第7話 彼女の声、彼女の影④
そこに、カラン、とドアベルの音が鳴った。
「おぉぉ、いたいたっ!」
明るい声が響く。小林莉子だった。セミロングの茶髪が陽の光に揺れている。目尻が少し上がった、どこか野生の動物っぽい目元。だけど今日は、ほんの少しだけ、それが柔らかく見えた。
「うわ、二人で内緒話? もしかしてデートですかぁ?」
「ち、ちが……たまたま、講義が一緒で……」
ぼくは慌てて答える。莉子はニヤニヤしながら、美佐さんの隣の椅子を引いて座った。
「でもさ、佐藤くんって、女の子に翻弄されるタイプだよねぇぇっ。うん、絶対そう。あたし、見ててわかるもん」
「翻弄って……」
「だいたいさぁ、好きな作家でその人の性格ってわかりそう。佐藤くん、村上春樹が好きって言ってたよね?」
「う、うん……」
ぼくがたじたじになっているのを見て、美佐さんがクスッと笑う。
「村上春樹の主人公の男の子たちって、基本的に受け身じゃん。で、なんか不思議な女の子に出会って、引きずられて、最後は自分を見失っちゃう」
莉子は指でテーブルの上をなぞりながら言った。
「『ノルウェイの森』でもさ、直子とか緑とか、魅力的だけど、どこか壊れてる。でも、男の子はそれに惹かれちゃう。で、どんどん沼に沈んでく感じ。破滅型ロマンスっていうの? あれ、わかる気するんだよね」
「でも……あれって、単に男の弱さなんじゃ……」
ぼくが思わず言うと、莉子はニヤリと笑った。
「そうとも言える。でも、山田詠美になると、もっと攻撃的。『風葬の教室』とか、女の子がメチャクチャ魅力的で残酷なの。もう、恋じゃなくて狩りって感じ」
莉子の口調には、どこか快楽的な熱が混じっていた。
「男の子は、優しいとか真面目とか、そういうのがむしろ仇になる。彼女たちの刃に気づけないまま、ズタズタにされて終わるの。でも、読んでるこっちはどこかで憧れてる」
「莉子ちゃんは、そういう女の子になりたいの?」
美佐さんが、少し意地悪そうに笑った。
「んんん、どうだろ。あたし、そういうのがカッコいいと思ってた時期はあるよ。でも、実際に男を壊したら、たぶん自分も壊れるから」
莉子はそう言って、ストローをクルクルと回した。沈黙がひとしきり続いた。
ぼくはふと思う。自分は誰に引き寄せられているんだろう、と。破滅に導くような強烈な女の子? それとも、静かに隣にいてくれる、柔らかな人?
カフェの窓の向こう、木立の向こうに春の光が差していた。まるで、誰かの瞳の奥の、見えない感情のように揺れていた。
「山田詠美の小説ってさ……何ていうか、恋が戦争みたいに描かれるでしょ」
莉子は、ストローでアイスカフェオレをひと混ぜしてから、ポツリとつぶやいた。
「たとえば『ベッドタイムアイズ』とか。あれなんか、男がもう、完全に女の子の中毒になっちゃってさ。女の子は最初から全然、救う気なんかないのよ。むしろ、恋っていう名の毒でゆっくり殺してくって感じ」
「それって……ほんとに恋、なのかな?」
ぼくは、思わず訊いていた。
莉子は、フッと笑った。
「それ、前に同じこと言われたことある」
「え?」
「高校の時さ。好きだった人がいたの。ちょっと大人びてて、全然、心を開いてくれない人だったけど、どうしても放っとけなかった。で、あたし、結構グイグイ行ったんだよね」
「その人とは……」
「ううん、実らなかった。ある日、突然いなくなっちゃったの。家族ごと。後から聞いた。一家心中だったって」
空気が一瞬、冷えた気がした。さっきまでの軽やかさが、彼女の言葉の後ろに重く沈んでいく。
「だから、山田詠美の作品、すごく響いたの。あの人の書く『女』ってさ、ただの恋愛の相手じゃない。生きることそのものなんだよ。強くて、美しいけど、どこか哀しくて破滅的」
莉子はそれ以上言わず、視線をカフェの奥に投げた。遠くのテーブルで、数人の学生が何かを議論していた。誰かが笑う声が、小さく聞こえた。
「莉子ちゃん……」
美佐さんが静かに声をかける。
「うん、平気。あたし、もうちゃんと、日常に戻ってきてるし」
莉子はにっこり笑った。でも、その笑顔の奥に、少しだけ、昔の影が見えた気がした。
「だからさ、佐藤くん。女の子には気をつけた方がいいよ。恋は甘いだけじゃなくて、時に自分の輪郭を壊すほど、強烈なこともあるから」
「そんなこと、言われても……」
ぼくは言いかけて、ふと、美佐さんの横顔を見た。静かに、真剣に、莉子の話を聞いていた。でも、どこかはかなげな表情。
――ぼくは今、どちらの物語にいるんだろう?
山田詠美の小説に出てくるような、刃のような女に引きずられる話? それとも、もっと静かで、だけど確かな温度のある物語?
気づけば、陽は傾き始めていた。窓の外の木々が、春風に揺れていた。何かが始まろうとしている気配だけが、静かに、ぼくたちの間を流れていた。
無題・小林莉子のノートより
ねえ、あなたはもう
忘れてしまったかな
あたしはまだ、
あなたが黙っていたことばかり
考えてしまう
ひざを抱えて笑ってたくせに
心は冬みたいに
かたくて、あかくて
さわれなかった
好きだったのか、
ただ守りたかったのか、
いまでもわからないけど
ねえ、
あたしのどこまでが
あたしで
あたしのどこまでが
あなたの抜け殻なのかな
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