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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第6話 彼女の声、彼女の影③

 新歓期間も束の間、大学の授業が始まった。


 この日の3講目、すなわち午後1時からの授業。教室の窓から差し込む光が、窓際の机の上を淡く照らしていた。


「やっぱりこの授業、取ってたんだね」


 席に着こうとしたぼくは、声をかけられた。振り向くと、盛本さんが立っていた。


「あれっ、盛本さん。どうして?」


 この授業は国文学科1年の選択必修科目と思ったが……。


「私、2年生から学校教育学科の国語系になったから、この講義取ったんだよ」


 聞けば、盛本さんの所属する学校教育学科は2年生から「系」選択というカリキュラムが組まれており、各自がそれぞれ選択した分野の科目を履修するのだという。


 そう言いながら、盛本さんはぼくの隣の席に座った。


 教室の空気が、急に違って感じる。いや、ぼくの体温が勝手に上がっただけかもしれないけど。


 ――まさか、同じ講義を受けることになるなんて……。


 ぼくは嬉しい気持ちを顔に出さないよう必死だった。


 一方、盛本さんは素直に「嬉しい」と口にした。


「嬉しいな。隣、いい?」


 彼女はふわりと笑って、ぼくの返事を待つまでもなく、ぼくの隣に腰を下ろした。


 教室にはざわめきが漂っている。学生たちはそれぞれのテキストを開き、ノートの準備をしている。


「この先生、わりと語り口が柔らかいの。あと、時々文学作品の抜粋を朗読してくれるって」


 盛本さんが誰かから仕入れてきたのであろう授業の情報をぼくにささやいた。


「でも、試験はそれなりに厳しいらしいよ」


「へえ……」


 講義が始まると、教壇に立った教授は、低く穏やかな声で話し始めた。講義名は『国文学史』なのだが、内容は「近代文学史」である。


 細身の体にくたびれたジャケットを羽織った、いかにも「元・文学青年」といった観のある教授は、ノートも見ずにゆっくりと口を開いた。


「――皆さん、ようこそ。今日からこの『近代文学史』の講義を担当します、(さかき)です」


 そう言うと、彼は前のホワイトボードに黒色の水性ペンで大きく二つの言葉を書いた。


 「近世文学」


 「近代文学」


「さて、これが本日のテーマです。似ているようで、まったく違うものです」


 彼はゆっくりと歩きながら語り出す。


「近世文学。つまり江戸時代。ここでは『文学』とは何だったか。それは、階層ごとに消費される『娯楽』でした。たとえば洒落本(しゃれぼん)黄表紙(きびょうし)浮世草子(うきよぞうし)、そして歌舞伎(かぶき)。商人町人の教養、あるいは慰みとして、ある程度型にはまり、ある程度『読まれる』ことを想定した作品たちです」


 学生たちがノートを取り始める。教授は手を組んで、教壇に立ち止まる。


「一方、近代文学。明治以降の文学はどう変わったか? そこには、『個人』の登場があります」


 彼はもう一度、ホワイトボードに水性ペンを走らせる。


 「個人 × 文学」


「たとえば二葉亭四迷。言文一致体で、恋愛や孤独といった『内面』を描こうとした。あるいは森鷗外、夏目漱石。彼らは、『自己』とは何かを、真剣に問いながら書いた。近世文学が『社会のため』に書かれていたのに対し、近代文学は『自己のため』、そして『自己をさらけ出す』ために書かれるようになる」


 教室が静まり返る。


 教授の声が淡々と続く。


「私たちが『文学』という言葉にこめている重み、それはこの近代以降の文学が背負ってきたものです。今日から私たちは、その重みの始まり――つまり『文学とは何か』が問い直された時代をたどっていきます」


 そう言うと、教授はホワイトボードにこう書いた。


 「文学は、『自分を知る』ための鏡である」


「では、今日の本題に入りましょう。テキストの第1章、言文一致体の誕生と『浮雲』の衝撃から――」


 ふと隣を見ると、美佐さんが一心にノートをとっていた。ペン先が紙の上をすべる音だけが、微かに耳に届く。


 その真剣な横顔に、ぼくは目を離せなかった。


 盛本さんはペンを取る手を止めると、ぼくのノートをちらりと覗いてきた。


「……ねぇ、佐藤くんって、字綺麗だね。悪いけど、なんか意外」


「えっ、そっ、そう?」


 なんなんだ、このやり取り。高校の時だったら、確実に勘違いしそうな距離感。いや、ぼくは男子校だったから本当のところはわからないが。


 ――一緒の授業って、悪くないな。


 90分の講義が終わると、学生たちはゾロゾロと教室を出ていく。


 ぼくと盛本さんも、ゆっくりと席を立った。


「……ねえ、ちょっとだけ時間ある?」


 廊下に出たところで、彼女が言った。


「え、うん。大丈夫だけど……」


「せっかくだから、ちょっとカフェに寄ってかない?」


 彼女はそう言って、外へ続く階段の方を指さした。


 構内にあるカフェに入ると、窓際の席がちょうど空いていて、ぼくは美佐さんと向かい合わせに腰を下ろす。


 春の光がガラス越しに差し込み、テーブルの上に二人分のコーヒーと、シナモンの香る焼き菓子が置かれていた。


「近代文学史、面白かったね」


 カップを両手で包むように持ちながら、美佐さんが言った。


「うん……思ってたよりずっと」


 ぼくはぎこちなく相槌を打つ。言葉を探しながら、スプーンで泡をすくった。


「『個人が文学を書くようになった』っていう話、印象に残ってる」


「うん。文学って、誰かの『内側』を読ませてもらってるんだなって、改めて思ったよね」


 美佐さんの声は、ふわりと柔らかく、でも芯がある。


 ぼくは思わず尋ねた。


「美佐さんは、どうして国語系を選択したの?」


 すると、美佐さんは少しだけ目を伏せてから、また笑った。


「言葉って、怖いけど、でも救いにもなるじゃない? 私、昔すごく本に助けられたことがあって……それで、ちゃんと学びたかったの」


「……助けられた?」


「うん。内容というより、読んでる時間そのものに。現実を忘れられるっていうか……」


 彼女はそこまで言って、話題を変えるように小さく息をついた。


「佐藤くんは? どうして国文学科を選んだの?」


 少し戸惑ってから、ぼくは言った。


「……逃げ場、だったのかもしれない」


「逃げ場?」


「高校の頃、勉強ばっかりさせられて。でもそれでも思ったように成績上がらなくて。何のためにやってたのかも、よくわからなくなって。父に強制されるように勉強してて……だけど、本を読むのは好きでした。感想は一つじゃないというか」


「わかるかも。自分の感想は自分で考えるしかないもんね」


「うん」


 それきり、少しの沈黙。けれど、嫌な沈黙じゃなかった。


 窓の外では、歩いていく学生たちが楽しそうに笑っていた。


 春の風がカフェのドアを押し、やわらかく店内に吹き込む。


「……さっきの教授の言葉、よかったな」


「『文学は、自分を知るための鏡である』ですか?」


「うん。それ、今の私たちにすごくぴったりな気がする」


 ――私たち? ぼくと、美佐さん?


 ぼくは思わずうなずいた。


 たぶん、彼女も『自分を知ろうとしてる』んだ。ぼくと同じように。


 カップの底に残ったコーヒーが、ほんの少し、温かかった。

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