第28話 声にならない想いも、読めば届く③
部室の窓を濡らす雨の音が、ずっとBGMのように鳴っていた。
しとしと、ぽたぽた。屋根から落ちる雫が、ところどころリズムを変えて地面を打つ。
蒸した空気に紙とインクの匂いが混じって、それがなぜだか心地よかった。
時計の針が7時を指すころ、誰かがそっと閉じた本の音で、全員が現実に戻った。
鈴木さんが立ち上がり、
「そろそろ、か」
と言ったのをきっかけに、読書会は自然解散の流れになる。
その時だった。
「……ねぇ」
不意に、莉子が言った。
背中越しに振り返りもせず、カバンのファスナーを閉めながら。
「もっと読書会、やりたいよ……てか、私、これ結構好き」
みんなは、彼女のその一言に込められた「本音」を、何となく感じ取っていた。
美佐さんが、小さくうなずく。
「うん、私も……もっと、本の話、したい。こうやって、みんなと」
鈴木さんは「いいね、それ」と言って、カレンダーを確認するふりをしていたけど、その目が、どこか潤んでいた気がした。
田中さんが静かに言う。
「……人って、言葉だけじゃ分かり合えないと思ってた。でも、こうやって本を通してなら、少しは通じ合えるのかもしれないな」
「……ぼくも、もっと知りたい。みんなのことも、本のことも。ちゃんと、言葉にして」
ぼくがそう言うと、莉子がチラッとこっちを見て、ニコッと笑った。
莉子だけじゃない。
みんな、どこか嬉しそうだった。
そうして、笑いながら、みんなで部室をあとにした。
「読書会もっとやりたいなんて、小林さんは読書家だね」
「好きっていうかさ、なんか……生きるのにいいじゃん、こういうの」
軽い調子だった。けど、けっして軽くはなかった。
莉子は、笑うことで自分の本音を隠す子じゃない。むしろ、笑いながら正直でいられる強さを持っている。
クラブ棟を出ると、外はまだ雨が降っていた。
地面には薄く水が張り、街灯の明かりが歪んで映っている。
空気はぬるく、どこか澱んでいて、それでも風は優しかった。
帰り道、ぼくは美佐さんと莉子と三人で並んで歩いた。
莉子が言った。
「好きなことを、語れる場所があるって、すごいことだよね……ねえ、今日の読書会、ちょっと重かった?」
「いや、すごくよかったと思う。むしろ……ぼくは今までで一番考えさせられた」
美佐さんも前を見つめたまま、ポツリと言った。
「うん……でも、なんか、胸が苦しかった」
すると莉子が立ち止まって、いきなり美佐さんとぼくに尋ねた。
「ねえ、正直に訊いていい? 二人とも、教師になりたいって思ってるの?」
ぼくは少し考えてから答えた。
「……正直に言うと、自分が教師に向いてるとは思えない。でも、人に寄り添うってことが、こんなにも難しくて、でも必要だって思うようになったのは、大学に来てからかな。美佐さんや莉子のおかげで」
美佐さんもゆっくりと言った。
「私は……教師って、『傷を抱えた子』のそばにいてあげられる存在だって思ってるの。だから、やってみたいって思えた。少しだけど、本当に少しだけ」
「へえ。二人とも、まじめ。でも、いいね。あたしなんか、ずっと『国語の先生になる』って旗ふって頑張ってきたけど……今日、ようやく『なんでなりたいのか』って、自分でちょっと分かった気がした」
オレは、この莉子の言葉にどうもわからないところがあったので、
「なんで?」
と、尋ねる。
莉子は空を見上げて言った。
「高校の時に好きだった子がいてさ、もう死んじゃったんだけど……あの子みたいに、周りに大人がいても、ちゃんと見てもらえない子って、ホントにいるんだよ……だから私、今度は『気づく側』になりたいって思った。あの子に見せたいの、今の私を」
オレも美佐さんも黙ってしまった。
やがて、莉子がフッと笑う。
「でも、いいよね……こんなふうに夜に語り合える人がいるって……」
「私もそう思う」
「ぼくも」
ぼくたちは、また歩き出す。
雨の中、一つの温もりが、それぞれの胸に灯っていた。
「じゃあねぇ!」
と手を振った莉子は、傘を差しながら先に歩き出した。
黄色のビニール傘。コンビニで買ったまま、気に入って使っているのを知っている。
スニーカーの音が、水たまりを柔らかく弾く。
まるで、リズムのある音楽の一部みたいだった。
オレは、莉子の背中を目で追う。
――この子は一人で帰るのが、似合う人だ。
その背中はすっとしていて、濡れたアスファルトの道を、まるで自分の居場所みたいに歩いていく。
けれど、似合うということが、幸せだとは限らない。
似合ってしまう寂しさが、そこにあるのかもしれない。
呼び止めようかと、一瞬だけ思った。
でもそのとき、莉子がふと振り返った。ほんの一瞬、こちらを見た気がした。
けれど顔は見えなかった。
濡れた前髪と傘の影で、表情までは読めなかった。
そして次の瞬間、クルリと向き直って、また歩き出す。
背中はもう、さっきより少し小さくなっていた。
「……行っちゃったね」
美佐さんが、ポツリとつぶやいた。
ぼくは何も言うことができず、ただ傘の下で、しばらく雨の音を聴いていた。
莉子は、泣かない。
むしろ、泣ける場所すらあらかじめ用意しないような人だ。
いつも明るくて、冗談を言って、みんなの場を作ってくれる。
でも、あの歩き方。傘を少しだけ傾けて、背筋を伸ばして歩くあの姿に、どこか、誰にも見せたくない部分を隠しているような気がした。
「強いよね、莉子ちゃんは」
美佐さんはそう言ったが、きっと本人が聞いたら、
「やだ、あたし弱虫だよぉ」
て、言うだろう。
その夜、ぼくは一人、本を読んでいたがふと顔を上げて部屋を見回した。
胸の奥にあった不安と迷いが波のように押し寄せる。
「本当にこれでいいのか……?」
莉子や美佐と語り合った言葉。
「人に寄り添うこと」の大切さ。
「ぼくは、ただ勉強ができるだけの人間にはならない。ぼくには、ぼくの生き方があるんだ」
ぼくは拳をぎゅっと握りしめ、静かに決意を固めた。
「父さんに認められるかはわからない。でも、自分の信じる道を進む。後悔はしない」
風の読点 盛本美佐
ひとひらの声が
頁を滑り落ちて
静かな水面に
小さな波紋を描いた
誰かのまなざしが
かすかに揺れたとき
名もない傷が
音もなくほどけていく
――言葉は、風
触れずに触れて
運ばれていく
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