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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第32話 影の町、光の方へ①

 夏休みに入ってすぐ、みんなで海に行った。湘南の光と潮の香り、笑い声。あれから数日後――。


 空の青さはますます濃くなり、セミの鳴き声が一日中やまない。都留の街には、そろそろ夕立が来そうな空気が立ち込めていた。


 図書館の横のベンチにぼくと美佐さんはいた。蒸し暑さに少し汗ばみながら、美佐さんは口を開いた。


「……お盆前に帰ろうと思うの」


 ぼくは一瞬、言葉を探した。


「帰るって、実家に?」


「うん。まだ、覚悟がちゃんと出来てるわけじゃない。でも、行かないとって思った。もう、逃げたくないの」


 紙コップのアイスコーヒーに残った氷が、カラン、と音を立てた。


 その音だけが、しばらくのあいだ、ぼくたちの間の沈黙を埋めていた。


「向き合いたいんだ。義父のことも、母のことも。あの場所で何が起きて、何が終わらなかったのか……自分の目で、確かめたい」


 遠くで雷鳴のような音が、山の方から響いてきた。けれど、美佐さんの目は、ずっと真っ直ぐにぼくの方を見ていた。


「……じゃあ、ぼくも一緒に行くよ」


 自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。けれど、取り消したいとは思わなかった。


 彼女がこれから踏み出そうとする道が、どれだけつらい、苦しいものか、少しはわかっているつもりだった。


 だから、一人にはしたくなかった。


「ホントに……?」


「うん、ホントに。美佐さんに一人で背負わせたくない。せめて、隣にいさせて」


 言葉を重ねるたび、ぼくの胸の奥にしまっていた感情があふれてくる。


 過去の記憶に苦しむ彼女を、見ていられない。ただ、それだけだった。


「ありがとう……ううん、ごめん、ありがとう」


 彼女の声が震えていた。


 ぼくたちの間に、セミの声と湿気を含んだ風が流れた。


 7月の終わり、夏の熱気のなかで、ぼくたちは鹿児島へ向かうことを決めた。


 ただの帰省じゃない。過去と、そして自分と向き合うための旅。


 そのときの空の色と、彼女の瞳を、ぼくはきっと忘れない。




 お盆前のその日――。


 夏とはいえ、まだ薄暗い、蝉の声さえまだ眠っている時間。ぼくたちは静かに集合した。


 美佐は小さなトートバッグ一つ。ぼくもリュックだけ。これが、彼女の帰省だった。


「……眠れた?」


「ちょっとだけ。でも、気が張ってるから平気」


 美佐は笑ったけど、目の奥に疲れが見えた。


 富士急の始発に乗り、大月駅から中央線快速に乗り換えて、新宿へと向かう。


 まだ日も上りきらないうちに、ぼくたちはバスタ新宿から成田空港行きの高速バスに乗っていた。


 成田空港、ターミナルビルを歩く美佐さんの足取りが、ほんの少しだけ遅くなったような気がした。LCC専用の第3ターミナルは、一般の空港のような華やかさはなくて、広い体育館に臨時のカウンターとゲートを並べただけのようだった。貧乏学生の身の上だからそれも仕方がない。


 座席は硬いベンチ、照明も簡素で、でも妙に浮き足立った旅人たちの空気。


「空港って、もっと豪華な場所だと思ってた」


「うん、LCCの世界はちょっと違うよね」


 ぼくらはPeachのチェックインカウンターに並び、搭乗券を発行した。


 荷物の重量制限を気にして、美佐はトートを何度も持ち替えていた。


「ごめんね、一緒に来させちゃって」


「いいんだよ……一人で行かせたくなかったから」


 搭乗ゲート前、美佐さんがトートバッグをギュッと抱えながら言った。


「ねえ、悠真くん……ホントに、行くんだね」


 白地に小さな青い花が散ったトートバックは、古びていて、どこか中学時代の記憶を連れてきそうだった。


「行こう。空の向こうにあるのが、怖い過去でも――それを見て、今の美佐さんが前に進めるなら」


「……ありがとう。ホントに」


 Peachの係員が搭乗案内を始める。


 背後では小さな子どもが「ひこうきぃぃっ!」とはしゃいでいるけれど、美佐さんの足元には、重たい空気が流れていた。


 搭乗ブリッジの無い屋外搭乗ということなので、ぼくたちは搭乗ゲートを抜け、歩いて機体へと向かう。

 

 滑走路脇の誘導路を歩く。


 タラップの向こうに見えるPeachのエアバスA320は、派手なピンク色をまとっていた。


「なんか……かわいすぎない? これで鹿児島に行くって、変な感じ」


 美佐さんはそう言いながら、少しだけ笑った。


 でもその表情の奥で、何かに耐えるように唇をかんだのを、ぼくは見逃さなかった。


「……ねえ、悠真くん」


 小さな声だった。


 搭乗口に並ぶ人々の足音や、アナウンスの機械的な声に紛れてしまいそうなほど。


 ぼくが振り返ると、美佐さんは自動ドアの手前で立ち止まり、視線を下に落としていた。


 肩からかけたトートバッグの紐を、両手でぎゅっと握っている。


「私……飛行機、初めてなの」


「えっ?」


 思わず聞き返した。


 意外だった。


 旅慣れてるように見えて、実はどこにも逃げ場のない女の子だったのだ。


「中学の修学旅行は新幹線だったし。高校の時も、大学へ入ってからも、旅行どころじゃなかったから」


「……そっか」


「だから……ちょっと怖い。高いところも苦手で……落ちたらって思っちゃう」


 ぼくは、その「怖い」に、彼女の心の影を見た気がした。


 飛行機に乗るのが怖い――。


 それは、空に浮かぶことの恐怖じゃない。


 ずっと逃げてきた場所に、自分から向かっていくことの、重さ。


「……美佐さん、無理しなくていいから」


「無理、してるよ。でもね――もう逃げたくないんだ」


 彼女はかすかに笑って、前を向いた。


 その横顔に、かすかに震える睫毛が見えた。


 機内、ぼくたちの席は17Aと17B。窓際とその隣だ。


 シートは固く、薄く、ひざが前の座席に当たりそうなほど狭かった。


 でも、美佐さんは文句一つ言わなかった。


 やがて機体が滑走路に向かってゆっくり動き出す。


 その時、美佐さんが、ふと手を差し出してきた。


「……少しだけ、握っててくれる?」


 ぼくは黙ってその手を取った。細くて、冷たい指先。


 けれど、その奥には何年も積み重ねてきた、言葉にならない勇気があった。


 ぼくの心臓が、ドクンと大きく鳴る。


 ジェットエンジンの轟音とともに、機体が加速する。


 シートに背中が押しつけられる感覚。


 機体が空へ浮かび上がる瞬間。


「うわっ……浮いた……!」


 美佐さんの手に力が入った。


 ぼくはその手を握り返す。


 美佐は窓の外を見つめながら、唇を微かに引き結んでいた。


「ねえ……」


と、飛行機が離陸してすぐ、美佐さんはつぶやくように言った。


「怖い?」


と、ぼくが訊くと美佐さんは答えた。


「ううん、違うの……戻るのが怖いわけじゃない。でも、過去を『確かめに行く』のって、なんか変な感じ」


 飛行機はグングン上昇していく。


 窓の外、雲の上。


 世界は白一色になり、上も下もわからなくなる。


 ぼくはその光景を見ながら、胸の奥で思う。


 これは彼女の過去へ向かう旅であり、同時に、ぼく自身の「他人の痛みに向き合う旅」でもあるんだと。

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