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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第37話 物語が届くとき①

 夏休みが終わり、キャンパスにまた日常のざわめきが戻ってきた。秋の気配がほんのわずかに差し込み、夜風には夏とは違う静けさが混じる。


 バイトもまた夏休み前と同じように始まった。


 「おかえり、美佐ちゃん! 久しぶりぃぃい!」


 ぼくたちが学童の部屋に足を踏み入れた瞬間、小学生たちが一斉に美佐さんのもとに駆け寄った。


 肩にしがみついてくる子、笑いながらジャンプする子。わちゃわちゃとした喧騒が、心地よく耳をくすぐる。


 「うん、ただいま。みんな、元気だった?」


 「たっだいまぁ! じゃないしっ!」


 「せんせぇ、いない間に、あたし、逆上がりできるようになったよ!」


 「おおっ、それはすごいね! 見せて、見せて!」


 まるでなにも変わっていない日常。けれど、戻ってきた美佐さんの心の中は強く、軽くなっていた。


 ぼくは塾の職員室で、今日の授業プリントに目を通していた。


「お、戻ってきたな、旅人くん」


 鈴木さんがニヤニヤしながら声をかけてきた。鈴木さんには、夏休み中に美佐さんの故郷まで出かけたことは言ってある。


「ちゃんとお土産話、期待してるぞ。いや、実話ベースで小説一本書けそうだな。『誰も知らない二人の九州旅行編』」


「……変なタイトルにしないでよ」


 苦笑しながら答えつつも、ぼくの表情には、以前よりも少し余裕があったことだろう。


 あの夏の体験は、ぼくにとっても自分自身と向き合う機会だった。


 週末の図書館では、再び読み聞かせの時間が始まっていた。


 「今日の絵本はね、ちょっと特別なんだ」


 美佐さんが手に取ったのは、小さな女の子が遠い町から帰ってくる物語だった。


 過去のトラウマや悲しみを超えて、自分の居場所を見つける――そんな話。


 美佐さんは読みながら、ときおり視線を上げてぼくの方を見る。


 もう、過去は彼女の背中を押さえつけない。


 読み聞かせが終わった後、ぼくたちは図書館の裏手にある小さな公園で、並んで座った。


「……なんだか、世界がちょっとだけ違って見える気がする」


「うん。前より、ちょっと明るいかも」


 まだ暑さは残っていたけれど、夕方の風には、かすかな秋の匂いが混じっていた。


 ぼくたちは、何でもないような話をしながら、ゆっくりとベンチを立った。


 日常は、少しずつでも、確実に前へ進んでいる。




 実はぼくは美佐さんと鹿屋へ出向いたことを小説――いや、私小説と呼ぶべきかもしれない――に書いていた。


 鹿屋へ向かう飛行機の中で、美佐さんがポツリポツリと語ったこと。


 潮の匂いのする商店街、黙ったままの母親、あの特攻隊の記憶が残る街の空気。


 そして、春の樹海へ向かっていたという、あの夜のこと。


 書きながら、何度も手が止まった。


 勝手に言葉にしてよかったのか、自問し続けた。


 でも、書かずにはいられなかった。


 自分が見たこと、感じたこと、そして何よりも、美佐さんが「生きて、戻ってきた」ことを。


 九月のある日の放課後、空が茜に染まり始めた頃。


 ぼくは部室で二人きりになった時を見計らって言った。


「これ……読んでほしいんだ」


 ぼくはA4サイズに印刷された原稿用紙の束を、美佐さんの前に差し出した。表紙には何のタイトルも、名前も書いていない。ただ、無言の重みだけがそこにあった。


 美佐さんは一瞬、目を瞬かせる。けれど何も言わずにそれを受け取り、ページをめくり始めた。


 ぼくはその間、黙って隣に座る。美佐さんのページをめくる指の動きが、少しずつ早くなっていく。息を呑むような沈黙のなか、15分ほどが過ぎた。


 最後のページを読み終えた美佐さんが、そっと息を吐く。


「……これ、私のことだよね」


 ぼくは、うなずいた。


「もちろん、名前は出してないし、出来る限りぼかして書いた。けど……美佐さんの話を、美佐さんの痛みを、どうしても文章にしておきたかったんだ」


 彼女の視線が、真っ直ぐにぼくを射抜く。怒りでも、困惑でもない。どこか遠くを見るような目だった。


「どうして、書こうと思ったの?」


「美佐さんのことが、ぼくの心の中に残ってて。この夏の体験は、ただの『体験談』じゃない。一つの、物語だったんだ」


 美佐さんの瞳が、少しだけ揺れた。


「……で、投稿するつもりなんだよね?」


「うん。でも、それは美佐さんが『いい』って言ってくれたらの話だよ。無理にとは思ってない。美佐さんのものだから」


 長い沈黙。


 やがて、美佐さんはゆっくりと笑った。ほんの少しだけ、泣き笑いのような顔で。


「……ありがとう。書いてくれて――出していいよ」


 その言葉に、ぼくの胸が熱くなった。何かが許された気がして、ぼくはそっと、美佐さんの手の上に自分の手を重ねた。


「ありがとう、ホントに」


 ぼくが、そう言った時だった。


「おぉぉっ、やっぱり、いた、いたっ!」


 部室に勢いよく飛び込んできたのは、莉子ただった。いつもの明るさで、バタンとドアを開け放った勢いのまま中に飛び込んでくる。


「ねえねえ、夏休みどうだったぁ? てか、二人とも、何? 空気違うじゃん! もしかして、進展……?」


 莉子の声が、部室の空気を一気に変える。さらに続いて田中さんと、鈴木さんも入ってきて、にぎやかな声と笑い声が広がる。


 ぼくは苦笑しながら答えた。


「夏は……まあ、いろいろあったよ」


 鈴木さんが、意味ありげにニヤッと笑う。全く知らない莉子が尋ねる。


「へえ? いろいろって、どんな?」


「それは……そのうち話すよ」


 美佐さんは横で少し照れたように笑っていた。それだけで、莉子はすぐにピンときたらしく、目を見開いて口を押さえた。


「ちょ、え、マジで? えっ、なにその雰囲気! あたしだけ置いてけぼり!? ちょっと、夏ドラマより展開早いんだけど!」


「莉子ちゃん、落ち着いて。あなたも進展したんでしょ?」


と、美佐さんが少し話を逸らすように、わざと莉子をからかうように言う。


「う、うん……まぁ、それはそれとしてっ!」


 その様子が、なんだかとても面白く、心地よくて――ああ、戻ってきたんだ、日常に。そんな実感がぼくの胸に広がった。


 ぼくは、バッグの中にある原稿の束をそっと見やった。


 あれを、きっと近いうちに――この仲間にも読んでもらえる日が来る気がした。


 夕陽が部室の窓をオレンジ色に染めていた。

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