第22話 彼女の声が、はじめて震えた日③
美佐さんの告白――。
――あの頃、母がまた新しい男と再婚して、私たちはその新しい義父と暮らし始めた。
母は昼も夜も働いていることが多く、家にいる時間は短かった。
その義父は、外では人当たりのいい人だった。近所の人からも「ちゃんと働いてくれて、いいわね」などと褒められていた。
でも、家の中では違った。
最初は、夜中に布団の上から肩を触られただけだった。
「目が覚めても、寝たふりをしてれば、朝になる」――そう思って、私は目を閉じたまま、必死に耐えた。
でも、その「触れる」は、少しずつ、少しずつ、形を変えていった。
とうとう。
「大丈夫、痛くしないから」
そうささやかれて、私は声を出せなかった。
翌日、泣きながら母に話した。震えながら、全部。
でも返ってきた言葉は、
「なにバカなこと言ってんの。お義父さんは、そんなことする人じゃないでしょ」
母は目を合わせなかった。
あの時、心が砕けた音がした。
たぶん、私の「子供」としての時間は、そこで終わったんだと思う。
誰も信じられない。
でも、本当に一人で生きていくには、私には「言葉」しかなかった。
誰にも届かなくてもいい。
ただ、自分が生きている証として――。
私は読んで、書いた。物語でも詩でも。
それが、私にとっての「生きること」だった。
そして、ただ机に向かって勉強するようになった。
教科書と問題集の中にいる間だけは、義父の手も声も届かない。
そうして私は、大学受験することを決めた。
奨学金を調べて、手続きも一人でやった。
地元の国立大学ではなく、T文科大学を第一志望にしたのは、「この家から離れるため」だった。
T文科大に合格した時、義父は小バカにしたような口調で言った。
「まあ、自分で奨学金を借りて行くんなら好きにしろ。けど、女が大学に行ったところで、何になるんだ?」
その時、初めて私は義父の顔を真正面から見返した。
私は何も言わなかったけれど、心の中で一つ、はっきりと誓った。
――私は、あなたを絶対に許さない。
そしてもう一つ。
――私は、自分の人生を生きる。誰に否定されようと、もうここには戻らない。
この美佐さんの言葉を聞いたぼくは、ただうなづくだけだった。
この痛みを軽々しく言葉にできるはずがない。
でも、たしかに感じた。
美佐さんの中にある、言葉に出来ない苦しみ。ずっと抱えてきたもの。
そして、それを今、彼女は――自分に見せようとしてくれたんだ。
「ありがとう、話してくれて」
ぼくの言葉に、美佐さんはそっと、涙を拭った。
「……誰にも言ってなかった。誰にも助けを求められなかった。友達にも、先生にも、母にも……でも、もう限界だった。誰かに……ちゃんと、知ってほしかった」
それは「救ってほしい」じゃない。
「忘れさせてほしい」でもない。
ただ、「知っていてほしい」――その願いに、ぼくはうなづいた。
「……ぼくは、聞いた。逃げないよ。絶対に」
その言葉に、美佐さんは、やっと少しだけ笑った。
その笑顔は、痛みと涙の向こうに微かに見えた、希望の光だった。
この夜を境に、ぼくは誓うことになる。
彼女の過去を、真正面から受け止める。逃げない。否定しない。断固として守る。
その夜、ぼくは机に向かっていた。
このことを言葉にしなければならない気がした。美佐さんが語ってくれたことを、どこにも届かなくても書き留めておきたかった。
美佐さんの話を聞いてから、心の中に棘が刺さったように、じっとしていられなかったのだ。
胸が苦しくて、でも、何かをしなければならない気がして。
このままでは、自分が壊れてしまいそうで。
それ以上に、美佐さんのあの涙を、ただ「知っている」だけで終わらせたくなかった。
彼女は、言った。
「誰かに、知ってほしかった」
と。
じゃあ、ぼくにできることは何だ?
言葉しか知らないぼくが、手を差し伸べる方法は?
――書こう。
彼女の物語を。
真実を、物語にして、この世界に残すんだ。
誰にも踏みにじられないように。否定されないように。
彼女の人生が、確かに「ここにあった」と、証明するために。
「文学なんて無用の長物だ!」
父に何度も言われた言葉が、脳裏をよぎる。
だが、それがどうした。
もし「無用の長物」と言われようとも、ぼくはこの手で、たった一人を救いたい。
その瞬間、ペンが動き出した。
最初の一文は、迷いに迷って、ようやく書き出された。
「彼女は、春の風のような笑顔で、生き残った」
美佐さんの声が、まだぼくの胸の中で揺れていた。
「……私は、傷なんて無かったふりをして生きてきたの……でも、本当は、ずっと痛かった」
あの時の、美佐さんの目。
声を震わせるのをこらえながら、それでも言葉にしてくれた勇気。
ぼくは、それを忘れたくなかった。忘れてはいけないと思った。
ゆっくりと、ノートの1ページ目に、ぼくは言葉を書き始めた。
それは小説ではなかった。ただの走り書きで、誰にも見せない日記のようなものだった。
けれど、そこには確かに、「彼女の物語」が宿っていた。
──彼女は、声を取り戻そうとしている。
ならば、ぼくは、それを受け止める言葉を持ちたい。
ぼくたちの「文学」は、ここから始まるのかもしれない。
そう思いながら、ペン先を進めていった。
これは、美佐さんの物語だ。
けれど同時に、これは「ぼく自身の物語」でもある。
処分されたぼくの本棚と文学全集。
でも、言葉だけは、ぼくの中に残っていた。
踏みつけられても、燃やされても、それでも生きていた。
そして今、彼女のために、書く。
彼女が奪われた「ことば」を、ぼくが取り戻す。
文学は、無力じゃない。
誰かを救う力を持っている。
少なくとも、ぼくは――救われた。
数日後の昼休み。
図書館の静かな窓辺、美佐にノートを渡すとき、手が震えた。
「……これは、まだ途中だけど。読んでほしい。美佐さんのことを、ぼくなりに書いてみた」
美佐さんは一瞬、戸惑った顔をした。だが、そっと受け取り、目を通し始める。
数分の沈黙の後、彼女は目元をぬぐった。
「……私の話、ここまでちゃんと聞いてくれてたんだね……」
「ごめん、勝手に書いた。でも、どうしても――書かずにはいられなかったんだ」
美佐さんは首を横に振った。
「……ううん、ありがとう。私、自分の人生を『物語』にしてもらえるなんて思ってなかった。ずっと、ただの『傷』だと思ってたから……」
言葉が詰まり、少し間を置いて、彼女は静かに続けた。
「悠真くんが書いてくれたなら、私、この人生を生きてきてよかったって……少し、思えた」
その瞬間、ぼくの中で、文学は「手段」ではなく「信念」になった。
もう迷わない。
この先どんなに苦しくても、ぼくは書く。彼女の人生の続きを。
この先、美佐さんと一緒に「未来の物語」を書いていくために――。
空白 盛本美佐
ことばにできない夜がある
泣くことさえ忘れた夜がある
目を閉じると、誰かの手が
鍵のかかった記憶を撫でていく
痛みは消えない
でも、手放すことはできるかもしれない
あなたが、
それを物語にしてくれるなら
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