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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第34話 影の町、光の方へ③

 ぼくたちの乗った機体は、わずかに震えて鹿児島空港の滑走路に着陸する。


 軽い衝撃。タイヤがアスファルトをこする音。思ったより短く滑って、ブレーキがかかる。


「……着いた、ね」


 美佐さんが、つぶやくように言った。


 タラップを降りた瞬間、ぼくの身体を包んだのは熱気と湿気の混じる、南国特有の空気だった。東京の蒸し暑さとはどこか違う――自然の熱がそのまま降りてきたような、息苦しさではなく、肌をじっとりと撫でてくるような暑さ。


 鹿児島空港は、想像よりずっとこぢんまりしていた。地方空港らしく、ターミナルは一つ。滑走路を歩いて建物へと向かう間、周囲には山々の稜線が広がり、空の青さとのコントラストが鮮やかだった。


 建物に入ると、冷房が効いていてホッとする。鹿児島空港のロビーは、夏の観光シーズンにしては静かだった。白い天井から吊り下がった扇風機が、のんびりと回っている。


 土産物屋と地元のパンフレットを並べたラックが目に入る。「さつま揚げ」「白くま」「芋焼酎」……鹿児島らしさ全開の看板たち。壁際のポスターには、桜島と錦江湾、黒豚の料理や、霧島連山の風景が彩られている。


「こんなに『鹿児島ですよ』って言われると……なんか落ち着かないね」


「わかる。観光地っぽさが逆に緊張する」


 ロビーの隅には、小さな展望スペースがあった。窓の向こうには、さっきまで自分たちが乗っていた機体が停まっていて、その後ろには濃い緑の山々が連なっている。まるで帰るのを拒むように、どっしりと構えていた。


「……バス、あっちだね」


 美佐さんは静かに言った。


 彼女の顔に浮かぶのは、緊張か、不安か──。それとも、言葉にならない何か。

 ぼくはそれを見つめることしかできなかった。


 ロビーを抜けて外に出ると、むわりとした南国の湿った空気が、肌を包んだ。


 バス乗り場はターミナルのすぐ外。バスの行き先表示には「鹿屋市」「垂水フェリー」「リナシティかのや」と書かれている。そう、彼女の実家は鹿屋市にあるのだ。


 バス乗り場のベンチに並んで腰掛けた。


 目の前のロータリーでは、タクシーがゆっくりと列をなして進んでいく。


 ぼくたちは無言のまま、行き交う車の流れを目で追っていた。


 美佐さんの指先が、そっと自分の膝の上をつまむように握られていた。力が入っているのがわかった。


 「……大丈夫?」


 ぼくは声をかけようとしてけど、声が出なかった。


 ぼくは黙って座り直す。彼女の肩と自分の肩が触れるか触れないか、そんな距離。


 やがて、鹿屋方面行きのバスが到着するアナウンスが流れた。


 ぼくたちはゆっくりと立ち上がり、並んでバスに乗り込んだ。


 車内は冷房が効いていて、ガラス越しの強い日差しが、どこか遠くの世界のように思えた。


 後部座席の並びに座り、静かにシートベルトを締める。エンジンの音が低く響き、バスは滑るように動き出した。


 最初は空港周辺の広い滑走路や駐機場が目に入り、その先にある緑豊かな山々が徐々に近づいてきた。バスは国道220号線を北東に進み、鹿児島市街から離れていく。


 緑の山、低い建物、広がる田畑──。


 「……この道、たぶん昔、遠足で通った」


 ポツリと、美佐さんが言った。


 「そっか」


 ぼくは短く返した。それしか言葉が出てこなかった。


 彼女の目が、ゆっくりと景色を追っている。まるで過去の記憶を、遠くからなぞるように。


 バスは、山の稜線に沿ってゆるやかにカーブを描きながら、南へと向かっていた。


 沈黙は続いていた。でも、ふたりの間には確かに、言葉を越えた時間が流れていた。


「……ねえ、悠真くん」


 突然、美佐さんがポツリと、まるで天気の話でもするかのように口を開いた。


「私の『お父さん』、何人もいたんだよ……」


 静かに言われたその言葉に、ぼくは思わず彼女の方を見た。


「私のホントのお父さんは、自衛隊の佐官だったんだって。美佐の『佐』の字は、そこから」


 彼女の言葉が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。冗談かと思って笑いかけたけれど、美佐さんの横顔には、笑みの影もなかった。


「でも、私ね。たぶん、その人の顔も覚えてないの。最後に会ったの、三歳の頃だったっていうし。写真も無い……そもそもさ、私、認知もされてない」


 ぼくは思わず、何か言おうとして口を開いたけれど、声にならなかった。


 彼女は続ける。


「奥さんも子供も、いたんだって。その人……」


 彼女がそれを今まで、どんな気持ちで受け止めてきたのか──ぼくには、想像もつかない。


 美佐は前を向いたまま、小さく笑った。けれど、それはどこか、遠くを見るような笑い方だった。


「でもね、不思議と、嫌いじゃないの。この字」


 ぼくはそのとき、初めて知った。


 彼女の中にある、深く静かな孤独と、それでも壊れない強さを。


「もう顔も覚えてない人もいる……でも、たぶん、小学1年生の頃かな。夏休みに海に連れて行ってくれたの。垂水港の近くまでドライブに連れていってもらって……錦江湾の岸で、テトラポットの上を、私、ウサギみたいにピョンピョン跳ねてた。波が来るたびに、スカートが濡れて。でも、すごく楽しかった」


 唐突な言葉だった。けれどその声は、あらかじめ心の中で何度も反芻されていたような静けさをまとっていた。


 懐かしそうに微笑むその表情に、一瞬、少女の面影が浮かんだ。彼女の目は、遠くの海を見ているようだった。


「その時のことだけ、なんか、ずっと心に残ってるの。すごく嬉しかった。でも……その人も、じきにいなくなった。理由は教えてもらえなかったけど……」


 彼女は言葉を切り、少しだけ息を吐く。


「最後の人が、今の戸籍上の『父親』。あの人は……ね、無口で、威圧的で。怒鳴り声と、無言の圧で支配するような人だった。家の空気がいつも重たくて、声を出すのも怖かった。あの頃から、家に『帰る』って言葉が嫌いになった……」


 ぼくは、美佐さんの言葉にうまく返せなかった。ただ彼女の指先は、また少し震えていた。


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