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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第30話 ことばの波打ち際②

 車は朝露に濡れた都留の街を抜け、国道139号線を富士吉田方面へ。


 しばらくして、田中さんがつぶやいた。


「そろそろ高速乗る前に、コンビニ寄るよ」


「おにぎりぃぃ!」


「アイスコーヒーお願いっ!」


 それだけでも車内のテンションは高い。


 立ち寄ったのは、富士吉田市松山のセブン〇レブン。夏の太陽はもう上り始めている。


 セブン〇レブンを出ると、車は中央道の富士吉田ICから一気に高速へ。


 ──速い。想像以上に。


「えっ……田中さん、運転って、こんなに……」


「制限速度+αまでは許容範囲。周囲の流れに乗るのも安全運転のうちさ」


 涼しい顔でそう言いながら、田中さんの手はハンドルを迷いなく操っていた。普段、部室では静かで物腰の柔らかい人だというのに、ハンドルを握ると妙な自信と加速感が滲み出る。まるで別人だ。


 大月JCTで圏央道に乗り換え、南へ。外の風景がだんだん山から街へ変わっていく。


「ここが圏央道かあ。初めて通るぅ!」


「いやぁ、テンション上がるね。湘南の潮風、もう感じてる」


「潮風って、窓閉まってるよ」


「ねぇ、莉子ちゃん、恋バナしてよ!」


「えぇ、じゃあ美佐先輩と悠真くんの話から?」


「待て、待て、待て!」


と、ぼくは慌てる。


 恋バナは女子のカロリー食だ。


 海老名JCTで一瞬、東名に乗り換え、そこからすぐ横浜町田ICで降りて横浜新道から横浜横須賀道路へ。


「そろそろ海、見えてくるよ!」


 運転席の田中さんが言うと、全員が外に目をやった。


「おぉぉぉぉぉぉっ!」


 逗子海岸を一望するカーブに差し掛かった瞬間、莉子が思わず、


「湘南じゃぁぁぁぁん!」


と、叫んだ。


 夏の空が一気に開けて、青くきらめく海が眼の前に広がる。クーラーの風すら潮の香りに変わった気がして、全員が興奮してざわついた。


「着いたらまず泳ごう!」


「私は映える写真が先ぃぃっ!」


 莉子はぼくの隣で、さっきからテンションMax状態だった。


「うおぉぉっ! 海っ! 水着っ! 太陽と潮風と恋の予感っ!」


 莉子は窓を開けた風に髪をなびかせながら、急にぼくの肩に寄りかかってきた。


「あっ、悠真くん、だめっ、そんなとこ触っちゃぁ♥」


「はっ!? いや、何もしてないっ!」


「はぁん、私、どうにかなっちゃうぅぅっ」


 莉子は一人で完全にラブシーンの演技に入っていた。軽く小芝居しながら、手を頬に添え、身をくねらせる。


「……」


 そんな莉子の様子を、美佐さんが呆れた目で見つめていた。


「莉子ちゃん、そういうの、車の中ではやめてね」


「えっ、美佐先輩、今の演技よ? ギャグよ? なんでちょっと本気でにらむのぉ?」


「ギャグに見えなかったから」


 車内の空気が微妙に凍った。


 ぼくはというと、二人の間に座ったまま、何と言っていいかわからず、ただ正面だけを見つめていた。


 外はすでに、夏の日差しに焼かれ始めたアスファルト。


 目的地、由比ヶ浜までは、まだ少し距離がある。


 午前9時半すぎ。長時間のドライブの果てに、ようやくぼくたちは由比ガ浜にたどり着いた。


 目の前に広がるのは、まばゆい太陽に照らされた水平線と、キラキラ反射する白い砂浜。


 波の音がリズムよく打ち寄せ、海の香りがふわりと鼻をくすぐる。


「着いたぁぁぁぁぁぁっ!」


 莉子が、車を飛び出すと同時に、両手を挙げて叫んだ。


「すごい、ホントに……海なんだね」


 美佐さんはゆっくりと歩きながら、静かに感嘆の息を漏らしていた。ふだん山に囲まれた土地の暮らしでは、こんな海の景色は非日常の極みだ。


「よぉぉし、じゃあまずは着替えだな……海の家、こっちでぇぇす!」


 鈴木さんが先導し、男女別に分かれて更衣室へ向かう。


 ほどなくして扉が開くと、真っ先に飛び出してきたのは莉子だった。


「じゃぁぁん☆ どう? 悠真くぅぅん、目をそらしちゃダメだぞぉぉっ!」


 ぼくは一瞬、視線を()らしてから、もう一度、チラリと見た。


 鮮やかなコーラルピンクのビキニ。いつもの莉子の明るさがそのまま形になったようだった。笑いながら髪を結い直すその仕草が、無防備で、どこかまぶしかった。


「……あっ、美佐先輩も来た」


 莉子の声に振り向くと、今度は美佐さんが、少し照れくさそうにパーカーの裾をぎゅっと握りながら歩いてきた。薄いラベンダー色のワンピース水着は、彼女の白い肌と、柔らかな表情に驚くほど似合っていた。


「その色、似合ってる」


 自然とぼくの口から出た言葉に美佐さんは、ふわっと笑った。


「ありがとう。ちょっと……恥ずかしいけど」


 ──いや、こっちの方が……。


 露出度は莉子ほど多くないはずなのに、なぜか心臓が強く打つ。水着姿の美佐さんは、どこかいつもより大人びて見えた。肩から伸びるうなじのラインが、やけに意識に残る。


「なぁに赤くなってんの、悠真くん」


 莉子が茶化すように肘でつついてくる。ぼくはわざと、そっぽを向きながら、心の動揺を隠そうとした。


 周りを見渡すと、他の女子たちも思い思いの水着姿で浜辺に集まっている。


 色とりどりのビキニやワンピース、水色や黒、花柄やチェック柄


「おぉぉぉぉっ、みんな、可愛いぞぉぉっ!」


 テンションが上がる男子陣の叫び声とともに、ぼくたちは夏の海に飛び込んだ。


「うおっ、冷たっ!」


「ねえねえ、悠真くん! 浮き輪でプカプカしよっ!」


「え、ちょ、ちょっと莉子、無理に……うわっ、沈むって!」


「ひゃぁぁっ! 美佐先輩、水鉄砲強すぎ!」


 笑い声と水しぶきが空に舞う。


 ほどなく、ぼくは砂浜に仰向けに寝かされ、首だけを残して砂で埋められてしまった。


「なにするのさ、やめろって!」


と、ぼくは口では少し抵抗するけど、莉子も美佐さんも笑顔で楽しそうだ。


 下から見上げると、二人が満面の笑みでこちらを見つめている。陽射しに透ける肌が柔らかく輝き、その表情に思わず胸が締めつけられる。


「これで動けないね、悠真くん。砂のベッド、気持ちいい?」


 莉子の声は軽やかだけど、どこか優しさも含んでいる。


 ぼくはその視線に戸惑いながらも、幼かった頃、父親に叱られて子供らしい感情を押し込めていた自分を思い出していた。今、こんなにも無防備で笑い合う彼女たちの前にいる自分が、少しだけ自由になれた気がした。


 照れくさいのに、どこか嬉しい。胸の奥がじんわり温かくなる。


 夏の始まりが、そこにあった。


 青くひかる海、光に濡れた街、そして――隣にいる人の笑顔。


 きっと今日は、ぼくにとって忘れられない日になる。

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