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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第16話 ことばが二人をつなぐ③

 その日、ぼくと美佐さんは並んで部室を出た。


 ぼくの頭の奥には、莉子の「露悪と誠実は紙一重だよね」なんて言葉が引っかかっている。


「……ねえ、盛本さん」


 ぼくは小さく言った。


「はい?」


「他人のことを書くのって、やっぱ怖いなって思う。誰かをモデルにしたり、家族を登場させたり……下手すると傷つけるし、書く自分の方が怖くなる」


 美佐さんは少しうなずいてから、黙って次の言葉を待った。


「でもさ。じゃあ『自分のことだけ書けば安全』かっていうと、それも……ある意味、逃げなのかなって。自分に都合よく書いちゃうし。醜いとこだって、ちゃんと見られてるかわかんない」


 柔らかい風が、道の脇の若葉を揺らしていた。


 夕暮れの空は群青に染まりかけ、西の端には、富士山がうっすらと黒いシルエットを描いている。


 空気はほんの少しひんやりして、昼間の暖かさが嘘のようだった。


 美佐さんは立ち止まり、ゆっくりとぼくの方を振り返る。


「じゃあ、佐藤くんは……どんなものが書きたいの?」


 ぼくは言葉に詰まり、少しだけ前髪をいじった。美佐さんは、ぼくの返答を待っている。


 美佐さんの目は、真剣だった。でも、どこか温かい光を湛えていた。


 ぼくは少し考えてから答えた。


「今を、そのまま写すんじゃなくて……『これから、どうやって生きていくか』まで考えるものを書きたい」


 ──そうだ、自分が書きたいものは、ただ暴いたものじゃない。暴いた後に、どうやってそれを見つめ、抱えて、生きていくかという視点のものだ。


 それを聞いて美佐さんは、また歩き出す。ぼくもその後を追う。


「……私は……」


 美佐さんは少し考えてから、笑った。


「……『この物語を誰かに読んでほしい』って思えるようなもの。独りよがりじゃなくて。でも、どこかに自分の体温が残ってるような……そういうものを書きたい」


「それ、いいね」


 ぼくがそう言うと、美佐さんは満足げにうなづいた。


「今まで……お互い、言葉にできなかったもの、いっぱいあるじゃない? それを、一緒に、少しずつでも形にできたらって思うの」


 笑顔だったけど、その目は本気だった。


「……うん。書こう。盛本さんとなら、書ける気がする」


「文学の中に、自分の居場所を作ってみよう」という、小さな決意。


「これから二人で書いてみよう。そして、この『封印された原稿』の封印を解くんだよ」


 それはまだ、拙く、不完全な始まりだった。


 でも、その日、ぼくたちの間には、確かに「言葉」が生まれ始めていた。


 別れ際に美佐さんは、また足を止めた。


「……そうだ……謝らなくちゃって思ってたの」


「えっ?」


「佐藤くんって、私より年上だったんだね。今日まで知らなかった……ずっと、年下みたいに喋ってた」


「いいよ、別に……盛本さん、そんなこと、気にしなくても……」


「でも……言い方とか、嫌じゃなかった?」


「いや、むしろ慣れてたし。あんまり気にしてなかった」


「でも、私が気にするの。だから……ちゃんとしたい」


「……これから、何て呼ぼう?」


 一瞬だけ、風が二人の間を通り抜けた。


 遠くから電車の走る音がして、鳥の影が一つ、富士山の上を横切っていく。


「じゃあさあ」


 ここで美佐さんは、今思うと大胆な提案をしてきた。


「……これからお互いの呼び方を変えてみない?」


 ドクン、とぼくの心臓が跳ねる。


「えっ、たとえば……?」


「だいたい『盛本さん』なんていつまでも他人行儀じゃない? 第一、『佐藤くん』、いえ、『佐藤さん』の方が年上なんだし……」


「いや、いきなり『佐藤さん』なんて呼ばれても……」


「……だからぁ、いっそ、お互い名前で呼ぶのはどう? フェアでしょ?」


「……名前呼びか……じゃあ、ぼくは『美佐さん』……って呼んでいい?」


 声に出した瞬間、なんだか背筋がゾワッとした。


 こんな短い名前に、これだけの破壊力があるなんて、知らなかった。


「うん、じゃあ私も『悠真くん』って呼ぶね」


 美佐さんがニッコリ笑ってそう言った時、ぼくの中で何かが確実に変わった気がした。


 空気の温度。歩幅のリズム。心の距離。


「いや、でも『美佐さん』なんて呼ぶのは……なんか、照れるな……」


「すぐに慣れるわよ。『悠真くん』」


 お互いを名前で呼ぶこと。たったそれだけで、まるで「特別な関係」になったみたいで、こそばゆい。でも、心地いい。


「話は変わるけど……うちのサークルでは毎年、学園祭で同人誌の販売をするの」


「へえ、そうなんだ」


「そこにね……今、私たちが書いている小説を載せたいのよ」


「てことは……この作品も冊子になって、売られる、公開されるってこと?」


「そう。これ、本気で世に出したいんだ」


 その表情は、どこか決意めいた静かなものだった。


 それは、この小説を書くことが僕にとって冗談でも遊びでもなくなった瞬間だった。


 ぼくの胸の奥で、何かが音を立てて弾けた。


 ぼくはゆっくり、でもはっきりとうなづいた。


「わかった。だったら、ぼくも本気で自分を書くよ」


「……ありがとう」


 美佐さんは、心からの笑顔を見せた。


「じゃあ……また明日ね、悠真くん」


「……ああ。じゃあね、美佐さん」


 その名を口にするたび、ぼくの胸の奥がじんわりと熱を持つ。


 ぼくたちは、ここで別れて歩き出した。


 振り返りはしなかったけれど、背中にまだ相手の気配が、ほんのりと残っていた。


 その時、ぼくの心のどこかで、一つの灯がともった。


 それはまだ、かすかで頼りない光だったけれど――。


 確かに、ぼくを前へと導いてくれる、小さな希望の灯だった。


 もう、他人のふりなんてできないくらい、ぼくたちは近づいていた。




     言葉のともしび    盛本美佐


 本棚のない部屋で


 言葉をひとつ ひとつ 拾った


 誰にも届かない声でも


 私の中で 灯っていた

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