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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第15話 ことばが二人をつなぐ②

 でも――ぼくはこの時、気づいていなかった。


 彼女の目の奥に、まだ語られていない影があることに。


 言葉にはされなかった過去。


 それは、まだ彼女の胸の奥で、封印されていたのだ。


 ぼくは、何か言葉を発そうとした。でも、うまく口が動かなかった。


 ただ、彼女の語った本の無い家、学ぶことを嗤われる環境、そんな中で言葉を求めて手を伸ばした少女の姿が、痛いほどリアルに浮かんで離れなかった。


――なんか、ぼくと……似てる。


 そう思った瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。


 ぼくもまた、「勉強しろ」と叱られ続けていたのに、「なんのために勉強するのか」を誰にも教えてもらえなかった。大学に行くのが当然とされた家で、でも、そこに言葉はなかった。正解だけがあって、感情は要らないと言われ続けた。


 でも、美佐さんは違う。


 何もない場所から、言葉を、文学を、自分の力で探しに来たんだ。


 誰も応援してくれない中で、それでも「行きたい」と思ってここまで来たんだ。


「……すごいよ、盛本さん」


 この時、ぼくがようやく絞り出したその言葉は、あまりに稚拙で、自分でも情けなくなるほどだった。


 けれど、それ以上の言葉が、どうしても出てこなかった。


「ぼく……家には本はあった。親も『大学に行け』って言ってきた。でも、それは……『レール』だったんだ。ぼくはただ、乗ってただけ。自分の足で歩いてなんかいなかった。 盛本さんの話、聞いて、思ったよ。ぼく、何も考えてなかったんだなって」


 静かにうつむくと、美佐さんは少し驚いたようにぼくを見つめて、やがて、ふっと微笑んだ。


「……でもね……」


 美佐さんがポツリとつぶやいた。その声は、かすかに震えていた。


「それでも……私、今でも、自信なんてないんだよ。大学に入っても、授業についていくのがやっとで……周りの子たちは、当たり前みたいに本を読んで、知ってることが多くて。私は、いつも、何かが足りないって思ってる」


 視線を落とし、指先で自分の髪の端をいじりながら、彼女は続けた。


「誰かに『文学好きなんだね』って言われても、胸を張れないの。『うん、大好き』って言いたいのに……頭のどこかで、『本物じゃない』って声がするの。田舎育ちで、教養もなくて、言葉も下手くそで……そんな私が『文学』だなんて、似合わないって……」


 ぼくは、何も言えなかった。ただ、美佐さんのその言葉を、沈黙のなかで受け止めることしかできなかった。


 ぼくの胸の奥に、どこか焦げつくような感情が生じた。


 どうして、こんなにも真っ直ぐで、優しい人が――自分のことを「本物じゃない」なんて思わなきゃいけないんだ。


 ぼくなんかより、ずっと勇気を持ってここまで来た人なのに。


「……そんなこと、ないよ」


 ようやく、それだけが口をついて出た。


「盛本さんは、本物だよ」


 彼女がハッとしたように、ぼくを見る。


 言葉に詰まって、でも、どうしても伝えたくて、ぼくは続けた。


「ぼくには分かる。だって……盛本さんの言葉には、ちゃんと痛みがある。ちゃんと、生きてる人の言葉なんだ。そういうの、嘘じゃ書けない。教養とか、育ちとか、そんなもんじゃないよ……本気で何かを好きだって思えること自体が、もう、すごいことなんだ」


 言いながら、自分でも少しだけ恥ずかしくなる。けれど、それは確かに、ぼくの本心だった。


 美佐さんは、少しだけ目を見開いて、それから、そっと笑った。


 その笑顔は、ほんの少しだけ泣きそうで、でも、どこか安心したような――そんな、不思議な表情だった。


「……ありがとう」


 それは、たぶん、さっきのぼくと同じように。


 胸の奥に、長く絡まっていた何かが、少しだけ解けた瞬間の言葉だった。


 しばらくのあいだ、ぼくたちは黙っていた。


 でも、それは気まずい沈黙じゃなかった。


 ことばにならないものたちが、互いの間をゆっくりと流れていた。


 重たい過去も、不安も、孤独も――それら全部を包むような、静かな沈黙だった。




 その時。


 廊下の方から笑い声が近づいてきた。サークルの仲間たちが連れ立って歩いてきたらしい。


 ギィィィッ。


 ドアが開く音。


「あー、やっぱ、ここにいたぁ!」


 一番に声をかけてきたのは莉子だった。手に文庫本を持ったまま、ぼくたちの前にやってくる。


「まぁた二人で小説書いてんの? 青春だねぇ」


「いや、別に書いてないけど……」


 ぼくが少し気まずそうに言うと、すぐ後ろから来た田中さんが笑った。


「あれ? 榊先生の講義受けた後でしょ? なら、『自然主義ごっこ』してんじゃないの?」


 莉子がそれに食いつく。


「あぁ、いいですねぇ、『文学的暴露大会』! あたしらもやる? 告白できなかった初恋とか、部室のトイレで泣いた話とか!」


「誰がそんなこと話すかよ……」


 ぼくが苦笑しながら言うと、美佐さんもクスッと笑った。ほんの数分前まで自分の過去を語るのに震えていたのが、嘘みたいだった。


「でも、ちょっとだけ、楽になったかも」


 美佐さんが小さくつぶやくのを、ぼくはそっと横目で見た。莉子たちはすぐに次の話題で盛り上がり始めている。


「で、自然主義といえば、これよ。『中年男が弟子の女の子に欲情して、家族裏切ってグダグダになる話』――田山花袋『蒲団』!」


 莉子は手にしていた文庫本の中から田山花袋作『蒲団』を取り出し、そういいながらテーブルの上に置いた。


「紹介、雑すぎるだろ……」


 ぼくは思わず苦笑する。


 田中さんが腕を組みながらボソボソと言う。


「でもまあ、あながち間違ってないよな。初めて読んだ時は、ちょっと……不快だったけど。あんな内面、わざわざ書かなくてもって」


 莉子がうなずきながら、眉をしかめた。


「あたしもそう思った。『正直であればあるほど偉い』っていうの、何か気持ち悪くない? ただの自己弁護にしか見えない時、あるよ」


 美佐さんが、少し考えるように言葉を繋ぐ。


「……でも、あの時代に、ああいう『感情の本音』を書いたこと自体は、すごかったんじゃないかな。『言っちゃいけないこと』を文学として書く、っていうか」


 莉子はそれを聞いて、しばらく沈黙した後、ポツリと漏らした。


「たしかに、黙ってたら『無かったこと』にされるもんね。書くことでしか、残せないこともある……でも、『正直』と『正当化』って、紙一重じゃん? 読んでて『うわ、こいつ最低』って思った時に、『でもこれは文学だから』って言われたら、モヤるんだけどなぁ」


「『露悪』を『誠実さ』とすり替えてるように感じるってことか」


 今まで黙ってぼくたちの会話を聞いていた鈴木さんが、つぶやくようにそう言うと、莉子は指をパチンと鳴らして言った。


「それそれ! 言いたかったのそれっ!」


 みんな一斉に笑った。笑いの中に、どこかヒリついた思索の名残があるのが、このサークルらしかった。


 露悪か、誠実か。語ることでしかたどり着けない何かが、たしかにそこにはあった。

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