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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第17話 ぼくの居場所に灯る火①

 文芸サークル「言の葉」、毎月恒例の読書会。


 夕方の光が部室に斜めに差し込み、テーブルの上で文庫本の文字を照らしていた。


 今日のテーマは、村上春樹の『海辺のカフカ』。


 鈴木さんが軽く手を叩き、読書会が始まる。


「じゃあ、今日は予定どおり『海辺のカフカ』。最初に一言ずつ、印象に残った場面やテーマについて話そうか。誰からいく?」


 最初に手を挙げたのは、3年生・地域社会学科の田中さんだった。普段は無口な人なのだが、何か思うところがあったのだろう。


「僕はナカタさんが好きだったな……あの猫と話せる能力とか、なんだか夢みたいで……でっ、でも同時に、現実の中で自分の居場所を見つけていく過程が、切なくもあって……」


 続いて何人かのメンバーが意見を言った。それから、莉子。


「ええっと、私はカフカくんの逃避行かな。15歳で家出して、図書館で働いて、本を読んで、ちょっと大人な恋とかして……なんか、すごいけど憧れるかも」


 続いて、美佐さんが静かに言った。


「私は、カフカくんが『世界で最もタフな15歳になる』って決意するところ……あれって、自分を守る呪文みたいに感じた。痛みからも、孤独からも……」


 一瞬、部室がしんと静まった。みんな、自分に引きつけて思うところがあったのかもしれない。


 最後にぼくが言った。


「……ぼくも、カフカくんのあの決意が印象に残ってます。逃げることって、弱さじゃないんだって、今回、『海辺のカフカ』を読み返してみて初めて思った気がします……」


 ぼくは美佐さんと、ふと目が合った。何かが交差した感じがした。


 鈴木さんが静かに言った。


「そういえば、佐藤くんは村上春樹が好きだったね……じゃあ、今日のテーマは『逃げることと向き合うこと』にして、作品全体のテーマにもう少し踏み込んでみよう。たとえば、『父親から逃げる』という物語の根幹について、どう思った? 自由に話そう。順番とかなくていいから」


「まずさ、カフカくんって、結局どこに行きたかったの? 家出するんだけど、逃げ場所って図書館じゃん。理想郷? 母性の象徴? でもそれも、幻だよね」


と、莉子が言った。


「うん。でも、そうでもしないと生きていけなかった」


 美佐さんがそっと言った。


「父親から呪われて、自分に理由がないまま『汚される未来』を信じ込まされて……あの追いつめられ方、ちょっと、わかる気がした」


 不意に、静寂が落ちた。


「でも、カフカくんってさ、あれ、自分で『世界でいちばんタフな15歳』とか言ってるじゃん?」


 莉子がページをめくりながら言った。


「なんか、背伸びっていうか、強がってるよね」


「強がらないと、生きていけなかったんだと思う」


 そう言う美佐の声は静かだった。


「居場所もなくて、未来も不安で。でも、誰にも頼れなくて……だから、タフでいようとするしかなかったんじゃないかな」


 ぼくの言いたいことは、喉まで来ていた。


「それ、わかるよ」って。


 けど、それをみんなの前で言葉にしてしまうのが、まだ怖かった。


 自分の過去は、まだここでは「仮面の下」に隠しておきたかった。


「逃げ出すって、結構勇気いるよね」


 鈴木さんが言う。


「でも、それで『自分で選んだ自由』を得ても、その先には孤独しかないっていう……」


「その孤独が、図書館とかナカタさんとか、象徴的なものに支えられてるのがいいなって思いました」


 美佐さんが応じた。


「私、ナカタさんが『バカ』って言われるけど、実は一番真っ直ぐな人だなって思った。世界とちゃんと向き合ってる」


 ぼくは、その言葉にどこか救われる思いがした。


 ――向き合うことを、あきらめてないんだ。


 莉子がふと、ぼくの方を見た。


「悠真くんは、誰が一番好き?」


「……そうだな。やっぱりカフカくん、かな」


 ぼくは視線を下に落とし、ちょっと考えてから口にした。


「理由は……たぶん、『何かを捨てなきゃ前に進めない』ってことを知ってたから。そういう人間って、ホントは弱いけど、強くあろうとするじゃないですか」


「なるほどね……ホントは一番もろい。だからこそ、『強くならなきゃ』って、自分に言い聞かせてるようにしか見えない……あたしたちだって、そうだよね」


 莉子の声が、少しだけ低くなる。


「親に見放されたり、頼れなかったり……でも『大学生なんだから』って言われて、ちゃんとしてるフリしてさ……ホントはまだ、さまよってるのに」


 誰も言葉を返さなかった。


 その静けさは、たぶん痛みの共有だった。


「カフカくんも、ナカタさんも、ホシノさんも、『完全』じゃない。むしろ壊れてる。だけど、壊れたままで、つながろうとする」


 美佐さんが言った。


「そういう関係、私たちにもあるのかもしれないって思えた」


 ぼくはフッと外を見た。


 空がゆっくりと暮れていく。薄明のなか、富士山が淡くシルエットになっていた。


「結局、文学って、答えをくれるわけじゃないよね」


 田中さんが小さな声でつぶやいた。


「でも、少なくとも、『独りじゃない』って思える。それは、すごいことだなって思う」


「深いですねぇ」


 田中さんの言葉に、莉子が感心したように言う。


「てか、あれって父親との関係が闇すぎて。呪いとか言いながら、めっちゃリアル」


 ――……呪い、か。


 ぼくは無言で目を伏せた。


 その沈黙を、美佐さんだけが感じ取っていた。


 彼女の指先が、机の下でほんの少し動いた。


 声は出さずとも、そこに「わかってるよ」という気配があった。


 誰にも気づかれない、小さな共犯関係。


『海辺のカフカ』は、そんなぼくたちを映す鏡のように、静かにそこにあった。

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