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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第3話 居場所のない場所で③

 講義室の隅の座席から立ち上がろうとしていたぼくに、さっき同じグループにいた女子の一人が話しかけてきた。


「ええっと……きみは……?」


――ごめん、名前が出てこない。


小林(こばやし)莉子(りこ)です」


 彼女はぼくが自分の名前を覚えていなかったからか、不満げにプゥと頬を膨らませ気味にして再び名を名乗ったが顔は笑っており、その仕草がとても可愛らしかった。


――女の子の仕草って、かわいいんだなぁ。


 女の子に接し慣れていない男子校育ちのぼくは、思わず見入ってしまった。


 少しクセのある茶色っぽい長い髪が、彼女の着ているスーツの肩に軽やかに落ちて、妖艶とも言える雰囲気を醸し出していた。


 入学式前に出会った盛本さんがタヌキ顔だとすると、小林さんは典型的なキツネ顔だ。どこか遠くを見ているような、知恵を持ったキツネとでも言おうか。しかし、どこか無邪気な面も覗かせる。その微かな笑みが、ぼくの心に直接触れてきたような感覚を覚えた。少し吊り上がっている目が、キラキラしている。


「ねえ、佐藤くん、東京出身って言ってたよね。出身校どこ?」


と、彼女は興味津々な様子で聞いてきた。何気ない質問。初対面の会話でよくある、ただのきっかけ。でも、ぼくの心には、刃物のように刺さった。


「N学院」


 そう、ぼくはぶっきらぼうに答えた。目をそらし、できるだけ短く、そっけなく。自分でも、あからさまに感じ悪かったと思う。


 でも、それ以上は言いたくなかった。


 その時、高校時代のいくつもの場面が頭の中で再生されていた。


 ぼくの高校時代は、はっきり言って、地味だった。


 いや、地味というより──存在感がなかった。


 成績は中の下。東大、京大、国立大学医学部を第一志望にして当然、といった校内の雰囲気の中で、ぼくは完全に埋もれていた。


 どれだけ頑張っても、校内順位は上がらなかった。数学も英語も、参考書を何冊やっても伸び悩んだ。模試の偏差値は50台をうろうろ。


 スクールカーストなんてくだらないと思っていたけど、それでも、ぼくが「三軍」だってことは、自分でもわかっていた。


 修学旅行も、文化祭も、記憶に残っているのは「輪に入れなかった」という感覚だけだ。写真を撮ってもらうような友達はいなかったし、LINEのグループも、必要最低限のものにしか入っていなかった。


 そんな過去を思い出すたび、胸の奥がキュッと締めつけられる。あれは、思い出したくもない「何の思い出も無かった3年間」だった。


「わぁ、すごいっ、N学院なんだ! あたしでも知ってるよ、あそこは……」


 そんなぼくの気持ちを知るわけもなく、莉子はあっけらかんと笑って言った。ぼくの態度を気にしている様子はない。むしろ、ぼくの素っ気ない反応を面白がっているようにさえ見えた。


 そして続けた。


「東大合格者数が毎年全国ベスト10に入るようなエリート校じゃん」


 その言葉に、ぼくは思わず顔が熱くなる。なんだか、


 ――なのに、どうしてこんな地方の小さな公立大学へ来たの?


と、言われているようにも思えたからだ。


 しかし、実際にそんなことを言われたわけではない。むしろ彼女は、


「私、都立富士見(ふじみ)高校の出身なの。ここには同じ高校の子なんていないし、そもそも東京出身者は意外と少ないから……これから、よろしくね!」


と言いながら、ぼくに笑いかけてきた。ぼくも愛想笑いで返した。正直、「都立富士見」といわれても、ピンとこない。ぼくはそれ以上、何も言わなかった。


 すでに教室にいる新入生たちは、高校の延長線上のように自然に群れ始めていた。しかし、ぼくはそこに入り込むつもりは無い。


 ぼくはキャンパスの片隅で、これからできるだけ目立たないように過ごそうと思っていたからだ。


 ぼくは彼女とろくに挨拶もせずに、講義棟からそそくさと一人で外に出た。


 構内にはまだ人が多かった。


 サークルの立て看やポスターが並び、色とりどりの学生たちが、楽しげにパンフレットを配っていた。


「何かに入らなきゃ、ぼっちになっちまうぞ」


と、ぼくの後ろを歩いていた男子が友人らしき相手にぼやいていた。


 ぼくは構わない――今までもう、十分すぎるほど孤立していたから。


 オレは少しだけ目を伏せて通路を歩きながら、一人でアパートへ帰ろうとしていた。


 ところがその途端、ぼくは偶然またあの二年生の新歓委員の女の子――盛本美佐さん――に出会ったのである。


「あれ……?」


 偶然というには、あまりに自然な再会で、ぼくは少し驚いた。


「……あっ、きみ、朝に会ったよね?」


 しかも彼女の方からぼくの名前を確認するように声をかけてきた。


「佐藤くん、だっけ?」


 ぼくは自分の名前が彼女に覚えられているというだけで、不思議と嬉しかった。


「はい。えっと……盛本さん、ですよね?」


 緊張で少し声が裏返ったのを、ぼくは密かに後悔する。


 しかし彼女は、別にそれを気に留めることもなかったようで、


「うん。よかった、覚えててくれて」


と言って、小さく笑った。その笑顔は、意外なくらい無防備で、ぼくは少しだけ戸惑った。


 ぼくのすぐそばでボブカットの髪が揺れるたびに、ほんのりといい香りが風に混じる。


「私、新歓委員なんだ。よかったら、明日からの新歓イベントも来てね!」


 そう言って、彼女は綺麗にカラー印刷されたパンフレットを差し出してきた。


 白くて細い指がぼくの指に触れた瞬間、なんだか心臓が跳ねた気がした。


「絶対、楽しいから。ね?」


 その笑顔に、不覚にもぼくはまたうなずいてしまった。


「それと……あの、よかったら、これも見てくれる?」


 サークルのビラのようだ。


 受け取りながら、ぼくは思わず尋ねる。


「……何のサークルですか?」


 彼女は微笑みながら答えた。


「文芸サークル『(こと)()』っていうの。小説とか、詩とか……そういうのが好きな人たちの集まり」


 ――—文芸か……。


 ぼくの胸の奥で、何かが微かに動いた。


 浪人時代、自分でも諦めかけていた「好きなもの」。


 それを、あまりに自然に差し出されたような気がして、ぼくは戸惑った。


 ビラは手作りだった。手描きの文字、季節の短詩。飾らない、けれど丁寧な言葉たち。


「見学だけでも、大丈夫だから」


 何も答えられずに受け取ったぼくに向かって、彼女は優しく言った。


 夕方、アパートに戻ったぼくは、ビラを机の上に置いて、ずっと眺めていた。


 春はこの町にも、確実に来ている。でも、部屋の窓から見える山の上にはまだ雪が残っていた。


 ぼくの中にも、まだ溶けきらないものがある。


 ふと、彼女の声が脳裏に蘇った。


 ――—きっと、きみにも素敵な何かが待ってるよ。


 ――—絶対、楽しいから。ね?


 ――—あの、よかったら、これも見てくれる?


 彼女の声を、もう一度聞いてみたいと思った。


「文芸サークル『言の葉』か……」


 ぼくはもう一度、机の上に置いたビラに目を落とした。




   山肌の雪     盛本美佐


 笑うには少し、冷たい午後でした。


 でも、あなたの声が


 わたしを春に変えてしまいそうで


 黙っていました。

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