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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第33話 影の町、光の方へ②

 Peachのエアバスが高度を上げきると、安定した飛行に入った。エンジン音が耳に残りつつも、機内はどこか静かだった。


「……耳、痛くならなかった?」


 美佐さんが不意に尋ねる。小声で、けれど心配そうに。


「うん、大丈夫。美佐さんは?」


「ちょっと、でも平気」


 笑ってみせる彼女の表情は、硬くはないけれど、いつもの余裕もなかった。


 成田を飛び立ってしばらくすると、機内にはうっすらとした陽の光が差し込んでいた。雲の切れ間から、青くかすむ海と、鋭角に突き出た半島が見える。


「……あれ、潮岬じゃないかな?」


 ぼくは窓の外を指さして、独り言のようにつぶやいた。


 美佐さんが少し身を乗り出して、僕の肩越しに外をのぞく。


 まるで島のように見える半島が、眼下に広がっていた。尾鷲のリアス式海岸、その先に緑の尾根を連ねた岬。海と山の境界線が、何かを語りかけてくるようだった。


「へえ……こんなふうに見えるんだ」


 美佐さんの声が、ほんの少し震えていた。


 高度1万メートルから見下ろす景色は、現実感が薄くて、どこか夢の中のようだった。けれど、その非現実の中に、ぼくたちの現実が確かに織り込まれていた。


「この下にも、誰かの暮らしがあるんだよね」


 ぼくがポツリと言うと、美佐さんは目を細めてうなずいた。


「うん……人がいて、生活があって、誰かの痛みも、喜びもある」


 彼女は窓の外に目をやったまま、静かに言葉を続ける。


「私、今でも時々、自分の過去がどこか遠くの世界のことみたいに思える。でも……」


 言葉が少しだけ途切れる。


 ぼくは何も言わず、じっと美佐さんの横顔を見つめた。


「でも……逃げたくて仕方なかったのに、やっぱり地元に私の始まりがあるんだって、思う」


 ぼくは窓の外に視線を戻す。


 潮岬の向こうに、雲がちぎれた空が広がっていた。どこまでも果てなく、けれど、確かに続いている空。


「……ありがとう、一緒に来てくれて」


 美佐さんがポツリとつぶやく。


 ぼくは黙って首を横に振った。


 たぶん、それはぼくにとっても必要な旅だった。


「昔のことは、変えられない。でも、これからのことなら……少しずつなら、変えていけるかもしれない」


 ぼくがそう言うと、美佐さんはふっと微笑んだ。


 機内は静かだった。前の座席の背もたれには、小さなモニターもなく、ただ空の旅の時間が流れていた。


 やがて機体が南へ傾き、潮岬がゆっくりと視界から遠ざかっていった。


 やがて、機体が高度を少しずつ下げ始めたのがわかった。遠くの空に雲がたなびき、その向こうに、海を割って浮かぶ島のような陸地が近づいてくる。


「……見えてきたね、九州」


 僕が小さな声で言うと、美佐さんはゆっくりと顔を上げて、窓の外を見た。


 陽を受けた海がきらきらと光り、その縁に沿って、複雑に入り組んだ海岸線が広がっている。緑の山がうねり、点々と町の影が見える。


「うん……あの向こうに、うちがあるんだよね」


 美佐さんの声は落ち着いていた。でも、指先が少しだけ震えていた。


 僕は言葉を選ぶように、慎重に息を飲んでから言った。


「怖い?」


 彼女は一瞬黙って、それからうなずいた。


「……やっぱり、怖いよ。ホントは、逃げたい。でも、それ以上に……逃げたままじゃ、たぶん私、前に進めない気がするの」


 その声には、静かな熱が宿っていた。


 逃げることを責めない。でも、自分は逃げない。


 その決意の輪郭が、はっきりとそこにあった。


「帰るって、こういう気持ちなんだなって思う」


「うん……」


 ぼくは相づちを打つしかなかった。


「ぼくも……自分の家には、そんな気持ちだったかも」


 美佐さんがこちらを見て、小さく笑う。


「……悠真くんが隣にいてくれて、ホントに、よかった」


 その言葉は、胸の奥にスッと届いた。


 ぼくも同じだった。彼女がいるから、自分の過去と向き合うことを恐れずにいられる。


 飛行機は南へ旋回を始め、薩摩半島の影が右手に見えた。雲が切れ、陽射しのなかに桜島が遠くに浮かびあがる。


「見て、桜島……」


 美佐さんが、思わず声を上げる。


「ホントだ」


 雄々しくそびえるその姿は、何かの象徴のようにも見えた。過去も、痛みも、全部抱えたまま、それでもそこに在り続けるような──。


 ぼくたちはしばらく、言葉もなくそれを見ていた。


 ベルト着用サインが点灯し、機体はゆっくりと高度を下げていく。


 窓の外、雲の切れ間から濃い緑の山々と、広がる田畑が見えてきた。眼下には、まるで折り重なるような茶色い屋根の集落がポツポツと点在している。


 まっすぐな道が山あいを貫き、小さな川がくねくねとその隣を流れていた。


 鹿児島の大地──。


 ぼくの喉が少し鳴った。気圧のせいだけじゃない。緊張が、喉の奥で硬く膨らんでいた。


「……もうすぐだね」


 隣の美佐さんが、小さくつぶやいた。


 その声には、静かな決意と、少しの震えが混じっていた。


 彼女の視線は、窓の外の景色を真っ直ぐに見つめている。


 「ねえ」


 ぼくは声をかける。彼女がこちらを見る。


 「もし、何かあったら──ちゃんと言って。ぼく、絶対に美佐さんを一人にはしないから」


 美佐さんは、ほんのわずか驚いたような顔をして、でもすぐにうなずいた。


 その目に、光るものが滲んでいるのが見えた。


 「ありがとう、悠真くん……」


 それは、ほんのささやきのような声だった。


 機体が揺れながら、低く山を回り込むようにして進んでいく。窓の外には、滑走路らしき開けた平地が近づいていた。


 その手前、遠くに錦江湾が見える。穏やかな海面が、夕方の光を反射して、金色にきらめいていた。


 ──ついに、来たんだ。


 ぼくの心臓が静かに早鐘を打つ。美佐さんの過去と、これから向き合う場所。それがすぐそこに迫っている。


 ギィッというフラップの音。


 機体がさらに沈み込み、フワッと重力が揺れたかと思うと──。


 ドンッ。


 車輪が滑走路に接地する。


 揺れ、振動。ブレーキの摩擦音。


 機体がゆっくりと速度を落としながら、滑走路を走っていく。


「……着いたね」


 美佐さんが、かすかに微笑んだ。


 着いたんだ。


 彼女の「過去」の地に。


 そして、ここから先は「未来」へつながっていくんだ。

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