第10話 ざわつく言葉③
ところが、次の莉子の言動がこの局面を変えた。
莉子はぼくをかばうように、ぼくとその男との間に割って入り、片脚をドンと痴漢の方へ向けて突き出すと、ドスの利いた低音で怒鳴った。
「はぁ? おい、こら、てめえっ! あたいの『彼氏』に何をした?」
予想外の反応だったのだろう、男が一瞬ひるんだ。
その瞬間――。
ガッ!
大きな音がした。莉子の掌底が、男の胸元を正確に打ち抜いた。男は、バランスを崩して車両の柱に頭をぶつけた。
「ギャッ!」
悲鳴とともに男は頭と胸を押さえてしゃがみ込んだ。周りの乗客がざわつく。
「きゃぁぁっ!」
「警察呼んでぇぇっ!」
「なにこの子、強っ……!」
莉子は平然として言った。
「すみません、痴漢です! 誰か駅員さん呼んで!」
乗客の中にいた若い女性が非常ボタンに駆け寄り、車両内は一時騒然となった。
その後、事情説明のためにぼくと莉子は途中下車。結局、痴漢は駅員に連れて行かれ、ぼくたちはそのまま帰ることになった。
大学前駅に着いた時には、もう真っ暗な時間になっていた。
夜風がホームを吹き抜ける。
「……すごかったね、さっきの」
「ん? ああ? あんなの、昔は日常茶飯事よ」
「……それにしても、言葉遣い、急に変わった?」
「あっ、バレた? あたしね、下町生まれの下町育ちなんだ。昔ちょっとだけヤンチャしてた。空手もやっててさ、二段なんだ」
「……いや、『ちょっとだけ』なんてレベルじゃなかったと思うけど……」
言いながらぼくは思わず笑いがこぼれた。莉子も「へっ」と鼻で笑いながら肩をすくめた。
「……でも、佐藤くん、ごめん。ケガさせちゃって」
「いや……ぶん殴られるのは慣れてるからさ……」
ぼくは顔をしかめながら笑ってみせる。
彼女は、思いがけず、ふっと笑った。
「なに言ってんの……でも、かばってくれたんでしょ。ちょっとは見直したかも」
「ちょっと、だけ?」
「うん。まだ、ちょっと」
そう言うと莉子はそっと、ぼくの顔に指を触れた。
その指先が、火照った頬に優しかった。
その時、ぼくは莉子の普段とは別の面を見たような気がした。
莉子は真面目な顔になって言った。
「佐藤くん、山田詠美の『ひよこの眼』って、読んだことある?」
「『ひよこの眼』? ううん、覚えがない」
「何でよ!? 国語の教科書にも載ってたじゃん!」
莉子はそう言ってぼくをにらんだ。ぼくが、
「教科書の教材なんて、会社によって違うよ」
と言うと、莉子はその小説の説明をし始めた。
「まあ、いいわ……その『ひよこの眼』ってね、転校生の男の子が親と心中するっていうか、心中させられるっていう話なの」
そこで莉子は、いったん言葉を切った。
「……あの子、転校してきてすぐにいなくなっちゃったの。親と一緒に。あたし、ちゃんと好きって伝える前だったけど、きっとあの時、好きだったんだと思う」
莉子は遠くを見るような目をしたまま、淡々と話す。
「その頃、読んだの。『ひよこの眼』……ひよこみたいに目を閉じるしかなかった、って。あれ、あたしだって思った」
「莉子……」
「なんか子供ってさ、親の言いなりになるしかないっていうか、どうしようもないものを背負ってるんだよね……あっ、急に変なこと言ってゴメン。暗いかな?」
ぼくはこの時、確信した。
――莉子も何か重いものを背負ってるんだ……。
ぼくは莉子と別れてアパートへ帰った。
寝る前。携帯の光だけが部屋を照らしていた。
布団に倒れ込んで、ぼくは天井を見つめていた。
東京からの帰り道。莉子のあの一件の後、どこか頭の中がフワフワしていた。
莉子の意外な一面に驚かされ、笑ってしまった。でも、笑った後で、なぜか少し胸が痛かった。
スマホを手に取り、LINEのトーク画面を開く。
盛本美佐。
名前の下の、最後にやり取りした時のメッセージが表示されていた。
「今日は図書館、ありがとう。楽しかったです」
その文字を見て、少しだけ罪悪感がこみ上げた。
――でも、何も隠したくなかった。
迷いながら、指を動かす。
悠真:
今日、小林さんと一緒に文学館や神保町を巡ってきました。
帰りの電車でちょっとした事件があって……
莉子さんに手出しした痴漢にやられそうになったけど、莉子さんが返り討ちにしてくれました(笑)
実は空手二段らしいです。なんというか……すごい人ですね。
ぼくは目の周りがマンガみたいにあざができてます。
数分後、既読の表示がつく。
しばらく返事は来なかったが、やがてポン、と返信が届く。
美佐:
それは……大変でしたね。
莉子さん、強いんですね。すごい。
悠真くん、ホントに大丈夫?
文面からは莉子に対する感情は読み取れなかった。でも、それがかえって胸に刺さった。
美佐さんはきっと、気を遣っている。
寂しさも、嫉妬も、全部飲み込んで「すごいね」と言える人なのだ。
ぼくはもう一度スマホを構え、続けて打った。
悠真:
でも、正直に言うと……
盛本さんと過ごした時間のほうが、ずっと落ち着いてて、心に残ってます。
あの図書館の帰り道のこと、まだ考えてました。
どうしても、盛本さんに伝えておきたくて。
既読にならないまま、時間だけが過ぎていく。
それでも、送ってよかったと思った。
美佐さんに伝えたいことが、少しずつ見えてきた気がしたから。
届かぬ風 盛本美佐
春風にまぎれて言えぬこの胸を
笑顔の裏に そっと隠してしまう
あの子みたいに まっすぐになれたら
言葉ひとつで あなたに届くのに
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