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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第26話 声にならない想いも、読めば届く①

 この日は梅雨特有の、しとしとと雨が降り続いている日だった。


 夕方の部室では、「言の葉」恒例の読書会が開かれていた。


 鈴木さんが口を開く。


「……で、今回の課題本は2冊。まずは小林さんの推薦した山田詠美の『ぼくは勉強ができない』なんだけど……」


 ここで莉子が口を開いた。


「はい、主人公の秀美くんだけど、女の人のことばっか考えてて、学校の勉強にはまるで興味がありません。でも、感性はすごく澄んでて、ちょっとした空気とか、匂いとか、ちゃんと感じてるんですよね。で、思うんです。そういう生き方も、ありじゃないかって」


 部員たちも口々に感想を言い合う。


 比較文化学科3年の才媛、高木さんが言った。


「この作品って、『教養』とか『成長』とかの話に見せかけて、実はメチャクチャ『性』の話してるよね」


「……うん。それで私……」


 美佐さんが少しだけ目を伏せて言った。


「読みながら何回か、本、閉じちゃいました。何ていうか……上手く言えないんだけど、登場人物たちが『普通』に受け止めてることが、私には……ちょっと、怖かったんです」


 はっきり否定はしないけれど、ぼくは美佐さんの言葉にどこかこの作品に対する拒絶感を感じた。


 ぼくはそっと美佐さんの表情を横目でうかがいながら言った。


「ぼくも……ちょっと圧倒されました。すごく率直で、生き方が全部『自分の身体』でできてるみたいな主人公だったから。自分とは全然違うって思った」


 莉子は少し黙って、それから言った。


「たぶん、『自分と違う』って感じる人の方が多いんだよね。でも、そういう作品を、今こうやって読むって……なんか、いいよね。あたしは好きだな」


 「うん」


 美佐さんは小さくうなずいた。


「ちゃんと読みたいとは思った。自分の苦手なものに、ちょっとだけ触れるみたいに」


 部室の蛍光灯が、パチ、と小さな音を立てた。


 鈴木さんが言った。


「ちょっと視点を変えようか? 秀美くんと学校の関係って、どう思う?」


「そうだよねぇ」


「うん……わかる。私たちさあ、勉強できる(イコール)偉い、っていう刷り込みが大なり小なりあるよね」


 誰かがそう言うと、莉子は満足げにうなづきながら言った。


「でしょ? 私も、昔はちゃんとしてるフリして、ぜんぜん自分のこと見てなかった。グレたし。けど、あの本読んで、『ああ、自分の感覚、信じていいんだ』って思ったんだよね」


「なんか莉子ちゃんに合い会いそうな本だよね。ていうか、莉子ちゃんが登場人物の一人だったとしても、全然違和感ないわ」


 高木さんがそう言うと、みんなが笑い、莉子自身も笑った。


 莉子が言った。


「そもそも私の通ってた都立高校、国公立大学に進学する子は学年で毎年一桁台だったのよ。先生もあきらめてたし、生徒も『どうせバカだし』って開き直ってた。でも、ここで勉強しなかったら、なりたいものにもなれないって思ったの。だから勉強した」


「……へえ、そうだったんだ」


 誰かが、ため息交じりに言った。


「『このまま終わりたくない』って気持ちがあって。でもね、大学来て思った。やっぱり全然違うんだよ、最初から用意されてるものが」


「用意されてるもの、か」


と、鈴木さんが反芻するかのようにつぶやいた。


「うん。みんな子供の時から当たり前みたいに塾行ってて、親が参考書買ってくれてて、『なんか頑張ってたら普通に合格できましたぁ』って顔してる。私なんか、バイトして参考書買って、自分で全部調べて……それでなんとか合格できたのに。『本人の努力』って言うけど、スタートラインって、全然平等じゃないんだよね」


 一瞬、外の雨音が強くなった気がした。


 しばらくの沈黙の後、ここで美佐さんが静かに言った。


「私も、ちょっとわかるかも。家庭のこととか……余裕なかったし」


「だから『僕は勉強ができない』の秀美くんのこと、すごくリアルに感じた。勉強できないってだけで、大人たちに見下される。でもさ、見えてるものも、感じてることも、ちゃんとあるのに。ねえ、どうして『試験の点数』だけで人間の評価が決まっちゃうんだろう?」


 莉子のこの言葉に、その場はシーンと静まり返った。


 ややあって田中さんが口を開いた。


「……僕たち、文学サークルで読書会やってるけど、今の小林さんの話って、まさに『文学の意義』だと思う。言葉にして、気づかせる。伝える。今の話、ちゃんと覚えておくよ。ありがとう、小林さん」


「嫌だぁ、お礼なんて言われると、私、困っちゃうぅ」


 いつものように莉子はおどけて言った。


 ぼくは思った。莉子のふるまいは、自分の本当の姿を隠すためなんだと。


「主人公の秀美くんって、学校にずっと『違和感』を持ってたんだよね」


 誰かがポツリと言った。


「うん、『自分の言葉』を持ってるのに、先生たちはそれを認めない。むしろ、型にはめようとする。すごく息苦しい感じ」


 莉子がそう言うと、周囲がうなづく。


 鈴木さんが腕を組んで言った。


「僕は将来教師になるつもりだけど、正直グサッときたよ。自分もたぶん、『ちゃんとした生徒』を求めてしまいそうだなって」


「ちゃんとした生徒……って、どんな生徒?」


 莉子が問い返す。


「うぅん、例えば宿題を忘れないとか、静かに授業を受けるとか。でも、よく考えたらそれって、大人にとって都合がいいってだけじゃないかって思ってさ」


 鈴木さんが、視線を落としながら言った。


 ぼくも発言した。


「ぼく、高校は私立にいたんだけど、1学年200人いる中で、常に『真ん中』か、それ以下で……先生も上位の生徒しか見てなかった」


 誰も返せず、少し空気が止まる。


「教室の雰囲気って、『役割を持ってる人間だけが、意味を持ってる』ような気がする。静かにしてるだけじゃ、何にもならなかった」


 莉子が、ふっと眉を下げる。


「それ、わかるな……。『その他大勢』って、ちゃんと生きてるのに、名前を呼ばれない感覚っていうか」


 美佐さんは、小さく「……うん」とうなづいた。


 田中さんが言葉を継いだ。


「主人公の秀美くんみたいに、自分の言葉を持ってる奴が『うざい』って言われる空気があった。でも実は、ぼくはそういう奴がうらやましかったのかもしれない。何かに抵抗する力があるってことだから」


「教育って、『伸ばす』ことより、『揃える』ことに使われてる気がしない?」


 莉子が言う。


「個性を尊重するって建前のわりに、『出すぎる杭』は打たれるし、『目立たない杭』は放置されて錆びてく感じ」


 その言葉に、美佐さんがふと眉をひそめた。


「……でも、『打たれた子ども』がどうなるかって、誰も考えないまま時間が過ぎていく。それが、すごく怖い」


 静かな空気が落ちた。


 誰かが小さく息を吐いて言った。


「学校って、もっと『安全な場所』であってほしいよね。先生にとっても、生徒にとっても」


「うん。あと、『声をあげてもいい場所』であってほしい」


 莉子の声は、意外に静かだった。

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