第9話 ざわつく言葉②
「ねえ、ここ、ずっと来てみたかったの!」
莉子はスマホをポケットにしまい、嬉しそうに振り返る。
GW中の一日、ぼくは莉子に誘われるまま、朝早くに中央線の快速に乗って東京へ出た。
莉子のミニスカートから覗く太腿がまぶしい。挑発的と言ってもいいくらいだ。
近代文学館。煉瓦造りの落ち着いた建物の中、明治から昭和にかけての作家たちの手稿や初版本が並ぶ。
ガラス越しに見た、太宰治の走り書き。谷崎潤一郎の肉筆原稿。
「佐藤くん、筆跡って、その人の呼吸が見える気がしない?」
「……うん、たしかに。声にならなかった言葉まで感じる気がする」
莉子は目を細めて、展示に見入っている。
その横顔は、教室で見るときよりずっと落ち着いていて、大人びて見えた。
お昼は、莉子が前からガイドブックを見て目をつけていたという老舗カレー屋へ。
ビーフカレー。最初に出てくるじゃがいもとバター、濃厚なルーと欧風の香り。
「ほら、食べてみて。絶対ハマるから」
彼女のテンションは少し高め。そして、店の雰囲気も、食事も、どこか非日常的だった。
「大学の近くにも、こういうお店あればいいのにね」
「うん。でも、たまにだからいいんじゃない?」
目が合った。数秒、何も言えずに視線を外す。
たぶん、莉子は笑っていた。
そして午後は神保町の古書店街へ。
久しぶりに訪れたそこは、思った以上ににぎやかだった。
通りに面した古書店の軒先には、文庫本や全集、色褪せた絵本まで所狭しと並べられ、風に紙の匂いが混じっていた。
古書店街の並びを歩きながら、莉子は表紙をなでるようにして棚の本をめくる。
「こういう古本屋って、宝探しって感じしない?」
手にとったのは、旧仮名遣いで書かれた岩波文庫版の『こころ』。
「あ、これ、高校の時にやったよね。ねえ、読んでいい?」
人目もはばからず、莉子はその場でパラパラとページをめくると、その一節を朗読しはじめた。
「……私はまず『精神的に向上心のないものは馬鹿だ』といい放ちました。これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。私は彼の使った通りを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです……」
少し低めの、落ち着いてよく響く声。
人目が気になりつつも、ぼくはなぜか、その声に耳を澄ませてしまっていた。莉子は意外とこういった作品も好きなのかな、と。
新刊書店にも立ち寄った。色とりどりの背表紙が並んでいる。
「わあ……テンション上がる。ねえ、佐藤くんって村上春樹以外にどんな本、好きなの?」
莉子がウキウキと足を止め、棚を覗き込む。スカートの裾が揺れ、明るい声が街並みに溶けていく。
「うーん、小説も読むけど、思想書とか、歴史ものも好きだよ。あと、詩集も時々……」
「へえ、詩かあ。あたし、詩ってちょっと苦手なんだよね。なんか、回りくどいっていうか、言いたいことはっきり言ってくれた方が楽じゃん?」
笑いながら言う莉子に、ぼくは言葉を返せなかった。
莉子の明るさがまぶしくて、けれど、その無邪気さが、どこか心の柔らかい部分に触れた。
――そうか、きみには、この感情は届かないかもしれないな。
そんな思いが胸をかすめる。金子みすゞの詩の言葉が頭に浮かんだ。
「でも、佐藤くんっぽいかもね、詩が好きって。繊細そうっていうか、静かな世界が似合いそう」
莉子は悪気なく笑った。
その笑顔に、ぼくは笑い返すふりをした。
けれど、その瞬間、脳裏にふと浮かんだのは――美佐さんの、静かで透明な声だった。
言葉の重みを、大切にしていた彼女の姿だった。
帰りの中央線。夕方が近づき、車窓には東京の街が次第に色を失っていく。
ぼくの隣に立っていた莉子は、少し疲れたように息を吐いた。
「ねえ、今日……楽しかった?」
「うん。すごく」
即答すると、彼女はほんの少しだけ笑った。
「あたし、こういうの、初めてかも」
「何が?」
「ちゃんと、誰かと一日中、話して歩いて……『普通のデート』って感じ」
そう言って、彼女は横を向いた。
「普通」という言葉に、少し引っかかりを覚える。
彼女の「普通」は、どんな意味を含んでいるのだろう。
新宿を過ぎたあたりで、莉子が小さく言った。
「ねえ、今度はもっと遅くまで一緒にいようよ」
――これは好意か? それともただの好奇心なのか?
そう思うと、ぼくは上手く答えられずに、曖昧に笑った。
車内は混雑していた。
ぼくは莉子の前に立ち、彼女は吊り革につかまりながら、窓の外を見ていた。
そんなぼくたちに、他人の肩や鞄が押し寄せる。
「けっこう混むんだな……」
「そうねぇ、GW中だから仕方ないか」
莉子は手帳型のスマホケースをパタンと閉じ、悠真の隣で小さくため息をついた。
その時、莉子の顔色が変わった。
「……ちょっ……ヤバい。後ろに痴漢、いる……お尻触られてる……今、手がスカートの中に……」
莉子がぼくの耳元でささやいた。
莉子の背後にヤンキーがそのまま年をとったような見た目の中年のおっさんがいた。
「ええっ!? だっ、大丈夫? オレ、言うわ!」
と、ぼくは莉子の耳元で早口で言った。
「やめときな。佐藤くん、絶対やられるタイプ」
莉子は止めたが、ぼくは黙っていなかった。オレより一回りは身体がでかいおっさんだったが……。
「おい!」
「ああ? 何だよ、ぼうず?」
三白眼で睨まれたが、ぼくはひるまなかった。
「何だとはなんだ。今、彼女に痴漢してただろ?」
「言いがかりだろ。知らねえよ」
「シラを切る気か?」
「うるせえ、この野郎っ!」
ガンッ!
オレはいきなりおっさんに殴られた。
「きゃぁぁぁぁっ!」
近くにいた女性の一人が悲鳴を上げた。周囲の他の乗客もこっちを注目する。
目頭が熱くなった。切れたらしい。
――くっ、情けない。やっぱりぼくは「絶対やられるタイプ」だ……。
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