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虐待で心に傷を負ったぼくと彼女が地方公立大学で出会い“ことば”と“居場所”を取り戻すまでの物語  作者: 喜多里夫


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第13話 過去からの距離③

 美佐さんは目を細めて、榊教授の言葉を思い出すように言った。


「『恥を晒すのも、勇気』か……あの先生、たまにグサッと来るようなこと、言うよね」


「うん……さっきの講義、ぼくはちょっとキツかった」


「なんで?」


 美佐さんの問いに、ぼくは一拍、間をおいて口を開いた。


「……ぼくさ、ずっと黙ってたけど……本当は二浪してるんだ」


 美佐がゆっくりこちらを向く。目は驚きよりも、静かな関心を湛えていた。


 声は震えていたけれど、確かに自分の意志で、口を開いた。


 美佐さんは、すぐにふっと微笑んで、


「そうなんだ」


と、言ってくれた。


 否定もしない、驚きすぎもしない。まるで、そんなことはどうでもいいことのように。


 その受け止め方に、ぼくは少しだけ呼吸が楽になった。


 けれど、本当に言わなきゃいけないのは、その先だ。


 ――どうして二浪したのか。どうして、ぼくは「T文」に入学したのか。


 言わなきゃ前に進めない。彼女と、ちゃんと向き合いたい。


 でも、喉の奥が苦しくなって、言葉がつかえてしまう。


 逃げたい。けれど、逃げたくない。


 ぼくはその間でグラグラ揺れながら、それでも、少しずつ少しずつ、言葉を繋いでいった。


「……ぼくが高校を卒業する直前、T大生だった兄が死んだ……」


 口に出した瞬間、心の奥の痛みがジクリと滲んだ。それでも、美佐さんは黙って待っていてくれた。


「ぼくの父は……T大出の医者でさ。都内で5代続いた病院の院長なんだ。で、兄とぼくは昔から『T大理Ⅲに入れ』って言われ続けてきた。物心ついた頃にはもう、それがぼくの『当たり前』だった」


 美佐さんの視線がぼくの横顔に注がれる。優しい眼差しが逆に痛い。


「中高一貫の私立の男子校に行かされて、塾も予備校も、父の選んだところだけ。父の意に沿わないものは、全部『無駄』って言われて切り捨てられた」


 少し笑ってみせたが、自分でもその笑いが乾いているのがわかった。


「五つ上の兄貴は勉強できたから現役合格したんだ。T大理Ⅲ……でも2年生の時に冬山登山で遭難して死んじゃった……父はぼくに何としても病院の跡目を継がせるべく必死になった……成績が悪いと、父からは殴る蹴るさ……でも、ぼくは、現役でも、一浪しても、二浪しても、合格することができなかった……父の望んだ未来は、ぼくには無理だったんだ。でも、それが許されなかった……」


「……でも、二浪まで頑張ったんだよね……」


 美佐さんの言葉に、ぼくは小さくうなずいた。


「でも、もうこれ以上は無理だと思った……心が壊れかけてた……受験に失敗して飛び降り自殺する夢まで見るくらいに……で、ぼくは父に内緒でこっそり中期日程でT文を受けたんだ。文学部国文学科……ぼく、ホントはずっと、文学部に行きたかったから……」


 美佐さんの瞳がほんの少し潤んだ気がした。けど、ぼくは話を止めなかった。止めたら、もう一生言えないような気がしたから。


「T文科大学の合格通知が来た日、父にそれを見つかって……ぶん殴られた。父は『お前なんか息子じゃない!』って叫びながら、オレを殴り続けたよ。ぼくは、笑ってた。もう、どうでもよかったから……」


 沈黙が流れた。風の音だけが、遠くでざわついていた。


「……でもさ、ぼく、最初から文学を学びたかったんだ。小説が好きで、ことばが好きで、ずっと読んできた……でも、それはわが家では『許されないこと』だったんだ」


 ぼくの声は、ゆっくりで、いつもより低かっただろう。


 美佐さんは、何も言えずにじっと聞いていた。


 そこまで話して、ふと気づいた。


 美佐さんが、じっとこちらを見ていた。涙こそ流れていないけれど、その瞳はまるで、自分の痛みを抱きしめるように深く、優しく、静かだった。


「ぼくは受験に失敗して、逃げるようにこの町へ、この大学へ来たんだ」


 言い終えたあと、ようやく呼吸ができた気がした。


 それは、たぶん、美佐さんがいてくれたからだ。


 美佐さんの前だから、言えたんだ――この言葉を。過去を。


 しばらくのあいだ、言葉は無かった。


 美佐さんは、ずっとぼくの目を見ていた。逃げるでも、見透かすでもなく。ただ、そこにある痛みを、そのまま見つめるように。


 時計の針の音がやけに大きく響く。窓の外では、初夏の風が木の葉をかすかに揺らしている。


 けれど、その静けさの中で、美佐さんの肩が、小さく震えていた。


「……ごめん、なんか、変な話して」


 ぼくがうつむいたまま言うと、美佐さんはゆっくりと首を振った。


「変な話なんかじゃない。全然……そんなのじゃないよ」


 声がかすれていた。涙が今にもあふれそうな目で、美佐さんはぼくを見つめていた。


「それって……それってさ、教育虐待だよ……教育の名のもとに、全部、お父さんの自己満足じゃない?……プレッシャー押しつけて、支配して……」


 言葉の途中で、彼女の頬を涙が一筋すべった。掌で拭っても、またこぼれてくる。


「どうして……そんなの、誰も止めなかったの? 家族とか先生とか、周りの人とか、気づいてたはずなのに……!」


 美佐さんの声が震える。怒りとも、悲しみともつかない感情が、言葉ににじみ出ていた。


「佐藤くん……あなたのお父さん……悪いけど最低だよ。最低……そんなの、親じゃないよ……」


 最後の言葉は嗚咽にかき消された。美佐さんはギュッと両手を握りしめて、泣いていた。


 その泣き方は、自分の心の奥底にも重なる痛みに耐えきれなくなったような、そんな泣き方だった。


 美佐さんの泣き声が、静まり返った部屋に優しく響いた。


 ぼくはうつむいたまま、何も言えなかった。


 美佐さんがそこまで感情を揺らしてくれたことが、胸の奥で静かに響いていた。


「……苦しかったよね……ずっと一人で、誰にも言えずに……耐えてたんだね」


 美佐さんの声には、怒りの棘がもうなかった。


 代わりにあったのは、胸の奥からにじみ出たような、静かで深い優しさだった。


 ぼくは何かを言おうとして、けれど、喉の奥がつかえたままだった。


 でも、何も言わなくても、いいと思った。


 この沈黙の中に、すべてがあった。




     それでも手を伸ばす   盛本美佐


 つめたく閉ざされた声の奥に


 まだ、だれにも触れられていない傷があった


 わたしはただ、そこに座って


 言葉より先に、手を伸ばした

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