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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第39話 物語が届くとき③

 午後9時すぎ、学祭の打ち上げは、お開きになった。


「じゃあね」


「またな」


 みんな三々五々、下宿へ帰っていく。


 ぼくと美佐さんは、下宿へ帰る途中まで並んで歩く。


「……なんだか、夢みたいだったね」


「うん。でも、ちゃんと形になった。書いて、誰かに読んでもらって……すごいことだよね」


「これからも、書く?」


「もちろん。今度はもっと自信持って」


 静かな夜道に、二人の足音と笑い声が重なっていく。


 その時。


 ぼくは、スマホに届いていた一通のメールに気がついた。


「……え?」


 何度も読み返す。


 送信元は、とある文芸雑誌の新人賞事務局。


 そしてそこには、こう書かれていた。


――『風の裂け目に咲く』 第23回若草文学新人賞 佳作として選出されました。


 心臓が跳ねた。


 指先が震え、足元が浮つくような感覚。


 思わずスマホを見たまま、そこに立ち尽くした。


「……やった……」


 小さく呟いた声が、秋風にかき消された。ぼくはスマホを美佐さんに示す。


「えっ……佳作? それ、本当に……?」


 美佐さんは目を見開いた。


「うん。雑誌にも掲載されるって……たくさんの人に読まれると思う」


 この物語は、美佐さんの過去をベースにしている。


 もちろんフィクションにしてあるが、その痛みは、紛れもなく「彼女の記憶」から生まれたものだ。もちろん、投稿の許可は取ってあったが、掲載されるとなると美佐さんはどう思うだろうか?


「……嬉しい」


 美佐さんの声は、震えていた。


 でも、それは恐れではなかった。涙ぐんだ瞳の奥に、確かな光があった。


「誰にも知られたくなかったはずの過去を、悠真くんが『ことば』にしてくれたことで、私、自分のことを初めて――生きててよかったって、思えたの」


 ぼくは、彼女のその言葉を胸に刻んだ。


「ありがとう、美佐さん……美佐さんが、ぼくに書かせてくれたから」


 数週間後、文芸誌の誌面にぼくの作品『風の裂け目に咲く』が掲載された。


 感想がSNSに次々と投稿され、ある読者はこうつぶやいた。


「読んでいて胸が痛くなった。でも、最後に救いがあった。こんな静かな強さを描ける作家がいるなんて……」


 編集部には感想の手紙も届き、中には「自分も似た体験をした」という読者からの、長い手紙もあった。


 ――ぼくの物語は、届いた。


 静かに、だが確実に、誰かの心を打った。




 初冬の澄んだ空に、冷たい朝の光が差し込んでいた。


 授賞式の日――少し早起きしたぼくは、久しぶりにアイロンをあてたシャツに袖を通す。白いシャツにネイビーのジャケット。下宿を出る時、鏡の前でネクタイを締める手が、少し震えていた。


 大学前駅で美佐さんを待つ。


「悠真くん、緊張してる?」


 背後から声がした。振り返ると、美佐さんが少し照れたように、でも真っ直ぐな瞳で立っていた。


「……うん、少しだけ」


 美佐さんはいつもより大人びた格好をしていた。ベージュのワンピースに、襟元に小さなブローチ。肩までの髪は軽く巻かれていて、彼女なりに気合いを入れてくれたのがわかる。


「でも、かっこいいよ。悠真くん」


 不意に言われて、顔が熱くなる。


 美佐さんは小さく笑って、手にしていた紙袋を差し出した。


「お守り、持ってきた。こないだ学童の子たちが作ってくれたやつ。覚えてる?」


 懐かしさと嬉しさが胸に広がる。折り紙で作った星型の飾りに、「がんばってね」と拙い字で書いてある。


「ありがとう……行こうか」


 美佐さんの手がふと触れた時、ぼくは彼女の指先が冷えていることに気がついた。


 そっと、ぼくは手を重ねる。彼女は少し驚いたようにみえたけど、すぐに微笑んで、キュッと指を絡めてきた。


 今日という日は、きっと特別な一日になる。


 そう思えるのは、彼女が隣にいるからだ。


 都内のホテルで授賞式は開かれた。


 舞台の上、緊張した表情のまま、ぼくはマイクの前に立つ。


「この物語は、ある一人の女性との出会いがなければ、生まれませんでした。彼女が生きてきた道のりを、私は、物語にするという形で引き受けようと思いました。そして、ようやく今、文学を選んでよかったと、心から言えます」


 会場の一角で、美佐さんが小さくうなずいた。


 彼女は静かに、でも誇らしげに、ぼくを見守ってくれていた。




 ここからは美佐さんから後で聞いた話になる。


 お手洗いに立った美佐さんがホールに戻ろうとしたその時だった。


「……きみ……久しぶりだな」


 低く、聞き覚えのある声が耳に届いた。


 美佐さんは立ち止まり、ゆっくり振り向いた。


 やはり――。


「……悠真くんのお父さん」


 彼女の声は落ち着いていた。けれど、視線の奥には確かな警戒が浮かんでいた。


「今日は、こんなところで……どうなさるおつもりですか?」


 父は一瞬、口をつぐんだ。


「……ああ。そう警戒しないでくれ」


 静かに笑ったその表情には、しかしどこか影が差しているようだったという。


「でも、今日はどうしても……あいつの晴れ姿を、この目で見たくなった。あれから、ずっと考えてきた。おれは、あいつを……『子供』としてじゃなく、『死んだ長男の身代わり』『T大に向かう機械』として見ていたんだと」


「……それに、ようやく気づかれたんですね」


 美佐さんの言葉に、棘は無かった。ただ事実を述べただけの、冷静な口調だった。


 父は目を伏せてうなずく。


 「自分の手で、関係を壊してしまった人間が、取り戻すことなんてできると思ってはいない……でも、せめて、『ありがとう』とだけは言いたかった。きみに」


「私に?」


「……あいつが崩れなかったのは、きみがそばにいてくれたからだ。正直、羨ましいとも思った。あいつに寄り添って、理解しようとしてくれる人が、いたんだからな」


 美佐さんは小さく息をついた。


「……伝えておきます。来ていたことも、ありがとうの言葉も」


「いや、それはいい。私がいたことは言わなくていい……」


「そんなの、お父さんが決めることじゃありませんよ」


 ふと、美佐は言葉を添えた。


「――それに、今日お父さんが来てくれた。それだけで、少しは変わったと思います」


 父は、驚いたように美佐さんを見た。


 そして、かすかに目を細めた。


「……ありがとう。やっぱり、きみは……すごいな」


 美佐さんは何も答えず、会釈をして会場へと戻っていった。


 背後で、父の足音が遠ざかっていく気配がした。

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