姉さん
ひとまずは学校で会話することを受け入れてくれた織間から週末なら時間を作れることを聞き当初の目的を達成した俺が家に帰ると、ちょうどジュースの缶片手にキッチンから顔を出した姉さんと鉢合わせた。
「あ、ちょうどよかった。月久、冷凍庫のアイスなくなったみたいだから買ってきてくれない?」
「いや、自分で行けよ」
顔を合わせるや否や人をパシリにしようとした我が姉、白藤旭はやや童顔ではあるものの目鼻立ちの整った美形で本人曰くそこそこモテるらしい。
いや、実際に姉さんが俺と同じ繰上高校へ通う三年生だった去年は上級生から白藤旭の弟という理由だけで何度か声をかけられたので、モテたかどうかはともかくそれなりに知名度があったのは事実なのだろうけど。
不思議なことに癖のある茶髪という髪質以外には特に似ている点もなさそうな俺と姉さんは他人から見ると一目で姉弟とわかるらしく、大抵の場合名乗る前から姉さんの弟だと認識されていた。
そんなわけで俺と違ってモテるらしい姉さんではあるが、家での彼女は見ての通りのわがまま姫で俺としてはなぜ彼女に人気があるのか疑問でならない。
「嫌よ。私もう部屋着に着替えちゃったし」
本人の言う通り今の姉さんはTシャツにショートパンツというラフな格好ではあるけれど。
彼女は近所のスーパーへ行くくらいなら恰好を気にしたりはしないので、これはどう考えても俺へ買い物を押し付けるための言い訳だろう。
「知るか。だいたい、俺は今日いろいろあって疲れたから今さら出かけたくないんだが」
「何よ? いろいろって」
「それは、織間が……やっぱ何でもない」
一瞬、言われるがまま織間とのことを話しそうになったけれど。
魔法関連の話を伏せたうえで彼女のことを説明するのは面倒なので、途中で思いとどまりてきとうにごまかしておく。
「何でもないねえ」
姉さんはからかうような響きを帯びた声で俺の答えを繰り返してから、獲物を見つけた肉食獣の如く目を細めた。
「そういえば、今日は帰ってくるのいつもより少し遅かったんじゃない?」
「別に、いつもと大して変わらないだろ」
「そう? でも、さっきの言い分だと学校で疲れるようなことがあったんでしょ?」
「それは、まあ」
「できればその話、詳しく聞いてみたいんだけど」
「しつこい。わざわざ人に話すほどのことじゃないし、どうでもいいだろ」
俺の態度の何が琴線に触れたのかは知らないが、姉さんは楽しそうに笑い声を溢してから唐突に俺の頭へ空いていた左手を乗せた。
「何だ? 急に」
「いやー、月久も可愛いところあるなと思って」
「どういう意味だ」
俺が意図を尋ねても姉さんはすぐには答えず、左手で数回俺の頭を撫でるように叩いてから顔に浮かぶ笑みを徐々に意地の悪いものへと変化させていった。
「そういえば、月久の学年にはすごく目立つ子がいたわね。三年でもちょっと話題になってたから覚えてるけど、確か織間さんだったかしら」
「……いるけど、それが?」
「恋愛相談ならいつでも乗ってあげるわよ?」
「……さっき余計なこと口走ったのは俺のミスだしこの際織間に用事があったのは認めるけど。本気で俺と織間に恋愛関連で何かあると思うわけ?」
俺の問いかけに対し姉さんはあっさりと首を横に振ると、顎に曲げた人差し指を押し当て何やら思案し始めた。
「ま、月久のことだから図星ならもっと狼狽するもの。告白したとかじゃないのはわかるわ。でも、本気でどうでもいいことならこんな風に濁したりしないでしょうし、何かあんたにとって特別なことがあったんでしょ?」
正直、そこまでわかってるなら聞くなよとは思うのだけれど。
この意地の悪い姉は俺を玩具にするのが楽しいらしく、このままここにいると根掘り葉掘り織間のことを聞いてきそうだ。
ないとは思うが姉さんは余計なところで頭が回るのであまり情報を与えすぎると魔法の存在にまで勘付きかねないし、ここは戦略的撤退一択だろう。
「月久」
俺が無言のまま横を通り抜けようとしたところ、姉さんはこちらを見もせずに先ほどまでのからかいとは少し違う声音で俺の名を呼んだ。
「あんたが何やってるのかは知らないけど、珍しく浮かれてるみたいだしあんまり調子に乗り過ぎないようにね」
「調子に乗るも何も、そもそも浮かれてないが」
「そう。じゃ、余計なお世話だったかしら」
何やら意味深に忠告してきた割にはあっさりと自分の意見を引っ込めた姉さんはそれ以上何を言うこともなく、黙って自分の部屋へと去っていった。
◇
空はうんざりする程に青く、肌で感じる気温は暦の上では未だ春であるはずなのにいつの間にか暑いと感じる領域へ足を踏み入れていた。
こんな日は涼しい場所に引きこもってゆっくりしたいところだけれど、悲しいかな高校生である俺は体育教師の命令には逆らえず現在は額から流れてきた汗を拭うこともせずグラウンドを走っている。
体育の授業でグラウンドを走らされるのなんて別に珍しいことでもないし、嘆いても仕方ないといえば仕方ないのだけれど。
こういうとき、魔法があれば楽できるのだろうか。
ふとそんなことを考えた俺は半ば無意識にグラウンド横にあるテニスコートへ目を向ける。
すると、そこには持久走という名の無限グラウンド周回を強いられている俺たち男子とは違ってどこか緩い空気でテニスを行う二年四組、及び三組の女子たちの姿があった。
テニス部の連中も体育の授業で本気を出したりはしないので、彼女らの試合が全体的に緩く点を取るというよりはラリーを続けることを重視しているのは何ら不思議ではないけれど。
その中でも、個々人の運動能力によってある程度は差が見えてくる。
例えば、一番手前のコートの右手側に入って試合をしている加賀谷雪奈なんかはわかりやすいだろう。
彼女はテニス部所属だけあって相手がよこしてきた白線をはみ出そうなボールも危なげなく拾い、打ち返すときには相手の近くへボールが飛ぶよう軌道修正している。
そして、加賀谷とは別の方向性で実力を見せつけているのが、彼女たちの隣のコートで鋭いサーブを打ち込み相手に一切の反応を許さず点をもぎ取っている銀髪の女子だ。
いや、マジで何してんだ織間のやつ。
体操服に着替えいつもよりも心なしか活動的に見える織間はまるで精密機械の如くボールに素早く反応し、相手側のコートの隅へとても体育の試合とは思えない球速でボールを打ち込み続けている。
もしも、これが全国大会への切符をかけた決勝戦とかだったなら織間のプレイはさぞ観客を沸かせたことだろう。
だが、現在行われているのは何の変哲もない体育の授業であり、そこでの一方的な蹂躙を見た周囲の女子たちの反応は概ねドン引きの一言で表現できる。
神社で見た織間の挙動を思うと、彼女ならこれくらいできて当然だとは思うけれど。
それをわざわざ体育の授業で披露する意図については一切読めず、別に悪いことをしているわけではないものの些か困惑してしまう。
女子の体育なんて今までまともに見たことはなかったし、学校で織間が運動しているところをきちんと見たのは体育祭のクラス対抗リレーで一位を取っていたときくらいだけど。
もしかして、織間のやつ体育祭とか関係なしに普段の授業からこの調子でやってるのか。
無双する織間を見ながら何ともいえない気分になっていると、唐突に右肩へ僅かな重みが加わり誰かが俺の肩へ手を置いたのがわかった。
「何だ? 今、忙しいから後にして欲しいんだ、けど」
無遠慮に手を置いてきた輩へ声をかける途中に息をのんでしまったので、最後の方は台詞が途切れそうになってしまったけれど。
自分でも、こればかりは仕方のないことだと思う。
なにせ、今俺の目の前には怒りの滲む表情でこちらを見ている体育教師の姿があるのだ。
「白藤、立ち止まって女子の体育を見学とはいい御身分だな?」
「いや、待ってください。違うんです。俺は女子の体操服に変な性癖持ってるわけでも、走るのが面倒くさくてサボってたわけでもないんです。俺はただ、優れた力とそれが生み出す孤独について考察を進めていただけで」
「下らん言い訳してないで、さっさと走れ!」
有無を言わせぬ口調に押されて、俺はすっかり遠くなってしまった他の男子たちの背を追い再びグラウンドを走り出した。