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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第36話 影の町、光の方へ⑤

 引き戸を開けた時、開店前の店内にはまだ客がおらず、静けさで満ちていた。


 古びた木の床がギシと微かに鳴く。カウンターの奥で、白い割烹着を着ていた女性が包丁を置いた。


「……美佐?」


 その声には、懐かしさも喜びも無かった。ただ、驚きと警戒とが滲んでいた。


 母親――そう、美佐の母は、まるで思い出のなかから呼び戻された亡霊を見るような目で娘を見ていた。


 美佐さんは、その視線を真っ直ぐに受け止めて言った。


「ちょっと話があるの。時間は取らせないから」


 言葉は静かだったけれど、その一語一語が刃のように鋭く、母の胸元に突き刺さっていくのがわかるようだった。


 ぼくは店の入口で立ちすくんでいた。タイミングを逃して、そのままドアの近くでぎこちなく頭を下げた。


「あの……こんにちは」


 そう声をかけたものの、母親の返事は無かった。ただ、母親の目は一瞬だけ、ぼくに向いた。冷たい視線。


 でも、たしかに一度だけ、母親の瞳が揺れた――それが、「驚き」だったのか、「安堵」だったのか、「不快」だったのか、判別は出来なかったが。


 美佐さんは言葉を続ける。


「ここで言いたいことは、たくさんある。でも今日は……まず、『あの人』と話をしたい。いるの?」


「……いない。出てるわ。近所にいるはずだけど……」


「そう」


 その「そう」は、感情を封じ込めた氷のような声だった。


 美佐さんは少し顔を伏せて、グッと唇を噛んだ。店の空気が張り詰める。


 ぼくは美佐さんの存在を、息苦しいほど近くに感じながらも、何も言えなかった。


 彼女が今、どれほどの勇気でこの場所に立っているか、痛いほど伝わってきたから。


「私、逃げないって決めたから。ちゃんと……向き合いたいと思ってる」


それだけを告げて、美佐さんはピタリと口を閉じた。


 母親は、何も言わなかった。ただ、包丁の柄を掴んだまま、しばらく動かずにいた。


 やがて、フッと視線を落とし、小声で言った。


「奥、座る?」


 それが、母と娘が向き合うための、最初の一歩だった。


 美佐さんはうなずいた。そして、ぼくの方を見ずに、ただ小さくつぶやいた。


「……来てくれて、ありがとう」


 それが、ぼくには痛いほど重くて、けれど少しだけ嬉しかった。


 奥の居間に座っても、母親は落ち着かない様子だった。


 美佐さんは、真っ直ぐに母親の目を見る。


「ねえ、お母さん。『あの人』が、私に何をしていたか……本当に知らなかったの?」


 母の目が、一瞬揺れた。


 そして、小さく視線を()らす。


「……あの頃、私もいっぱいいっぱいで……見ないふりしてたのかもしれない。だって、信じたくなかったのよ、そんなこと……」


「信じたくなかった、で済ませたの?」


 美佐さんの声が、少しだけ強くなった。


「私は、毎晩が地獄だったの……身体を洗っても洗っても落ちない、嫌な感覚が残って、寝るのも怖かった……『助けて』って、言ったのに。お母さん、見てもくれなかったよね……」


 母親はうつむいたまま、震える手で口元を押さえていた。


「……ごめんなさい……美佐、ごめん……」


「謝らなくていい。ただ――もう黙らないって、伝えたかった。私は、『あの人』にしたことの責任を、取らせるつもり」


 母親の肩が、小さく震えた。


 母親が携帯で連絡を取ると、義父はすぐに家に現れた。


 どんな男かと思ったが、意外と小柄で貧相である。


「……美佐か。まだ根に持ってるのか?」


 開口一番、それだった。


「『根に持ってる』じゃない。これは、犯罪。あなたが私にしたことは、『忘れられること』じゃないの」


「証拠でもあるのか? そんな昔の話――」


 ぼくは我慢出来ずに立ち上がると、こう言った。


「証拠があろうがなかろうが、あなたは『告発されるべき人間』です。それは法律の話だけじゃなくて、人としての道徳と責任の話です」


 義父は舌打ちし、立ち上がろうとしたが――。


「逃げないで」


 美佐の声が、それを止めた。


「私は、あなたにされたことを、生涯忘れない。でも、もう、支配させない。あなたは私の人生を汚したけど、壊しはしなかった。今の私は、あなたに『負けてない』……どうせ、謝るつもりはないんでしょ。……別に、いいよ。謝ってもらうために来たんじゃないから」


 その言葉に、義父は何も言い返さなかった。


 視線は天井の一点を見つめたまま、まるでそこにすべての責任を押しつけるかのようだった。


 美佐は、ちょっとだけ身体を乗り出すと言った。


「もう、終わりにする。私は、あなたのことを一生忘れないけど――でも、これからの人生にまで、連れていくつもりはないから」


 その声には、怒りでも憎しみでもなく、ただ、真っ直ぐな意志がこもっていた。


 その言葉に、義父は何も言い返さず、視線を逸らしたまま、黙って席を立った。


 ぼくたちもすぐに家を出た。


 家からバス停へ向かう道で、美佐さんは立ち止まった。


「……『あの人』の背中、ちっさく見えた。あの人は、もう『力』を持ってなかった……あの家の中でも、私の心の中でも」


 それは、自分自身に言い聞かせるような言葉だった。


 ぼくは横に立ち、彼女の手をそっと握った。


「美佐さんは強いよ。逃げずに、ここまで来たんだ」


 彼女はゆっくりうなずいた。


「でも、強くなれたのは――悠真くんが、いてくれたから」


 風が、静かに吹いた。


 もう、恐れるものは何もない。


 過去は消えない。


 でも、向き合うことで、過去に未来を奪わせないことはできる。


 そしてその未来には、隣に手を繋ぐ誰かがいる。


 ぼくたちは鹿児島に一泊した(もちろん別々の部屋で!)後、翌朝の飛行機で東京へ戻り、そして、大学のあるこの町へ帰ってきた。


 帰ってきた――そう、今のぼくたちには、その言葉がピッタリだ。帰るべき場所はここなのだから。


「静かだね」


 大学前駅に降り立った時、美佐さんがつぶやいた。


「うん。まるで、全部が夢だったみたいだ」


「……たしかに、夢みたいに遠かった。あの家も、あの人も、あの頃も……私ね、ずっと怖かったの。あの場所に戻ったら、自分がまた、あの頃の私に引き戻されるんじゃないかって」


「……」


「でも、戻ってみたら、思ってたより、私が変わってたことに気づけたの」


 美佐さんの声には、かすかに誇らしさのような響きがあった。


「ねえ、悠真くん」


 美佐さんがポツリと言った。


「4月から、すごくいろんなことがあった気がする……」


「ぼくも……」


美佐さんは小さく笑って言った。


「次は……もっと楽しいこと、しよっか」


 ぼくはすぐに笑い返した。


「それ、いいな」


 ぼくたちは並んで歩き、やがて別れ際――。


「じゃあ、また明日ね」


「うん。お疲れさまぁ」


 軽く手を振って別れた後、ぼくは少しだけ立ち止まり、見えなくなった美佐さんの背中を思った。


 きっと、彼女はもう大丈夫だ。


 そして、きっと――自分も。


 そんな確信を、心のどこかに抱きながら、ぼくは歩き出した。




     壊れなかった私へ   盛本美佐


 呼吸をひとつ


 あの日の音が すこし遠のく


 壊れなかった私を


 いま ようやく 抱きしめる

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