前四時半を過ぎた頃だった。


【第一章・完】


パソコンの画面に表示された文字数を確認する。


3158文字


「……やった」


拓也は、静かに、しかし確かな達成感を噛みしめた。体は鉛のように重いが、心は妙に軽い。初めて、自分の手で、物語を、一つの区切りまで書き切ったのだ。


「投稿……は、まだ早い。誤字脱字チェックと、構成の練り直しが必要だ」


彼は、興奮を抑えながらも冷静に判断した。小説を投稿するという行為は、自分の内側にあるものを、不特定多数の「読者」という他者に晒すことなのだ。生半可な気持ちでは臨めない。


彼は、ファイルを保存し、パソコンを閉じた。キーボードの前に積み上げられた、カップラーメンの空容器と、数枚のクシャクシャになったレシート。それらが、彼の、孤独で熱狂的な夜を物語っていた。


立ち上がった瞬間、平衡感覚を失い、ふらつく。冷たい床に、彼の影が長く伸び、ゆらゆらと揺れた。


窓の外は、もうすっかり明るくなっていた。朝焼けのオレンジ色が、アパートの窓ガラスを染めている。町工場での仕事が始まるまで、あと三時間。


「とりあえず、風呂に入って、少しでも寝るか……」


拓也は、マグカップの横に置いた、まだ未開封の緑茶のティーバッグを眺めた。珈琲の苦みとは違う、爽やかな渋みが必要だと思った。


しかし、その前に。


彼は、もう一度、パソコンの電源を入れた。画面に映し出された、3158文字の物語を、ただじっと見つめる。


「…面白い」


心臓が、ドクン、と大きく脈打った。それは、この物語を読んでもらいたい、という、作者としての最も純粋な願いが、彼の内側から湧き上がってきた証拠だった。彼は、その熱い衝動を、静かに受け止めた。そして、仕事が終わった後の深夜に、再びこの机に向かうことを、固く誓ったのだった。


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