第25話 子どもと向き合って、自分と出会った③
翌週。
ついにぼくは鈴木さんに誘われるまま、学習塾の講師のバイトを始めた。
ホワイトボードの前に立つと、どっと緊張した。
最初はマンツーマンだと聞いていたのに、教室では中学生が三人、席に着いてこちらを向いている。さらに後ろには、鈴木さんと塾の専任講師らしき人が立っている。
「じゃあ、この一次関数の問題……aの値を求めるには、まずxの値を代入して、yの変化量との関係を見るんだ」
――なんで、こんなにこっち見てくれないんだ?
三人のうち一人はノートに落書き、もう一人は鉛筆をクルクル回している。
手応えがない。
「……えっと、aっていうのは傾きで。つまり、『xが1増えたらyがどれだけ増えるか』っていう……」
言いながら、違和感がよぎる。
「つまり」とか「要するに」とか、言えば言うほど、彼らの目が遠くなっていく。
――ああ、これ、ぼくが嫌いだった説明と同じだ。
ぼくの耳に、父の声がちらついた。
「いいか? 理解できない奴の方が悪い。言われた通りに覚えればいいんだ」
――違う。そんなの、何か違うって思ってたのに。
じっとぼくの方を見ていた一人の男子に、声をかけてみた。
「なあ……どうすればわかりやすいと思う? たとえば、階段を登るときって、1段ずつ高さがあるだろ? それが『傾き』だとしたら……」
男子が少しだけ眉を動かした。
「……1段上がるたびに、決まった高さぶん進む、ってこと?」
「そう。それがaの正体だよ」
ようやく、言葉が届いた気がした。
――上手く言えたかどうかわからないけど……でも、少しは、通じたのかもしれない。
授業が終わり、生徒たちが帰っていく。廊下で鈴木さんが声をかけてきた。
「佐藤くん、初めてにしては上出来だったよ。『相手にわかりやすく教えよう』って努力しようとしてるって。とりあえず『合格』だってさ」
「……ありがとう。でも、難しいですね、人に何かを伝えるって」
「そりゃあ、難しいよ。でも、相手の立場で考えるって、結局それが『伝える』ってことだから」
――相手の立場で。
そう、言葉は伝わらなければ意味がない。
塾を出ると、夜とはいえムシムシする。スーパーに寄ろうと駅前の通りを歩いていると、反対側から見慣れた姿がやってくる。
「……美佐さん?」
「えっ、あっ……悠真くん!」
バイトの帰りだろうか。食品の入った袋と、それとは別に大きめのバッグに、絵本らしき背表紙がいくつも覗いている。
「帰り? こんな時間まで?」
「学童のバイト、遅くまで延長の子がいて……それから、先生とちょっと話してたんだ」
「そっか、お疲れさま」
「そっちこそ。塾?」
ぼくはうなづき、少し笑った。
しばらく、何も言わずに人の少ない通りを見つめる。
遠くで自転車が走っていく音がした。
「……子供って、ホント、いろんなこと気づかせてくれるよ」
不意に、美佐さんが言った。
「私、最初は『教える側』だって思ってたけど、違った。どうして泣くのかとか、何に笑うのかとか、そういうのを見てると、ああ、この子は今ほんとに生きてるんだなって。思うんだよね」
「……うん。わかるかも」
ぼくは、小さく息を吐いて、前を向いたまま言った。
「ぼくさ、子供時代って、ちゃんと無かったなって思うんだ。小さい頃から『T大理Ⅲに行け』って言われて、いつも親の期待に応えなきゃって……」
美佐さんは、目を伏せながら聞いていた。
「塾で、問題が解けなくて泣く子がいるとさ、なんか……自分を見てるみたいで。
『わかんない』って言えるのって、すごいなって思う。ぼくは、ずっと言えなかったから」
「……」
「ホントは、あの頃、もっと笑いたかったな。もっと、怒ったり泣いたり、したかった。でも、出来なかった……今、子供たちと接してると、そういう自分の『空白』が見えてくるんだ」
夜風がふわりと吹いて、美佐さんの髪が揺れた。
「それって……すごく、勇気のある気づきだと思う」
「そうかな?」
「うん……過去を見つめ直すって、けっこう痛いことだから。でも、それが出来る人って、きっとこれからの誰かに、何かを渡せる人だと思うよ」
ぼくは、美佐さんの方を見た。
街灯に照らされた横顔は、疲れているはずなのに、どこか静かな強さを湛えていた。
「……ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
僕たちはまた、黙って通りを見つめた。
やがて、終電間際の電車が遠くで警笛を鳴らした。
駅の時計が、22時を回っていた。
「そろそろ帰らなきゃだね」
「うん……美佐さん、気をつけて」
「悠真くんもね」
風が吹いて、美佐さんの髪の毛がまた揺れる。
駅の灯りが、彼女の輪郭をやわらかく包んでいた。
「……また、来週も読み聞かせあるんだ。時間あったら、見に来てね」
美佐さんが、少し照れ臭そうに言った。
ぼくはうなづいた。
「うん……次は、ちゃんと『聞く』つもりで行くよ」
美佐さんが小さく笑う。その笑顔は、絵本の最後のページをめくった後に残る、静かな余韻のようだった。
「おやすみ、悠真くん」
美佐さんは、夜道に溶けるような声で、そう言った。
そして小さく手を振ると、美佐さんは細い道をゆっくりと歩いていった。
その背中をしばらく見送った後、ぼくも静かに歩き出す。
街は眠りにつこうとしていて、それでもどこか、心の奥では灯りがともっているような感覚があった。
夜空には、雲の切れ間に星が一つ、瞬いていた。
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