第35話 影の町、光の方へ④
バスは霧島の山を抜け、鹿屋への道を静かに進んでいた。
「ねえ、悠真くん。『さす九』って言葉、聞いたことある?」
美佐さんがポツンとつぶやいた。窓の外、濃い緑の山々を見つめたまま。
「ええと……?」
「……『さすが九州』の略。九州の男の人って、男尊女卑っぽいって、ネットなんかでよく言われるの。鹿児島だって、県立の中高一貫校が設立当初は男子校だったんだよ。知事も『女子がサイン、コサインなんかやって何になる』って言うような。『女が勉強するなんて……』って、まだ言う人いるから。そういう発言に『またかよ、さす九』って」
ぼくは一瞬、笑っていいのか迷った。美佐さんの表情が、どこか張りつめていたから。
「……うちもそうだった……『女は黙って家にいろ』とか、『男の言うことをきけ』って空気……言葉にされなくても、ずっとあった」
彼女の言葉はゆっくりで、どこか冷たく沈んでいた。
「子供の頃は、それが当たり前だと思ってた。でも今は、違うって言える。ああいう価値観の中で、自分を押し殺してたんだって……今なら、わかるから」
僕は、うなずくことしか出来なかった。心の痛みの奥にある覚悟のようなものが、彼女の声に宿っていた。
「戻るの、怖いよ。向き合うのも。でも、もう逃げたくない。逃げたままじゃ……きっと何も変わらないから……テトラポットの上で跳ねてた、あの時の私が、私の中にまだいると思ってる。その子が、ここに戻ってこようって言ったの」
しばらくの沈黙の後、ぼくは口を開いた。
「ぼくも一緒にいる……絶対、そばにいるから」
ぼくの言葉に、美佐さんはほんの少しだけ微笑んだ。その笑顔には、強さと痛みと、なにより静かな決意が滲んでいた。彼女の中にいる小さな跳ねる少女が、今、もう一度立ち上がろうとしている。
バスが鹿屋市役所前で止まったのは、もう午後4時すぎだった。
山あいに開けたこの町は、盆地のように空気が溜まり、湿度が高く感じられた。
空を横切るようにして、灰色の自衛隊機が一機、低空で西へと飛んでいく。音は小さいのに、腹の底に響いた。
鹿児島県鹿屋市。
かつて海軍航空隊の基地が置かれ、終戦間際には多くの特攻機が、この町の空から沖縄へと飛び立っていった場所。
今も航空基地は現役で、海上自衛隊の制服姿の隊員が、商店街を自転車で走り抜けていくのを見かけた。
美佐さんは、そんな街中を早足で歩きながら、何度もキョロキョロと周りを見ていた。
知り合いと目が合わないように、そして、どこかに自分の痕跡が残っていないか確認するように。
表情に焦りこそなかったけれど、その背中から、近づく過去への緊張が伝わってくる。
「……このあたり、昔はもうちょっと、にぎやかだったのにね」
彼女がふと、力なく笑った。
確かに、通りはどこかよそよそしい沈黙をまとっていた。
アーケードの下は薄暗く、シャッターを下ろしたままの店が目立つ。
かつて軍需によって潤った時代の面影を残したまま、時間だけが止まってしまったような風景だった。
ぼくはふと、何気なく見上げた電柱の上に設置された案内板に目をとめた。
「鹿屋航空基地史料館 → 1.2km」と書かれている。
そこには、実際に飛び立った零戦や、遺書、遺品が展示されているという。
美佐さんは、ぼくの視線の先に気づくと、チラリとだけ目を向けて、何も言わず、また前を向いた。
「……そこは中学の時、授業で行かされたよ。けど、ああいうのって、『黙って見ろ』っていう空気で。感想とか、言いづらくて……」
「何か思った?」
ぼくが尋ねると、美佐さんは歩きながら、小さく首を振った。
「当時は、『怖いな』ってだけ。でも……今思えば、『死ぬしかない』って思って飛んだ人の気持ちって、少し、わかるような気がする」
「どうして?」
「私も、あの家にいた時、『もう死ぬしかない』って、何度も思ったし、今も時々、あの頃のことを思い出すと死にたくなる……」
その言葉を聞いたぼくは言葉に詰まった。
きっと、どうしようもなく悲しく苦しい顔をしていたに違いない。
そんなぼくの表情に気づいたのか、美佐さんはすぐに、
「でも、死ななかったよ」
と、苦笑した。
「たぶん、死ぬのって、めちゃくちゃ怖い。怖いけど、それより怖いのが『ここにい続けること』だった」
夕暮れが、軍都の町を静かに包んでいた。
アスファルトに長く伸びる二人の影。美佐さんは、ぼくの前を歩きながら、チラチラと左右を見ていた。
知っている誰かに会いたくないのだと、すぐにわかった。彼女の肩は、ほんの少し、すぼめられていた。
「あのね」
唐突に、美佐さんが言った。声は、道路脇の草の音に紛れそうなくらい、かすかだった。
「……今年の三月……私、富士の樹海に行ったんだ」
「……えっ?」
ぼくは、立ち止まりそうになる足を、どうにか動かした。心臓の鼓動が跳ねる。
「別に何もしなかった……けど、ホントに、ギリギリだった……気がついたら、一日中、ずっと歩いてた」
彼女はそう言って、前を見たまま歩き続けた。
口調は淡々としていた。でも、ぼくは、足元の地面が少しぐらついたような気がした。
――あの夢。
ぼくがT大理Ⅲに落ちて、マンションの屋上から飛び降りた夢。妙にはっきり覚えていた夢。
飛び降りる直前に見たネットニュース。「女子大生、樹海にて遺体で発見される。遺書には“誰にも助けを求められなかった”と――」
夢だったはずだ。けれど、夢の中にまで、美佐さんの死が忍び込んでいたというのか?
あるいは、あの夢こそが、彼女の心が発していたSOSを、何らかの手段でぼくが受け取ったとでもいうのか?
そう考えると、背筋が冷たくなる。
ぼくは、自分の中に湧き起こる感情を上手く整理出来なかった。
驚愕、安堵、恐怖――どれが一番強いのか、自分でもわからない。
美佐の背中を見ながら歩き続ける。
夕暮れの鹿屋の街は、かつての軍都の面影を残しながらも、しんと静まりかえっている。
彼女の影と、ぼくの影が、歩道の上で交わったり離れたりする。
――あれは夢だったのか? それとも、一つの現実だったのか?
ぼくは、混乱していた。
でも、一つだけ確かなのは――彼女が、今ここにいるということ。
それだけで、どうしようもなく、胸がいっぱいだった。
遠くで車のクラクションが鳴った。
傾いた夕陽が、背中に伸びる影を長くした。
夕暮れの風が、通りを吹き抜ける。
中年の男性が自転車で、ぼくたちを追い抜いていった。
美佐さんは反射的に顔をそむけ、自転車が見えなくなるまで立ち止まっていた。
再び歩き始めた美佐さんが、しばらく歩いてまた立ち止まった。
「あそこ……」
彼女がそう言って指さした先に、年季の入った木造の建物が見えた。
赤い暖簾が下がり、看板には「季節料理・しのぶ」の文字。
「『しのぶ』って、お母さんの名前?」
「うん……」
店の前で一度、彼女は立ち止まり、深く息を吸った。
暖簾が揺れている向こうに、母がいるのか、いないのか――それすらも、まだわからない。
ぼくは何も言わず、ただ彼女の横に立つ。
それだけで、彼女は微かにうなずいた。
そして、引き戸に手をかける。
ガラガラという音が、沈黙を割った。
今、美佐さんは、自分の人生の奥へと、一歩踏み出していく。
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