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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第5話 彼女の声、彼女の影②

 莉子は隣で、「ふぅぅん」と興味深そうに、ぼくの横顔を見ていた。


「いいじゃん、そういうの。佐藤くん、けっこうエモいとこあるんだね」


 軽口のようでいて、妙に距離を詰めてくる声。


「じゃあ最後の方、お願いします」


 鈴木さんの柔らかい声にうながされ、莉子は「はい」とうなずいた。少しだけ真面目な顔をして前を向く。


「小林莉子です。佐藤くんと同じ、国文学科の1年です。出身は東京で、高校はまあ……都立の普通のとこです」


 少し間を置いてから、彼女は続けた。


「好きな作家は、山田(やまだ)詠美(えいみ)です。あの人の作品は痛みを伴うテーマが多いけど……言葉が身体感覚に近いっていうか、読んでると息が止まる瞬間があるんです」


 部室が少し静かになる。そんな中、3年生の田中さんが大きな身体に似合わない小さな声で言った。


「山田詠美は、言葉が生き物のように動くよね。感情に寄り添うというより、感情そのものをかたちにしてるような……」


 莉子の目がパッと輝いた。


「わかります! 最初は、何かエロいこと書いてあるってだけでドキドキしてました。でも、読めば読むほど、ただの恋とかじゃない、ってわかったんです。身体の話に見えて、本当は、誰かにちゃんと見てほしいって叫んでる感じ。山田詠美の小説って、そういう寂しさに正直で、嘘が無い。私、それが好きなんです!」


「なるほど。寂しさに正直で嘘が無い、か。小林さんの観点、面白いね……」


 田中さんに「面白い」と言われて、莉子は口元をほころばせた。


「ありがとうございます……でも私、面白いだけの女じゃありませんよぉ」


 一瞬、部室に笑いが起きた。場の空気をほどよくほぐすその一言に、莉子の「ただ明るいだけじゃない」部分が垣間見えた。


 ぼくはただ、目の前で交わされるそのやりとちに気おされながらも、「大学のサークルって、こういうのもありなんだな」と、少しづつ肩の力が抜けていくのを感じていた。


「いや、うん……なんか、話してて楽しいメンバーが増えそうだなあ」


と、鈴木さんは上機嫌だった。


 それから鈴木さんは、


「じゃあ、今日の活動は、短いフリーライティングから始めよう。テーマは『春』で。じゃあ、10分で書いてみようか。感じたままに、自由に。きみたちも、やってみる?」


と、ぼくたちにも提案した。


「もちろんです」


 ぼくがためらうより前に、莉子が答えていた。


 紙とペンが配られ、ぼくたちは各々、静かに文字を書き始めた。


 隣を見ると、莉子はやたらとペンの動きが速い。意外に文才があるのか? あるいは、何かを勢いでぶつけているのか。


 ぼくは……うまく言葉が出てこなかった。でも、ふと――「あの時の盛本さんの声」が、頭をよぎった。


 ――きっと、きみにも素敵な何かが待ってるよ。


 ぼくは、ペンを動かし始めた。


 10分後。

 

「じゃあ、書けた人から、読んでみようか」


 鈴木さんの声に、少し空気がざわめく。みんなが静かにうなずいた。


「ええと……盛本さんから、お願いできる?」


「はい」


 盛本さんは、静かに紙を持ち上げた。




『春の影』


春が来ると、わたしの中の影が、そっと目を覚ます。


花が咲き、風がやわらかくなるたびに、あの頃の声が、耳の奥に戻ってくる。


それでも私は、笑って歩く。新しい誰かの前では、もう痛みを見せない。


でも、心の片隅で、小さな声がこうつぶやく。


「忘れないで。わたしはここにいるよ」




 しん、と静まり返る部室の空気。


 鈴木さんが、


「……詩のようだね」


と、柔らかい口調で言った。


 誰も冗談を挟まなかった。言葉にできない何かが、そこにあった。


 ぼくはただ、彼女の横顔を見つめていた。どこまでも静かで、でも確かに深いものを抱えているようなその表情に、目が離せなかった。


「じゃあ……次、誰かいる?」


「はい、じゃあ、あたし」


 莉子が、勢いよく手を挙げた。




   『春の仮面』


 春は、全部を隠してくれる。


 うまく笑えるようになったのも、嘘をつくのが得意になったのも、春のせい。


 みんなが浮かれている季節は、誰も私の「本当」なんて気にしない。


 今日もまた、私は新しい仮面をかぶる。


 「明るい女の子」の仮面を。


 でも。


 たまに思うの。


 誰か、私の目をちゃんと見てくれないかな、って。




 一瞬、静寂が落ちた。盛本さんが、そっと目を伏せたのが見えた。


 鈴木さんが、


「それって……自分のこと?」


とつぶやくと、莉子は肩をすくめて笑った。


「ごめんなさい、ちょっと病んでる感じしますよね? あたしはもうちょい元気な人なんだけど」


「いや、リアルだよ」


と、誰かがポツリと言った。


 莉子はそれに対しては、曖昧な笑顔を浮かべたままだった。


 そして最後にぼくの番が来た。緊張しながらも、ぼくはゆっくり紙を手に取った。




   『春を知らない』


 小さい頃、春は好きじゃなかった。


 入学式も、桜も、笑っている友達も、全部、自分には関係ないものだった。


 でも、今年の春、初めて「声」をもらった。


 名前を呼ばれて、返事をした。


 それは小さな光のようで、少しずつ心の奥を溶かしていくようだった。


 まだ完全にはわからない。


 でも、ここにいてもいいのかもしれない、と思えた。


 春は、まだ知らないけれど、


 少しずつ歩いてみる。




 読み終えた瞬間、自分の鼓動がドクドクと鳴っているのがわかった。


 盛本さんが優しく微笑みを浮かべて言った。


「いい詩だったよ。佐藤くんも、ここで少しずつ自分の言葉を見つけていけたらいいね」


 鈴木さんもうなずき、


「それぞれの春があっていい。無理せず、気負わずに、ね」


と、言った。


 莉子が隣でクスッと笑い、


「佐藤くん、意外とエモいじゃん。これからが楽しみだね」


 ぼくは照れくさくて、でも少しだけ嬉しくて、ただ黙ってうなずいた。


 こうして、ぼくたちの最初の「ことばの交差点」は、ゆっくりと始まった。


 それぞれの「春」は、違う意味を持っていたけれど。


 たった10分で、それを浮かび上がらせてくれた。


 その後も会は進んだ。その最中も、莉子はやけにぼくに話しかけてきた。


 サークルの雰囲気は思っていた以上に温かく、くだけていた。


 みんなで集まるのは週1回、毎週木曜日。その時には、みんなで作品を決めて読書会をしたり、自分の創作作品を発表したり、好きな作品を紹介したりするらしい。


 一つ言えるのは、みんな「ことば」を大切にしているということだ。


 この場所でなら――少しずつでも、何かが変われる気がした。


 会が終わると、莉子がまたぼくに話しかけてきた。


「ねぇ、佐藤くん、下宿どこ? 一緒に帰らない?」


「えっ? ああ、うん……」


 断れなかった。


「佐藤くんって、なんか不器用そうで、でも真面目って感じするよね」


「え?」


「あたし、そういう人、嫌いじゃないよ」


 またニコッと笑ったその横顔に、ぼくは言葉を詰まらせた。

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