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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第8話 ざわつく言葉①

GW(ゴールデンウィーク)前のある日、ぼくと美佐さんが図書館を出た時、すでに空は柔らかな桃色に染まりかけていた。山の向こうに沈みかけた陽が、建物に長い影を落としている。


 大学構内を二人で並んで歩く。まだ風は冷たさを残しているが、どこか春の匂いがした。


「……夕焼けって、いつも少しだけ、胸が痛くなる」


 隣を歩く美佐さんが、ふとつぶやいた。


「楽しい一日でも、こうやって空が赤くなると、なんか、終わっちゃうんだなって思うからかな」


 ぼくは返す言葉を探して、見つからないまま、空を見上げた。


 雲がうっすらと金色に縁取られ、ちぎれた綿のように浮かんでいる。鳥の声が遠くで聞こえ、キャンパスの静けさが、少しだけ切なく感じられた。


「……金子みすゞの詩に、あったよね」


 美佐さんが続ける。


「『みんなちがって、みんないい』って。あれ、小学生の頃に教科書で読んだんだけど……なんか、大人になって読むと、違うふうに沁みるんだ」


「違うふうに?」


「うん。子どもの頃は、ただ『やさしい詩だな』って思ってた。でも今読むと、あれ、きっと、すごく孤独な人の詩なんじゃないかって思うの。誰ともわかりあえないけど、それでも、それを認めてあげたいって……そんな気持ち」


 美佐さんの言葉に、ぼくは胸が少しざわついた。


 他人に優しくありたいと願う人は、たぶん、それ以上に傷ついてきた人なのかもしれない。


 美佐さんの横顔は、夕日に照らされて淡い朱に染まり、その瞳の奥に、深く沈んだ湖のような影が見えた。


 ぼくは、何も言えなかった。ただ、うなずいた。


 代わりに言葉をくれたのは、春の風だった。髪をふわりと揺らし、美佐さんのスカートの裾を優しくめくる。


「ねえ、佐藤くん」


 不意に、美佐さんが口を開いた。声は控えめで、風の音に紛れそうだった。


「このあいだ、莉子ちゃんが好きって言ってた山田詠美」


「ああ、うん。ぼくも何冊か読んだことがあるよ」


 彼女はうなずいた。けれど、少しだけうつむいたまま、足取りが遅くなる。


「実を言うと私、そういうの……苦手なんだ。言葉が尖ってて、なんか、読んでる自分が痛くなるっていうか」


「うん、それはわかるかも。ぼくも、そんな気がするし」


 美佐さんは、ホッとしたように息をついた。それから、照れくさそうに笑う。


「私ね、金子みすゞの詩の方が好き。子供の頃から、ずっと……優しくて、真っ直ぐで。言葉が、ちゃんと届いてくるの……でも、こういうのって、子供っぽいのかなって思ってた。莉子ちゃんみたいに、尖った言葉を使う作家を読んでる人の話を聞くと、なんだか私だけ幼く感じるっていうか……」


 歩みが止まる。美佐さんは、夕日に染まる歩道の縁に立ち、視線を落とした。


「……私、文学好きって言えるのかな。浅いのかもって、思っちゃう」


 しばらく、沈黙が流れる。


 ぼくは立ち止まり、隣に並ぶ。風が吹くたび、美佐さんの髪が揺れて、その香りがふと鼻先をかすめた。


「金子みすゞの詩、ぼくも好きだよ」


「……ホント?」


「うん。難しい言葉で書くのが文学ってわけじゃない。やさしい言葉で、人の心を動かせる方が、ぼくはすごいと思う」


 美佐さんが顔を上げた。瞳に、夕映えの色が差していた。


「誰かを理解したくて読む人と、誰かに衝撃を受けたくて読む人がいるって、思う。盛本さんは、たぶん前者なんじゃないかな」


 美佐さんの目が、わずかに見開かれる。けれどすぐに、それは優しいまなざしに変わった。


「……ありがとう。なんか、救われた気がする」


 小さくつぶやいたその声は、たしかに震えていた。そして、「届いた」と感じさせるものだった。


「また、図書館、つきあってくれる?」


「……ああ。もちろん」


 その一言の後、ぼくたちはしばらく黙って歩いた。


 だけど、黙っていることが、どうしてか心地よく感じられた。


 大学の正門前まで来ると、美佐さんは足を止めた。


「じゃあ、私こっちだから」


「うん、気をつけて」


 夕日が山の隙間に沈みかけ、空はオレンジから群青へと、ゆっくり色を変えつつあった。


 美佐さんが鞄のストラップを握りしめて、少しだけためらうように言った。


「ねえ、今日……ありがとう。なんか、久しぶりに、素の自分で話せた気がする」


「……ぼくも」


 自然に言葉が口をついた。


 しばらく、沈黙。風が一度、二人の間をすり抜けていく。


 美佐さんが、何かを言いかけて、やめたように見えた。けれど、代わりに微笑んで、小さく手を振る。


「じゃあ、またね」


「ああ。また」


 彼女の後ろ姿が、夕闇に溶けていく。


 その背中を、言葉にはならない思いが追いかけそうになるのを、ぼくは何とか飲み込んだ。


 アパートの自室に戻ると、部屋は少し肌寒かった。


 机の横に鞄を置き、椅子に座り込むと、ふと、さっきの盛本さんの言葉が胸の奥で反響した。


「……素の自分、か」


 ぼくには、「素の自分」なんて、そもそもあるんだろうか。


 父に押しつけられてきた理想像。勉強できることだけが価値だと言われて育った日々。


 その中で、自分が好きなもの、自分らしさなんてものを、いつしかしまい込んできた。


 でも、美佐さんの前では、ほんの少しだけ、それを口に出せた気がする。彼女の優しさを受け取ったことで、初めて「自分の輪郭」が見えかけたような気がした。


 彼女のあの目の奥にあったのは、優しさだけじゃない。たぶん、傷だ。


 深く、静かに、誰にも見せないように隠された傷。だからこそ、彼女の言葉は真っ直ぐに胸に届く。


 傷を知ってる人間だけが持つ、優しさがあるのだと思った。


 スマホを取り出して、LINEを開く。美佐さんとのやりとりが表示されている。


 まだ短いやりとりしかない画面が、なぜかとても愛おしく思えた。


 打ちかけた文字を何度も消して、結局こう送った。


 「今日の夕焼け、すごく綺麗だったね。また一緒に見たい」


 数秒して、既読がつく。すぐに返信が来た。


 「うん、私も。きっと、あの空の色、忘れない」


 小さく、息をついた。


 あの空を覚えている限り、今日のこの気持ちを、ぼくは忘れないだろうと思った。

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