表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/42

第35話 影の町、光の方へ④

 バスは霧島の山を抜け、鹿屋への道を静かに進んでいた。


 「ねえ、悠真くん。『さす九』って言葉、聞いたことある?」


 美佐さんがポツンとつぶやいた。窓の外、濃い緑の山々を見つめたまま。


「ええと……?」


 「……『さすが九州』の略。九州の男の人って、男尊女卑っぽいって、ネットなんかでよく言われるの。鹿児島だって、県立の中高一貫校が設立当初は男子校だったんだよ。知事も『女子がサイン、コサインなんかやって何になる』って言うような。『女が勉強するなんて……』って、まだ言う人いるから。そういう発言に『またかよ、さす九』って」


 ぼくは一瞬、笑っていいのか迷った。美佐さんの表情が、どこか張りつめていたから。


 「……うちもそうだった……『女は黙って家にいろ』とか、『男の言うことをきけ』って空気……言葉にされなくても、ずっとあった」


 彼女の言葉はゆっくりで、どこか冷たく沈んでいた。


 「子供の頃は、それが当たり前だと思ってた。でも今は、違うって言える。ああいう価値観の中で、自分を押し殺してたんだって……今なら、わかるから」


 僕は、うなずくことしか出来なかった。心の痛みの奥にある覚悟のようなものが、彼女の声に宿っていた。


 「戻るの、怖いよ。向き合うのも。でも、もう逃げたくない。逃げたままじゃ……きっと何も変わらないから……テトラポットの上で跳ねてた、あの時の私が、私の中にまだいると思ってる。その子が、ここに戻ってこようって言ったの」


 しばらくの沈黙の後、ぼくは口を開いた。


 「ぼくも一緒にいる……絶対、そばにいるから」


 ぼくの言葉に、美佐さんはほんの少しだけ微笑んだ。その笑顔には、強さと痛みと、なにより静かな決意が滲んでいた。彼女の中にいる小さな跳ねる少女が、今、もう一度立ち上がろうとしている。


 バスが鹿屋市役所前で止まったのは、もう午後4時すぎだった。


 山あいに開けたこの町は、盆地のように空気が溜まり、湿度が高く感じられた。


 空を横切るようにして、灰色の自衛隊機が一機、低空で西へと飛んでいく。音は小さいのに、腹の底に響いた。


 鹿児島県鹿屋市。


 かつて海軍航空隊の基地が置かれ、終戦間際には多くの特攻機が、この町の空から沖縄へと飛び立っていった場所。


 今も航空基地は現役で、海上自衛隊の制服姿の隊員が、商店街を自転車で走り抜けていくのを見かけた。


 美佐さんは、そんな街中を早足で歩きながら、何度もキョロキョロと周りを見ていた。


 知り合いと目が合わないように、そして、どこかに自分の痕跡が残っていないか確認するように。


 表情に焦りこそなかったけれど、その背中から、近づく過去への緊張が伝わってくる。


「……このあたり、昔はもうちょっと、にぎやかだったのにね」


 彼女がふと、力なく笑った。


 確かに、通りはどこかよそよそしい沈黙をまとっていた。


 アーケードの下は薄暗く、シャッターを下ろしたままの店が目立つ。


 かつて軍需によって潤った時代の面影を残したまま、時間だけが止まってしまったような風景だった。


 ぼくはふと、何気なく見上げた電柱の上に設置された案内板に目をとめた。


 「鹿屋航空基地史料館 → 1.2km」と書かれている。


 そこには、実際に飛び立った零戦や、遺書、遺品が展示されているという。


 美佐さんは、ぼくの視線の先に気づくと、チラリとだけ目を向けて、何も言わず、また前を向いた。


「……そこは中学の時、授業で行かされたよ。けど、ああいうのって、『黙って見ろ』っていう空気で。感想とか、言いづらくて……」


「何か思った?」


 ぼくが尋ねると、美佐さんは歩きながら、小さく首を振った。


「当時は、『怖いな』ってだけ。でも……今思えば、『死ぬしかない』って思って飛んだ人の気持ちって、少し、わかるような気がする」


「どうして?」


「私も、あの家にいた時、『もう死ぬしかない』って、何度も思ったし、今も時々、あの頃のことを思い出すと死にたくなる……」


 その言葉を聞いたぼくは言葉に詰まった。


 きっと、どうしようもなく悲しく苦しい顔をしていたに違いない。


 そんなぼくの表情に気づいたのか、美佐さんはすぐに、


「でも、死ななかったよ」


と、苦笑した。


「たぶん、死ぬのって、めちゃくちゃ怖い。怖いけど、それより怖いのが『ここにい続けること』だった」


 夕暮れが、軍都の町を静かに包んでいた。


 アスファルトに長く伸びる二人の影。美佐さんは、ぼくの前を歩きながら、チラチラと左右を見ていた。


 知っている誰かに会いたくないのだと、すぐにわかった。彼女の肩は、ほんの少し、すぼめられていた。


「あのね」


 唐突に、美佐さんが言った。声は、道路脇の草の音に紛れそうなくらい、かすかだった。


「……今年の三月……私、富士の樹海に行ったんだ」


「……えっ?」


 ぼくは、立ち止まりそうになる足を、どうにか動かした。心臓の鼓動が跳ねる。


「別に何もしなかった……けど、ホントに、ギリギリだった……気がついたら、一日中、ずっと歩いてた」


 彼女はそう言って、前を見たまま歩き続けた。


 口調は淡々としていた。でも、ぼくは、足元の地面が少しぐらついたような気がした。


 ――あの夢。


 ぼくがT大理Ⅲに落ちて、マンションの屋上から飛び降りた夢。妙にはっきり覚えていた夢。


 飛び降りる直前に見たネットニュース。「女子大生、樹海にて遺体で発見される。遺書には“誰にも助けを求められなかった”と――」


 夢だったはずだ。けれど、夢の中にまで、美佐さんの死が忍び込んでいたというのか?


 あるいは、あの夢こそが、彼女の心が発していたSOSを、何らかの手段でぼくが受け取ったとでもいうのか?


 そう考えると、背筋が冷たくなる。


 ぼくは、自分の中に湧き起こる感情を上手く整理出来なかった。


 驚愕、安堵、恐怖――どれが一番強いのか、自分でもわからない。


 美佐の背中を見ながら歩き続ける。


 夕暮れの鹿屋の街は、かつての軍都の面影を残しながらも、しんと静まりかえっている。


 彼女の影と、ぼくの影が、歩道の上で交わったり離れたりする。


 ――あれは夢だったのか?  それとも、一つの現実だったのか?


 ぼくは、混乱していた。


 でも、一つだけ確かなのは――彼女が、今ここにいるということ。


 それだけで、どうしようもなく、胸がいっぱいだった。


 遠くで車のクラクションが鳴った。


 傾いた夕陽が、背中に伸びる影を長くした。


 夕暮れの風が、通りを吹き抜ける。


 中年の男性が自転車で、ぼくたちを追い抜いていった。


 美佐さんは反射的に顔をそむけ、自転車が見えなくなるまで立ち止まっていた。


 再び歩き始めた美佐さんが、しばらく歩いてまた立ち止まった。


「あそこ……」


 彼女がそう言って指さした先に、年季の入った木造の建物が見えた。


 赤い暖簾が下がり、看板には「季節料理・しのぶ」の文字。


「『しのぶ』って、お母さんの名前?」


「うん……」


 店の前で一度、彼女は立ち止まり、深く息を吸った。


 暖簾が揺れている向こうに、母がいるのか、いないのか――それすらも、まだわからない。


 ぼくは何も言わず、ただ彼女の横に立つ。


 それだけで、彼女は微かにうなずいた。


 そして、引き戸に手をかける。


 ガラガラという音が、沈黙を割った。


 今、美佐さんは、自分の人生の奥へと、一歩踏み出していく。

「面白かった!」「続きが気になる、読みたい!」「今後どうなるの……?」と思ったら、下にある☆☆☆☆☆欄から、作品への応援をお願いいたします。面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちで大丈夫です!

ブックマークもいただけると本当に嬉しいです。

何卒よろしくお願いいたします。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ